表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

胡散臭くて過保護な蜃と半人前の夢喰い獏さん【後編】

鞄を胸に抱え。逃げ出す機会を伺う獏子に白縹の男は眉を下げ。誓ってお嬢様を傷付けるような真似は致しませんと両手をあげると運ばれてきた苺のタルトをフォークでひとくち。紅茶をふたくち口に含み。お嬢様好みの味ですよと怪しく笑う。


近頃、節制の為。無駄な出費を減らすために。甘いものを食べる機会を減らしていた。獏子は迷った末に嘆息し。紅茶を口に含み。舌先に痺れがないのを確かめてから。苺のタルトをフォークで切り分け口に運ぶ。


じんわりと口のなかに広がる苺の甘味。瑞々しく果汁が溢れてくる。生地のザクザクとした食感も小気味良い。ああ、夢でみた通り。此処の苺タルトは美味しいと。


ほわりと纏う雰囲気をやわらげてちまちまとタルトを食べ進める獏子を白縹の男は目を細めて眺め。綺麗にひと欠片も残さずに食べ終え。カップを両手で持ち。紅茶を味わいながら飲む獏子に口を開く。


「この店で働きたいと直談判されたとお聞きしましたが。」


獏子は目を丸くした。なぜ、夢のなかでの出来事をこの男は知っているのだろうか。

白縹の男はあれは夢ではないと芝居かかった仕草で首を振る。


「ひとの世に居場所がないと思われたお嬢様が無意識に自分を求める場所を探して。私らの居る狭間に迷いこんでいたんですよ。狭間にはお嬢様を必要とする私らが居ましたからねぇ。私らがお嬢様を引き寄せてしまったんでしょうなァ──。」


そのことに気づいて手前らがお迎えにあがる前にお嬢様はこの店を見つけて。働きたいとまさかの直談判。


「この店の主はたいそう慌てたでしょう。なにせお嬢様は手前らが働く獏やの。大店のお嬢様ですからね。」


お嬢様を奉公人として顎で使うなど手前らが許そうはずがないと。ええ、その通り。食い扶持を自分で稼ごうというお考えは立派ですが。お嬢様は獏やの身代を継ぐ大事な跡取り。


ゆくゆくは獏やを背負って立つ御方だ。あまり他所さまを困らせてはいけませんと。嗜めるように苦笑する白縹の男に獏子は困惑する。


「誰かと勘違いしていませんか。私は一般家庭の普通の人間です。それに狭間とか。獏やとか。貴方の仰有ることの意味が私にはわからないし。貴方はいったい何者なんですか。貴方は私をどうしたいんですか···!」


「····しくじった。先代に。おばあさまから聞かされていたものとばかり。粗忽でした。お嬢様を怖がらせるつもりなどなかったんだが。申し訳ない。私は獏やで番頭をしている蜃治郎。獏やを取り仕切らせて頂いています。」


獏やとはこの世とあの世の狭間に店を構えるひとの夢を薬に変じて売り買いする薬種問屋のようなもの。店子も。お客さまも。尽く、ひとあらざるものばかり。


「私の本性は蜃──。やはり人間ではございません。」


お嬢様は覚えておいでかと白縹の男。蜃治郎は鞄を指差し。亡きおばあさまから貴女に贈られた煙管に私はいたと微笑む。獏子は促されて。鞄から藍染の手拭いに包んだ煙管と煙草入れを取り出す。


祖母の形見。獏子の御守りであったそれは祖母から贈られた時のままの姿でそこにはあった。


蜃治郎は菱形の瞳孔をキュッと細めて。ああ、大事になさってくだされていたかと綻ぶように笑う。あの日、煙管を抜け出して空に消えた龍が蜃治郎ならば。


(···どうして今になって私の前に現れたの?)


