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胡散臭くて過保護な蜃と半人前の夢喰い獏さん【前編】

白縹の男が金色の瞳を細めながら笑う。ひとのみる夢はこの世ならざるモノからすれば薬にも御馳走にも。───毒にもなる。


だが、ひとの夢はそれそのものだけでは意味をなさない。夢に手を加え。お客様が望む形にしてお出しするのがこのお店。獏やだ。界隈ではかなりの大店だが。


唯一夢を手繰れる先代が駆け落ちしてしまって跡継ぎが居ないまま開店休業の有り様。ええ、店子もお客様も待っていました。先代の血を引く貴女が此方に来るのを。ずうっと首を長くしてお待ち申し上げていた。


ひとの世に居場所はなく生きづらい。かといって彼岸に招かれるほどではない。であれば此処等でひとつ私ら狭間の者たちと共に。この世とあの世の間で生きてみては如何かな。


「此方でやっていけるか御不安ですか?」


ああ、どうかご安心を。獏や番頭。私、蜃治郎が責任を持ってお嬢さんをこの獏やを背負って立つ立派な主人に育てあげて見せましょうや───!




ひとはこの世に産まれたときから夢をみる。科学者からすれば夢とは脳が意識的に記憶を整理する為に作り上げるものであり特別なものではないのだと言う。


夢に意味はない。ただの記憶の反芻でしかないというのならばひとはなぜ夢に特別な意味を見出だそうとするのだろう。ただの記憶の焼き直しでしかないそれにひとは古来からなにか不思議な力があると考えた。


例えば予知夢。これから起こるだろう出来事を夢で先んじて見たのだとひとは語る。

予知夢の他に夢のなかで亡きひとに出逢い。語らい。故人しか知り得ない事柄を当てたり。隠されたものをみつけたという話はこの科学全盛の時代にあってもそう珍しい話ではない。


本当かどうかは重要ではない。重要なのは人間にとって夢とは誰しもが当たり前のように不可思議な力を。魅力を感じるものであるということだ。


一日の終わりに眠りにつき。夢を見ているときにそれが夢だと認識することがある。蘆屋獏子は昔から夢のなかでそれが夢だと半ば認識し。夢から覚めてもどんな夢を見たのか。ハッキリと思い出すことが出来る。


そう学生時代に親しい友人に話せばサルバドール・ダリと同じだと言われて獏子は戸惑った。チーズのように溶けた時計を描いた風変わりな絵描き。その肖像を頭の片隅から引っ張りだし自分はあんなにも愉快な髭は生やしてはいないと。


心底、不可解と表情で語る獏子に芸術科の徒である友人は笑いながら。サルバドール・ダリは夢で見たものを絵にしたのだと語る。夢で見たものを直ぐに描けるよう。眠るときに椅子に座って口にスプーンをくわえ。


その落ちる音で目を覚まして忘れないうちにスケッチを残すということもしていたと獏子に教えた友人とは。大学を卒業後に疎遠になり。


一年に一度。年始の挨拶を葉書でやり取りするだけの関係になってしまって。学生時代、どんな話で盛り上がったのか朧気だが。未だにこのときのダリの話は鮮明に思い出せる。


有名な芸術家と同じと言われ。つい嬉しくなったせいだろう。獏子は根が単純であるので数少ない特技をなんだか褒められた気がしたのだ。


そう、特技。特に誰かの役に立つ訳ではない。けれども誰かを困らせる訳でもない。だからわざわざ。自分は夢をみるとそれが夢だと直ぐに気づけるなんて。よっぽど仲の良い相手にしか言わないが。


獏子の数少ない特技が夢を夢だと認識出来るということだった。


それともうひとつ。そう、もうひとつ獏子にはひとに公言はしないが夢に関係する特技がある。獏子は不思議なことに手を繋いで一緒に眠ると相手の夢のなかに渡ることが出来るのだ。


このことに気がついたのは獏子がまだ幼稚園の時だった。お昼寝の時間に眠りたくないと泣く女の子がいた。あだ名はさっちゃん。笑うと笑窪が出来る可愛い子だ。


なんでも近頃寝る度にピエロに追い掛けられる夢を見るらしい。さっちゃんは数日前にサーカスでピエロに会い。風船を用いたパフォーマンスを見たのだが。あの独特のメイクがたいそうおそろしく。チワワを模した風船を貰ったけれども泣き出してしまったそうだ。


