「もう朝よ。起きなさい」
「もう朝よ。起きなさい」
「ぅ……ん?もう少しだけ……」
「だめよ。お父さん、朝ご飯待っているんだから」
しょうがないなと笑う声。
お母さん。
そっと目を開けると真っ白な光の中で笑っている。
わらっている?
嗤っている?
顔だけになったお母さんがよぎる。
思わず飛び起きる。
お母さんの驚いた顔。
頭だけじゃなくって、ちゃんと首も、体もそこにある。
「もう、どうしたの?お母さんもお父さんもテーブルで待ってるから、早くしなさいね」
そう言って笑いながら部屋から出て行こうとする。
「待って」
「ん?どうしたの?」
「その……なんでもない」
「もう、おかしな子ね」
僕って死んじゃったの?
そう聞こうとして、自分がおかしなことを聞こうとしていることに気がついた。
僕は生きている。
手だって動くし、足だって。
立ち上がって服を脱ぐ。
体もなんともない。
僕は壊れたおもちゃじゃない。
着替えてテーブルに行くと、お父さんが笑った顔で僕を見る。
「おはよう、ブラド。ん?どうしたんだい?変な顔して」
「変な夢でも見たんでしょう。さっきからちょっとおかしいのよ」
夢?
そうか、あれは夢だったのか。
いつもの食卓。
いつもの朝。
並んでいる目玉焼きもパンも昨日と何も変わらない。
お母さんもお父さんも座って僕を待っている。
何もおかしいことなんてない。
はやくしなさいと招かれて、僕もお母さんの隣に座る。
間違いなくいつも通りなのに、何かおかしいと思うのはなぜだろう?
あの夢のせい?
「今日は随分と大人しいな」
「もしかしてお腹痛い?大丈夫?」
黙ってご飯を食べる僕をお父さんが心配している。
お母さんが僕の額に手を当てて、熱はないみたいだけどと僕の顔を覗き込んでくる。
「……なんともないよ。ちょっと聞きたいんだけどさ。ゴブリンってどんな魔物だっけ?」
「こぉら。食事の時にする話じゃないでしょ」
お母さんが僕がカエルを捕まえてきた時みたいに嫌な顔をした。
お父さんは逆に安心したみたいに笑う。
「唐突だな。お母さんが怒るから、食事の後でな。ほら、今はきちんと食べなさい」
言われるままにご飯を食べながらも考えていた。
尖った耳と醜い鉤鼻。
ゴブリン。
本当に見たことはない。
でも何度も何度もその名前を聞いてきた。
僕たち子供にとってはお話に出てくる悪い怪物。
大人が僕たち子供を脅かすのに使ういつもの文句。
そう、「そんなことを言っていると、ゴブリンになっちゃうからね」と。
もしかしたらアイツがそうなのかもしれない。
僕は初めてゴブリンを見たのかもしれない。
ご飯を食べ終えるとお母さんは食器を洗いに出て行って、それからお父さんはタバコに火をつけた。
煙を吐き出すと、その煙がただようのを見ながら、思い出すように話し出す。
「なんだっけ、あぁ、ゴブリンだったな。お父さんが今までに見たのは三度かな?いや、もう少しあるのかな?最初に見た時は子供の時だった。飼っていた犬がしきりに吠えるから何だろうと思って庭に出たら、見たことのない化け物がちょうどマイクを、ああ、飼っていた犬の名前な、襲っているところだった」
ゴブリンは手にボロボロの鍬を持っていて、繋がれたままだったマイクは必死に戦っていたけど、結局は叩き殺されてしまった。
お腹に、足にかぶりついて、その血をすすりながらも食べていた。
そして濁った目で嗤ってお父さんを見たという。
姿形は人間にとても似ているのに、絶対に分かり合えるとは思えない目をしていた。
「すぐに親父が、ブラドのおじいさんが来てくれて、石を拾って投げろと言った。言われるままにおじいさんと一緒に投げつけると、化け物はすぐに逃げて行った。おじいさんがその時にはじめてちゃんと教えてくれた。あれがゴブリンだ。もしも見つけても、絶対に近づいちゃいけない、ってね」
背丈は僕たち子供よりも少し高いくらい。
耳が尖っていて、鉤鼻で、大きなギョロリとした目。
髪は針金みたいに固そうで、狼みたいに尖った歯。
いびつな指。
何でも食べて、よく畑の作物を盗んで、時には牛や豚も殺して盗む。
「いいかい。脅かすつもりで言うんじゃないけど、絶対に忘れちゃいけないのは奴らは人間でも食べる。飢えたゴブリンはお父さんみたいな大人でも、ブラドみたいな子供でも、死に物狂いで襲ってくる。今のお父さんの話を聞いて、石を投げれば逃げるんだって思っちゃいけない。あの時はマイクが一生懸命戦ってくれた後で疲れていたし、おじいさんは今のお父さんみたいに若くて力が強かった。だから必ず逃げなくちゃいけない。逃げて大人を呼ぶんだ。分かったかい?」
最期に見たおじいさんは病気でベッドから起きられなかった。
そんなおじいさんがお父さんみたいに力が強かったと言われても、あまりピンとこなかったけれども、ああ、そっか、という納得はあった。
あの時の僕はつまり、その時のマイクと同じだったんだ。
僕はあの時、ゴブリンに食べられていたんだ。
真っ暗でよく分からなかったけれども、あれは確かにゴブリンだった気がする。
嗤う怪物で思いつくのは僕にとってはゴブリンだけだ。
だからきっと間違いない。
「怖がらせちゃったかな」
お父さんがやさしく頭を撫でてくれた。
気持ちが悪くなったし、怖い。
それでも知らなくちゃいけないと思った。
やっぱりあれが夢だったなんて僕には思えない。
「でも、どうしたんだい?急に?この間、納屋で反省した時のことでも思い出したのかい?」
お父さんは僕が言うことを聞かないと、僕を納屋に閉じ込める。
そして言うんだ。
「そんな悪い子はゴブリンになっちゃうぞ」って。
「悪いゴブリンはとじこめなくちゃいけない」って。
「違うよ。僕、見たんだ。そのゴブリンを」
「え?……それはいつだい?」
「いつって……真っ暗い中で尖った耳と鼻を見たんだよ」
「真っ暗な時?納屋の中でかい?それとも夜寝ている時?」
「違うと思う。でも、確かに見たんだよ!」
「もう。だから夢でも見てたんでしょ。だってこの間、王都から騎士様が来てくださって、この辺の魔物の探索をなさったばかりじゃない。ゴブリンなんてみんな逃げちゃってるわよ」
いつのまにか戻って来ていたお母さんは呆れ顔で言う。
確かにそうだ。
だってもしもあれが夢じゃなければ、お母さんだって死んでいる。
僕も食べられて死んでいた。
こんなことを言ったらきっとお母さんもお父さんも怒るだろう。
だからもうこれ以上はお父さんにもお母さんにも聞けない。
「……ううん。ごめんなさい。もしかしたら夢だったかも」
「いや、いいんだよ。怖かったんだろう?大丈夫。ゴブリンなんて滅多に人前になんて出てこないものさ。さあ、今日はペーターとクリスと約束しているんだろう?行っておいで」
「え?そうだっけ?」
家を出て、振り返るとお父さんとお母さんが揃って手を振っていた。
小さな牧場と小さな家。
それを見て、やっぱり僕はおかしな気持ちになる。
昨日もこんな感じじゃなかったっけ?と。
そして思った。
ペーターとクリスと約束していたのは、昨日のことじゃなかったっけ?と。