獏子の疑問に答えるように蜃治郎は口を開く。


「お嬢様に獏やを継いで貰う為、ですよ──。」


先代が出奔してからというものの。獏やは三人の番頭が己こそが獏やの次の主だと反目しあい。互いに蹴落とそうとするそれは酷い有り様。


「そこで大旦那さま。既に隠居していた先代のお父上に。曾孫に当たる獏子さまを次の獏やの主に据えるべきだと注進申し上げた。」


「私を···?どうして私なんですか。私はただのどこにでもいる一般人です。なんの取り柄もなくて困るような可も不可もない普通の人間で、」


「貴女には夢喰らう獏の血が流れている。お嬢様は間違いなく獏やの身代を継ぐべき方だ。」


獏やの主は貴女以外に考えられない。大旦那さまをそう説き伏せ。お嬢様をお迎えする為に私は獏やに奉公することにしました。お嬢様を跡取りに据えるに当たり。喧しく騒ぎ立てる者たちも居るには居ましたが。


やっと番頭になり黙らせられだけの権限を得ることが出来ました。もう口出しをする輩は獏やには居りません。


「ようやくお嬢様に獏やを継いで貰う為の下地が整った。あとはお嬢様。貴女を獏やにお迎えするだけなのですよ。」


「わからない。貴方はなぜそこまでして私を店の主にしたいんですか。」


「貴女というひとに心から惚れ込んでいるからですよ。」


「···胡散臭い。なにか裏があるようにしか思えません。私はひとに好かれるような秀でたものはない。それを誰よりも理解しているのは他ならぬ私自身なんです。」


私は貴方を信用することが出来ない。いえ、はっきり言って貴方を信じるだけの理由が私にはない。


「私は後ろから背中を刺されるのだけは御免です。」


「ええ、お嬢様の懸念は当然のこと。」


私を疑って然るべきでしょう。ですが私はお嬢様を裏切りません。例え天地が逆しまになったとしても。


「私はお嬢様の味方でいると己が名に誓います。この心とこの身すべてを賭けて私は貴女を獏やの主にしてみせると────。」


「私は貴方のその熱意が怖い。それに貴方の申し出を断るとは思わないのですか。」


「お嬢様。貴女は私の申し出を断りませんよ。」


「言い切るんですね。」


「えぇ、貴女は必要とされたいと心から願っている。そして居場所が欲しいと。その二つを叶えましょう。───貴女の望みは獏やでこそ叶う!」


きっと差し出された手を拒むことが出来なかった時点で獏子の未来は定まったのだ。

蜃治郎の手を取る。途端に周りの景色がぼやけ始め。泡となって溶け出していく。


身体を強張らせた獏子を引き寄せて腕に抱えて。蜃治郎は参りましょう、狭間の地に。獏やにと立ち上る泡のなかでうっそりと笑った。


ああ、早まったかもしれないと。蜃治郎の胡散臭い笑みに後悔し。こぽこぽと口から気泡が溢れるなか。分厚い水の膜に包まれるような感触に目を思わず閉じ。不意に身体を包む膜が弾けた。


肌を撫でたのは涼やかな風。ざわざわと息づくひとの気配に促され目蓋を開く。

そこは異形の闊歩する不可思議な街だった。ひとのようでひとではないモノが練り歩き。和洋が入り乱れ。大正モダンな建築物があるかと思えば。時代劇で見掛けるような平屋造りの木造の建築物が建ち並ぶ。


まるでパッチワークのように異なる時代の異なる様式のものが雑多に。しかし秩序を持って混ざっている。


蜃治郎は目を丸くする獏子に微笑み。お嬢様なら、直ぐに慣れますよと獏子の手を取り。迷いのない足取りで通りのなかで。もっとも店構えの広い大店に向かい。


獏子お嬢様のお戻りだとよく響く声で。店のなかで算盤を弾いたり。掃除をしていた店子に告げる。瞬間、歓声が弾け。獏子は二足歩行する猫や。縁起モノのさるぼぼのような姿をしたものだとか。鱗を持ったり。角を生やしたひとではないなにかに囲まれて思わずすがるように蜃治郎の手を強く掴む。


くつくつと笑いながら蜃治郎は彼らは獏やの店子。お嬢様を傷付けるようなことはしません。

さあ、今宵はお嬢様が獏やにお戻りになられたことを祝って宴だ。準備をしておいでと促すと賑やかに異形の店子たちは店の奥に消えていく。


蜃治郎は満足げに頷いたあと。さあ、お嬢様。宵の口まで時間がございますし。部屋で一息つかれてはと獏子を店の奥の住居に当たる場所に案内して。後程、女中を寄越しますと話して。宴の準備をすると言って慌ただしく立ち去り。