この時に会ったピエロが頭に焼き付いてしまったらしく。可愛くディフォルメされた大手ファーストフードのキャラクターも怖がるようになっていた。


眠りたいのに夢を見るのがいやで眠れない。そう俯くさっちゃんに獏子は怖いなら手を繋いでいてあげる。


一緒に寝れば怖くないよと自分の敷き布団をさっちゃんの敷き布団にくっつけて手を繋いで眠ることにした。


無理をしていたのだろうか。直ぐに寝息を立てたさっちゃんに誘われて獏子も意識を手放したのだが。水の膜を通るような感覚がしたかと思えば獏子は暗がりのなかでイルミネーションで飾られた巨大なテントのなかにいた。


これは夢だなと獏子は直ぐに気づくも。自分が見ている夢ではないとなんとはなしに察した。なぜかと言われたら夢は獏子にとっての遊び場だ。


楽しい遊具が沢山ある公園みたいなもので。このとき違う公園に来てしまったような違和感が獏子にはあったのだ。自分の夢じゃない。


となれば誰が見ている夢なのかという疑問は直ぐに明らかになる。粘土細工で作られたぐにょぐにょと蠢くピエロに腕を捕まれて。檻に入れられそうになって泣きべそをかいているさっちゃんが居た。


獏子は駆け出して。テントの隅で寝ていたライオンを起こし。その背に乗ってピエロを撥ね飛ばす。粘土細工のピエロはどうにかこうにか起き上がるが獏子の号令でステージで玉乗りを披露していた虎に踏んづけ。


こねこねと前肢でこね繰り回され可愛らしいチワワになった。獏子は目に溜めた涙をそのままに。パチパチと目を瞬かせるさっちゃんに笑う。


ほら、もう怖いものは居ないよと手を差し出したところで目が覚め。欠伸をしながら身体を起こすとちょうどさっちゃんも目を覚ましたところだった。


目線があい。さっちゃんは獏子に抱き着き。すごいよ、ばくちゃんと興奮ぎみにはしゃぎ。夢のなかでばくちゃんがこわいピエロをやっつけてくれた!


ピエロが可愛いチワワになっちゃったとさっちゃんは語る。それから何度か。夢を見るのがいやで寝たがらない子に付き添い。手を繋いで眠ることが何度かあり。自分はどうやら手を繋いだ相手の夢のなかに入れるらしいと獏子は気づいた。


とは言え確証がある訳ではない。限りなく低い確率だが偶々似通った夢を同時に見たという可能性もある。けれども獏子と手を繋いだ相手は悪夢をみないという話は子供たちの間で流行り。


しかし興味関心が移ろいやすい子供たちはその必要がなくなるとあっさり獏子の見せた特異性を忘れ去った。


獏子に助けられ暫くの間獏子にひっついていたさっちゃんも。直ぐに別の子供と遊ぶようになり。幼心に獏子はひとの心の移ろいやすさになんとも言えぬ寂漠感を覚えた。


そんな獏子にあらあらと笑って人間というのは忘れっぽい生き物だからねぇと頭を撫でたのは獏子の祖母だった。


何時も小粋に小袖を着て煙管を吹かし。平屋造りの隠居所で活け花をひとに教えている。両親が共働きで。よく祖母に預けられていた獏子は。祖母の娘である母よりも祖母に似ていた。


食べ物の好み、物の考え方。歩き方の癖。笑うときの仕草等。挙げだせばきりがないほど良く似た孫の獏子を祖母はよく隠居所の縁側で膝に座らせて。雀よりもお喋りな獏子のなにかと拙い話に耳を傾けていた。


幼稚園での出来事を語れば。祖母はふくふくと笑いながら変なヤツだと爪弾きにされなかっただけマシだと思わないとねと獏子に言い聞かせた。獏子は口を尖らせ。憮然としながらも。


なぜ自分はひとの夢のなかに入れるのか訊ねた。祖母は獏子の頭を撫でながら私が夢を喰らう獏だから。孫のあなたもひとさまの夢に入るぐらい簡単に出来るのよと語る。


あなたは獏の孫。だから名前も獏子と付けたと話す祖母に獏子が動物園で見たマレーシアバクを頭に思い浮かべると。祖母はそのバクではないわと煙管に煙草を詰め。口にくわえると火をつけていないにも関わらず煙が立ち登り。