藺草が香る畳敷の部屋に獏子は残され。去り際に素晴らしい手際で蜃治郎が淹れたお茶を飲む。


新緑色をしていて。渋みはなく。仄かにとろりとした桃の香りがする緑茶が喉をするりと流れ落ちていき。獏子は静かに嘆息を吐く。わからないことだらけだがなにか大変なことになってしまったということだけは肌身で感じている。


けれども鬱々としながら職安所に通っている時よりも心は何故だか弾んでいる。夢でも見ているようだと獏子は頬を摘まんで、引っ張る。痛みはあるし。夢を夢だと認識出来る獏子はこれが夢ではないとわかっているけれども。


不思議なことが起きすぎて現実だという実感が湧いてこないが。一人きりになると言われるがまま蜃治郎に着いてきてしまったのは迂闊過ぎたかもしれないと。ようやく獏子の理性的な部分が主張してくる。


此処がどういうところなのか見て回るぐらいは良いだろう。それにいざとなったら逃げようと。勝手口を探しに獏子は部屋を抜け出した。


さわさわと。葉が生い茂る木々のざわめきのように家屋全体に賑やかな声が響き。耳を済ませば店子だろうひとではないなにかの囁きが聞こえる。


ああ、めでたやと声を。足音を響かせながら宴の準備に追われている。

獏子は獏やの店子たちが浮かれれば浮かれるほどに疑心が募る。

店子たちがなぜそこまで獏子を歓迎するのかわからないと───。


歓迎する理由もわからず。ただ流されるままこの獏やの主に収まることなど出来ない。


お嬢様という耳障りの良い言葉で心を擽られ。自分がなんだか価値のある人間と錯覚してやいないかと獏子は自問自答するとぺしりと自分の頬を叩いた。


「百歩譲って私がこの獏やの身代を継ぐべき人間であったとしても私は獏やがどういった商いをしているのかまったく知らない。それを知ってからでないと獏やの主になると安易に言えない。」


「ああ──。それに自分で気づけたなら上々だとも。ちょいとばかり押しに弱い気が。ああ、いやアレの押しが強すぎるだけか。商人としちゃ押しが強くなけりゃいけないが。アレは強すぎだ。」


獏子の独り言を拾うように掛けられた言葉に獏子は小さく跳ね。心臓が飛び出しそうな胸を押さえて振り返る。そこには絶世の佳人が居た。


腰まである艶のある黒髪は毛先にいくにつれて白く。その美貌から女性にも見えるが聞き心地の良い声は低く太い。


背丈は蜃治郎ほどではないが高く。彼岸花が描かれた白地の着流しに黒い絽の羽織を肩に着た男は白目が黒く緋色の瞳孔という風変わりな目に獏子を写して。


よく顔を見せておくれでないかと固まる獏子の顔を優しく両手で挟んで。額と額がくっつくほどに顔を近づけ。


うん。お前さんは娘に良く似てると得心したように満足げに笑う。突然、ひとあらざる美貌を間近に眺めることになり。心臓をどぎまぎさせる獏子の手を取って。この獏やがどんな商いをしているか。じいさまが教えてやろうなと歩き出した。


「え、あの···!」


「獏やはひとの夢を薬に変え。ひとあらざるものたちに売る──。ひとあらざるものたちにとって獏やの売る薬は老いたモノを若返らせ。死を望むモノに幸福な終わりを与える特別な代物。替えが利かないものだ。」


その特別な薬を作れるのは獏やの主だけ。ひとの夢を薬に変じることが出来るのは。ひとの夢を手繰れる儂ら獏だけだ。


「だからこそ。蜃治郎のヤツはお前さんを獏やの主にと推すのさ。まあ、それだけがお前さんに入れ込む理由ではなさそうだがな。」


美貌の男は獏子を壁すべてが百味箪笥になった部屋に導く。


促されるまま部屋に獏子が足を踏み入れた途端に百味箪笥の引き出しが勝手に飛び出し。芳しい香りを放ち始めた。

百味箪笥。いや、引き出しのなかに入っているモノが香気を放っているのだ。


その香りを嗅いだ獏子のお腹が鳴る。腹が空くような良い匂いかと美貌の男に問われ素直に頷けば美貌の男はこの百味箪笥の中身はひとの夢だと語り。獏やの主が代々引き継ぐ優れもんでなァ。無作為に。この百味箪笥のなかにひとの夢が集められると語り。