祖母が煙管の吸い口から口を離してふっと紫煙を口から吐き出せばなんとも表現しづらい生き物の形を煙が象った。多種多様な生き物が混ざりあった。不可思議な姿。


これが獏か。祖母に問うと笑って頷き。獏はひとの夢を喰らう生き物で転じてひとの悪夢を吉夢に変えるようになったと語り。まあ、もっとも獏は夢の扱いに関して言えば右に出るものがいないから。


何時からか夢を喰らうだけじゃなくあっちこちから集めたひとの夢を薬種問屋を真似てみて。捏ねたり切ったり煎じたりして薬に変えて売り買いするようになってねぇ。


獏やという屋号の大店にまでになったと誇らしげに言ったあとに祖母はバツが悪そうにして。


私は店を継いどきながらうちのひとと駆け落ちしちまった放蕩娘。獏やの敷居はもう跨げないわと苦笑し。獏子なら。或いは獏やを継げるかもしれないわねと煙管と煙草入れを渡す。


私の祖父から形見として譲り渡されたものよ。自分で主を選ぶ変わり者なのだけども。獏子なら上手く御せるでしょうと語る祖母から煙管を受け取る。


朱色の地に。白縹色の龍が絡み付いた煙管はひんやりとしていて手によく馴染んだ。目を伏せていた白縹色の龍がきとりと獏子を見詰め。


するりと煙管から抜け出し獏子の手首に絡み。腕をぐるりと回りながら登り。ふっと空に登って消えた。

龍が逃げちゃった。嫌われたのかなと祖母の膝の上で狼狽する獏子に祖母はくすくすと笑って。


その反対だわね。あれは私に似たあなたに相当入れ込んでるからねぇと目を細め。ああ、しくじったと頬に手を当てる。獏子のこと。獏やに知らせにいっちまったと微かに眉をしかめ。


でも、悪いことにはならないでしょうと。不安げな獏子に微笑んだ。あれは融通は利かなくて。やたらに胡散臭いし思い込んだら猪突猛進なところがあるけれども。


主には一途だから獏子のことを陰日向になって必ず守ってくれるわよと優しく獏子の頭を撫でた。


祖母が死んだのは獏子が七歳の時だった。昨日まで元気にぴんしゃんとしていた祖母が亡くなった事実を上手く飲み込めない獏子を置いてきぼりにして。滞りなく葬式がいとなわれるなかでその弔問客は現れた。


青を含んだ白。白縹色の髪をゆるく緋色の組紐で結わえた喪服の男が祖母の葬式に現れた。若い頃はバレーの選手だったという父よりも高い上背の白縹の男は弔問帳に名を書き。


ざわつく人目など気にせず焼香をあげ。納棺まで見送った。あれは誰だったのか。四十九日が終わり。納骨の日に男は再び現れた。白縹の男はなぜか獏子にしか見えておらず。


今度は誰も騒ぐことはなかった。納骨が終わり。その日は祖母の隠居所に寝泊まりすることになった獏子は。


隠居所の庭。あの縁側で祖母がよく世話を焼いていた紫陽花をぼんやりと眺める喪服の白縹の男を見つけ。サンダルを突っ掛けて庭に下り。その袖を掴み。ああ、幽霊じゃないんだなとまじまじと眺めた。


「私に御用で···?」


一生懸命見上げる獏子に気遣い。膝を屈めた白縹の男を間近に見た獏子はもじりとした。白縹の男は恐ろしく顔が整っていたからだ。


凛々しい柳眉。目は切れ長で。鼻筋はスッと通っているし。唇はやや薄いが形が良かった。顔立ち自体は彫りが深く精悍という言葉がよく似合う。


肌は白く。ともすれば青ざめてすら見える。容姿のなかでもっとも印象深いのはその涼やかな白縹色の髪と冴えざえとした満月のような金色の瞳。


煙管の龍と同じ目だと獏子は白縹の男の瞳が菱形に裂けていることに気づいたあと。ひとをじろじろ見るのは失礼なことだと母にたしなめられたことを思いだし。視線を少しさげて。


おばあさまと仲の良いお友だちだったのかと訊ねた。白縹の男は苦笑を溢して。私があの方の友など烏滸がましいですが。ええ、仲の良い友人でしたと語り。


故に別離は格別なまでに辛いと泣き顔を晒すまいと目線をあわせる為に屈めていた膝を戻し。片手で目を覆い。

しかし手の合間から涙をいく筋も流し。息を詰まらせ。時に震わせながら獏子の祖母の死を悼んでいた。


こんなとき祖母ならなんと慰めただろう。


獏子はどれだけ祖母に似てはいても祖母そのものではない。

必死に考えてみたけれども白縹の男にかける言葉が見つからない。

だから獏子は白縹の男のもう片方の手を握り。ポツポツと。俄に降り始めた雨に濡れながら。白縹の男にただ寄り添った。


母屋から自分を呼ぶ母の声がした。白縹の男は未だに泣いている。どうしたものかと悩んでいると雨がやむ。

不思議なことにあれだけ雨に濡れていたのに服は乾いていた。


そのことに驚くよりも早く。いっこうに顔を見せない獏子に焦れ。獏子を探して母が縁側から庭に下りて急に居なくなるんだもの。かあさん心配したわと獏子を抱き締める。


かあさんはこのひとを知っているかしらと獏子が後ろを振り返ると白縹の男はもうそこにはいなかった。最初から白縹の男などそこにはいなかったかのように───。


やっぱり、あのひとは幽霊だったのかなと獏子はまだ自分の手に残る白縹の男の手の感触を反芻する。白縹の男の手は祖母から貰ったあの煙管のように硬くてひんやりとしていた。


月日、流れ──。獏子は大人になった。頑是ない幼子ではなくなり。己を獏だと語った祖母の言葉を。そのままそっくり信じるほどもう純粋ではない。だが祖母の半生が謎に包まれていることから獏の孫という空想を胸に抱いたままでいた。


祖父と出逢う前。祖母がどこで生まれ育ったのか母ですら知らないというのだ。ついでに言えば正しい生年月日も。もちろん、戸籍はあるが。元からあったものではなく新しく作られたものであるらしい。


その時に生年月日は適当に決めたと祖母は語っていたという。そんなことが出来るのかという獏子の問いに戦後間もない頃の話だからと母は苦笑した。


世界を巻き込んだ動乱が終息して復員したばかりの祖父がどこからか連れてきたというひとりの浮世離れした女性に親族は当然どよめいた。


なにか訳ありなことはその言動から察していたけれども。仲睦まじい若夫婦を前に口をつぐむことにした。

経歴も不明で生年月日すら本当ではない。謎に包まれた祖母が言うのだから。


「案外獏が正体でも可笑しくはないのかもしれないなんて流石に夢見がち過ぎるかもしれない。」


その日、職安所の帰り道に立ち寄ったコンビニで獏子は一番やすい弁当を買って公園のベンチで食べていた。


先客の眠たげな三毛猫の隣で揚げ物の油を吸ってふやけたマカロニサラダを口に運ぶ。可もなく不可もない味わいにまるで自分のようだと自嘲が零れた。


大会卒業後。就職した会社が裏帳簿を作って脱税をしていたらしく。税務署の指導が入るも立ち行かなくなり倒産。それ以来、幾つもの会社を転々としているけれども。どこにも馴染めず。職安所を巡る日々を過ごしていた。


可もなく不可もない扱いづらい経歴なせいか。次の就職先が未だに見つからない。世を儚むほどではないが漠然と自分の居場所がどこにもないと思い。必要とされたいと感じるせいか。


このところ寝ているときに夢を見るのだが見慣れた地元の街のなかに。あるはずのない店を見つけては此処で働かせてくださいと直談判していた。


昨日は赤く艶のある大粒の苺の美しいタルトを出すパティスリーを夢に見た。

店内で食べたその苺のタルトの美味しさはまさに夢見心地で。その美味しさに惚れ込み。此処で働かせて欲しい頭を下げた。


せめて夢のなかでぐらい働きたいと心から思った場所で働けたらと。けれども店の主に慌てた様子でなぜかうちで働かせることは出来ないと断られ獏子は悄気た。


きちんと夢を夢だと認識しているのだから。自分の思い通りに運びそうなものだというのにそこだけ思い通りにならないことに嘆息する。夢も現実とさして変わらないらしい。


儘ならないものだと弁当を食べ終えて鞄から履歴書を取り出した。証明写真、取り直そうかなと恨みがましくみえる己の顔写真にまた溜め息をこぼしていると。


眠たげに隣で香箱を作っていた三毛猫が履歴書を口にくわえて。にんまりと笑って逃げだした。

獏子は個人情報の塊がと慌てて空になった弁当の容器を片付け三毛猫を追いかけた。


猫が走れば獏子も走らざるえない。毛づやが良いから誰かの飼い猫かと見当をつけながら。久し振りの全力疾走をする。学生時代よりも体力が落ちてるとぜえぜえと肩で息を吸う。