これとこれは商売もンだが。こっちの飴色の箪笥は自家用だ。好きに喰って構わねぇが。素材をそのまま喰うのはよろしくない。


それそのままじゃ毒気が強いもんもあるからなと。部屋に置かれた薬研の前に獏子を座らせて。

儂がやり方を教えてやるから。拵えてみると良いと飴色の箪笥から宙色の珊瑚の枝のようなものを取り出すと。かじってみなと美貌の男は獏子にひと欠片折ったものを手渡した。


食べて支障はないのかと迷ったが匂いに釣られて恐る恐る口に運ぶ。

生の山椒をかじったような舌先が痺れる鋭い辛さに思わず涙が滲む獏子に美貌の男はからからと笑い。


な、毒気が強いだろうと語り。獏子に薬研で擂り潰すように告げ。百味箪笥から次々に漢方の生薬の材料のような。けれどもそれとは異なると分かる奇々怪々な品々を取りだして薬研に放り込んでいく。


水晶で出来た百合を最後に乳鉢で砕き。粉になったそれを薬研の中身と混ぜて木型に押し込み力を入れて成型。出来上がったのは黄昏の空を固めたような丸薬だった。橙色から次第に深い青色に変わる美しい球体。


美貌の男は出来を確かめるように木型から一粒取り出してころりと手のひらに転がすと躊躇いなく口に放り込む。薄氷を割るような音を奏で。丸薬を咀嚼し。


美貌の男はクハッと噴き出したあとニンマリと笑い。初めてにしちゃ上出来だと獏子の頭をわしわしと撫で。お前さんも食べてみなと促す。美貌の男のように手のひらで転がし。


意を決して口に放り込む。ころころと口のなかで溶けるか試し。

熱では溶けないのかと奥歯で噛み砕いた途端に口腔に溢れた濃密な香りと舌に広がった複雑な味。


「にんにくと醤油。そして鶏肉の旨味の詰まった脂──!!唐揚げの味がするぅ!?なんで!?」


美貌の男は獏子の驚愕に満ちた顔を見てダハハッと。その美貌からは想像しづらい豪快さで笑ってお前さん。相当、腹を空かせてたんだなぁ。それを作るとき。唐揚げが食いたかったんじゃないかと目尻に浮かんだ涙を払い、獏子に問う。


そろそろ夕飯時。確かにお腹が空いていた。ついでに宴と聞いて唐揚げがあったら良いなぁと。

蘆屋家のお祝い事の席には欠かせない唐揚げに想いを馳せていたと頷くと美貌の男は調合する過程でどうしても作り手の想念が混ざると木型から丸薬を取り出して。


ポップコーンを摘まむようにひょいひょいと口に運び。うん、唐揚げ味か。悪かねぇなと笑い皺を目尻につくって笑い。此処に酒でもあれば言うこと無しなんだがなァと部屋の入り口に目を向け、ニマニマする。


美貌の男の視線を辿って振り返る。部屋の入り口には膝から崩れ落ちた蜃治郎が居た。その白縹の髪が毛先から朱色に染まり。ざわざわと蠢くなか血涙を流さんばかりに美貌の男を睨み。


お嬢様の初めてを奪われたと酷く嘆く蜃治郎に獏子はピシリと固まり。美貌の男はブハッと噴き出して噎せる勢いで笑うと。


悪いな、蜃治郎。指南役は儂が貰ったと獏子の肩を抱き。獏のことは獏に。曾孫の面倒は曾祖父の儂に任せなと。口惜しがる蜃治郎にニマニマとしながら告げたのだ。


「曾祖父···?」


「おぅ。蜃治郎のヤツに聞いてなかったか。儂は玄冬。お前さんの曾祖父だ。気楽にじいさまと呼んでくれや。」


「私と同年代にしか見えないひとをおじいちゃん呼びはちょっと。」


「獏子お嬢様。大旦那様が若々しいのは見た目だけのこと。ただの若作りの爺です。大旦那様のことは躊躇いなく爺とお呼びして構いません。」


「若作りねぇ。歳で言えばお前の方がうんと年寄りだろうに。爺に爺呼ばわりされて腹が立ったことだ。此処にある獏子が初めて拵えた丸薬はぜんぶ儂が喰う事にした。」


木型に残っていた丸薬をひょいひょい摘まんで再び食べ始めた玄冬に蜃治郎はやることが大人げないと顔をしかめ。玄冬が持つ木型を奪おうとするも。


玄冬は素早く身を翻して獏子の旋毛に口付け。またあとでなと笑い背中に般若を背負って見える蜃治郎をからかい。煙のようにその場から消え。あとには膝から崩れ落ちた蜃治郎と仄かに頬を染める獏子が残された。


お嬢様が初めて拵えた貴重な丸薬。是が非でも手にいれたかったと髪を元の白縹色に戻し。本当に血涙を流す蜃治郎に獏子は驚き。一粒だけならありますよと玄冬に釣られて食べようと指で摘まんだままだった丸薬を蜃治郎に見せた。


あ、でも。見た目にそぐわぬ唐揚げ味なので。期待されるようなものじゃないかもだと頬を掻く獏子に蜃治郎は丸薬を受け取ると満面の笑顔で大事に保管しますと告げ。いそいそと懐紙に包んで懐に仕舞う。その無邪気なさまに警戒心が緩やかに溶ける。


(このひとの好意は雑じり気のないものだ。どうしてこんなに好かれているのか。その理由はわからないけれども────。)


「ねぇ、この獏やがどんな場所で。どんな商いをしているのか教えて。」


「大旦那様からお聞きになられたのでは。」


「うん。聞いたよ。でも貴方からはまだなにも聞かされてはいない。貴方の口で。貴方の言葉で知りたいんだ。これから長い付き合いになるんだから。···相方になるひとのことは知っておきたいもの。」


獏子も詳しい訳ではないけれども。商家の番頭は主人の右腕のようなものであった筈だし。相方と呼ぶべき存在だろうと考えて。そう、告げたのだが。


蜃治郎は目を見張り頬を仄かに染め。にこやかに。ええ、私はお嬢様の相方ですからねとそわそわし。こほんと咳払いをして朗々と語り出す。


金色の瞳を細めながら蜃治郎が笑う。ひとのみる夢はこの世ならざるモノからすれば薬にも御馳走にも。


「───毒にもなる。だが、ひとの夢はそれそのものだけでは意味をなさない。夢に手を加え。お客様が望む形にしてお出しするのがこのお店。獏やだ。」


界隈ではかなりの大店だが唯一夢を手繰れる先代が駆け落ちしてしまって跡継ぎが居ないまま開店休業の有り様。


「ええ、店子もお客様も待っていました。先代の血を引く貴女が此方に来るのをずうっと首を長くしてお待ち申し上げていた。」


ひとの世に居場所はなく生きづらい。かといって彼岸に招かれるほどではない。であれば此処等でひとつ私ら狭間の者たちと共に。この世とあの世の間で生きてみては如何かな。


「此方でやっていけるか御不安ですか?ああ、どうかご安心を。獏や番頭。私、蜃治郎が責任を持って。お嬢さんをこの獏やを背負って立つ立派な主人に育てあげて見せましょうや───!!」


とても胡散臭い。というより。なにかしらの悪事の黒幕のような。その笑顔、口振りと仕草に心からの信頼を寄せるにはまだ難しいけれども。

祖母は言ったのだ。きっとこうなることを見越し。


“───あれは融通は利かなくて。やたらに胡散臭いし思い込んだら猪突猛進なところがあるけれども主には一途だから獏子のことを陰日向になって必ず守ってくれるわよ。”


祖母のことなら信頼出来る。信頼する祖母が言うのだから。胡散臭いと嫌煙せずに向き合ってみよう。獏子は知らないことばかりだ。蜃治郎のことも。獏やのことも。そして自分自身のことさえもあまりよく分かっていない。


知らないものばかりなことはとても怖いことだけど。わくわくとする。呼ばう声に気づき。蜃治郎は宴の準備が整ったようです。参りましょうと手を差し出し。獏子は確かに自分の意志で蜃治郎の手を取った。


これは半人前の獏が過保護で胡散臭い蜃に導かれて。突然継ぐことになった大店を次々に降って湧く難題を解決しながら。どうにかこうにか切り盛りしていく繁盛記の始まりの話────。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