(学生の頃は長所だと言われたことが社会人になると短所になるなんて誰も教えてはくれなかった。)


マイペースは空気が読めない。個性的は協調性の欠如で。優しさは八方美人と嫌煙され。聞き上手は自分の意見がないと笑われ。同じように他者を笑えと促される。


獏子はそれが出来なくて何時も居場所を無くす。


人はそんな獏子に言うのだ。もう大人なのにそれぐらいのことも出来ないのかと。

学生の頃、漠然と社会人に。大人になることは良いことのように思っていた。


けれども実際はどうだったと暗い路地で立ち竦む獏子は学生の頃の自分から問われ自問自答する。下を向き。けれども顔をパシリと叩き。前を向いて履歴書をくわえた三毛猫の後を追う。


大人になるのは思い描いていたような輝かしいことではなかったけれど。絶望して世を儚むのはまだ早いでしょと獏子は自分に言い聞かせた。


幾つもの路地裏を通り。ようやく追い付いたと獏子が三毛猫を捕まえるよりも早く三毛猫はひと鳴きして誰かに抱えられた。


その子、私の履歴書をくわえているので履歴書だけ返して欲しい。そう告げる為に顔を上げた獏子は言葉を思わず飲みこむ。


「ああ、うちの丁稚が申し訳ない。履歴書というと。ははぁ、奉公先をお探しでしたか。それならお嬢様にうってつけのお店を紹介しましょう。ええ、手前どもが働く“獏や”など如何ですか?」


白縹の男が居た。良く似た別人かと思うもその衰えぬ美貌が他人の空似を否定する。祖母が亡くなり。随分と経つというのに老いた様子が一切なく。


時代劇で見るような黒い小袖に三鱗模様の帯を絞め。髪と同じ白縹の羽織を着た男は金色の瞳を細めて。菱形の瞳孔を狭めながら猫がくわえていた獏子の履歴書を器用に片手で懐に入れてしまう。冷や汗が背中を伝うとはこのことか。


得たいの知れない白縹の男についていくほど警戒心は薄くはない。むしろ獏子は警戒心が強い方である。

君子、危うきに近寄らず。触らぬ神に祟りなし。獏子は結構ですと告げるや脱兎の如くその場から逃げ出した。


「···なぜお嬢様はお逃げになられるので?」


獏子が逃げ去った路地裏で。心底、不思議そうに白縹の男がポツリと呟くと腕に抱えられた三毛猫が呆れた様子で鳴く。


「笑顔が胡散臭いせいだと···?先代にもよく言われたが私は笑うのが下手だからなァ。」


しかしあの警戒心の強さは先代譲り。見たか?あの迷いのない走り。惚れ惚れする。あれぐらい警戒心が強くなきゃお店の主は勤まらないさ。


「え、浮かれすぎだ?なにせようやくお嬢様を手元に呼べるんだ。浮かれるなというのが無理からぬ話だろ?」


肩を竦め。猫を腕から下ろすと白縹の男は懐に仕舞った獏子の履歴書を取り出し。くふりと笑う。


「お嬢様が奉公先をお探しになられていたのは僥幸でした。此方からお迎えにあがりましょう。」


白縹の男と思わぬ再会をした数日後。ようやっと面接まで漕ぎ着けた企業から。けんもほろろに採用を見送られ。獏子は意気消沈しながら職安所に向かうその道すがら。


ただ雑草が生えるだけの空き地が見覚えのあるパティスリーになっているのに気づく。夢で働かせて欲しいと直談判した店だった。


獏子は驚き。店を外から覗く。大粒の苺が艶めくタルトがショーケースに鎮座していた。内装も外装も夢で見たものと寸分違わぬそれ。


毎日、職安所に通う道だ。工事をしていれば気づく。昨日まで確かになかったパティスリーの出現に獏子は自分の頬を摘まむ。痛いということは夢ではない。


好奇心に背中を押されてドアを開く。


店員に案内されて獏子はイートインのスペースの二人掛けのテーブルに着き。椅子に座ったところで獏子の正面の椅子に白縹の男が座る。


身構える獏子に白縹の男はこなれた様子で苺のタルトを二人分、紅茶はダージリンをと店員に淀みなく告げて。テーブルに肘をつきにこりと獏子に笑った。


《後編に続く》

 

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