駄目だったあ
いや、採血の作業は一切触れないまま終わりましたよ。こちらの手を抑えるなどの触れ合いはまったくない。おそらく感染症対策で触れないようにしているんでしょう。一安心、と思ったとき、
「コードが外れてますね」
と、長野看護師の手が胸元に伸びた。
「え?」と鏑木の手もそこに。空中で触れた瞬間、右手に熱がこもる。
「今」と長野看護師が鏑木の手をとる。
「熱く、ないですね」
「はい。熱くないです」今は、という言葉を省略する。
「心電図のモニターです。貼りなおしますね」
ポケットからシールを取り出し、モニターの電極を貼りなおす。そして眉根をよせる。どうも顔に比べて眼鏡が大きいようだ。それが幼いような印象を与えている。
「もう一度体温を測ってもらえますか?」
36.8℃、先ほどと同じ数値が出た。
まずい。まずいぞ。鏑木はベッドの中でひとり焦っていた。また、あれが起こったのだ。しかも、昨夜の秋田さんのときに比べて数倍、数十倍のイメージが浮かんだ。長野さんの、おそらくは10年分の記憶が脳裏に浮かぶ。
そのすべてではないのだろう、とは思う。生活履歴すべてが見えたわけではない。試しに5年前の正月と念じても想起されるものはない。ただ、断片的な記憶が雑多に思い起こされる。
おそらくは長野さんが熱について考え、それに関連する記憶が表層に浮き出てきた。それを接触の間に読んでしまった。ということだろう。なぜかはわからない。なぜかはわからないが、どうしたらいいのかを考えなくてはならない。とりあえず、今わかっていることを整理しよう。
右手が誰かに触れるとその相手の記憶が流れてくる。そのとき考えていること、感じていること、そしてさらに連想される事柄。これは、検索、および転送コピーという感じらしい。そして触れている間だけ、ということで転送時間が情報量に比例するんだろう。左手はどうなんだろう?大きく動かすわけにはいかないが、左手に意識を移す。
考えてもわからないことは考えない。点滴の針を抜くときなどにわかるだろう。次、問題は次だ。どうやら触れた相手の未来も見えてしまったらしい。しかも、彼女についてあまりよくない未来が。
正直な話、鏑木はこの仮説をまだ信じているわけではない。だが、相手の表情を読むというのは、社会人としての必須スキルである。と聞いている。そうして感じたものから判断して日々刻々と対応している。これまで知らなかっただけで多かれ少なかれ皆このように相手を読んで生きているのかもしれない。
空気を読む、と言われているのは相手の表情から考えていることを読み取り、対処することだろう、と考えていた。その、情報を読む力が極端に弱かったのが昨日までの鏑木で、 以前勤めていた事務機販売会社の課長がよく言っていた、「相手を読め、ニーズをつかめ」というのはこういうことだったのではないか。相手がなにを欲し、なにに不安を覚えているかがあれほど鮮明に脳裏に浮かぶのなら、対処もたやすいわけだ。
セールスの仕事をして伍していくには、生きて交渉していくには、まだハンディキャップがある。触れないと相手の考えを読めないのだ。鏑木は挨拶に握手をする習慣がある国がうらやましくなった。おそらく日本人はこの力が強かったので握手やハグの挨拶は習慣にならなかったんだろう。言ってみれば、皆が剣術の達人ばかりという国で剣の持ち方も知らないまま生きてきたんだ、そして、ようやく剣の存在を知って持つことはできたのに使うことに制限がかかっている。
感覚を反芻してどうやらこの現象は妄想ではないらしい、とまで考えたが、むしろ見えなかったハンディキャップが見えるようになっただけという結論が出てしまった。解決策、対処法を考える前に問題が増えてしまった。
『まあ、入院中ということで考える時間はたっぷりある』
この、楽天的な考え方も、「知らないからそう言える」のではないかと考え、鏑木は目を閉じた。
混乱しています。そもそも酸素マスクをつけていないといけない状態なわけです。頭に酸素が足りていません。混乱した頭で考えるのも限界があります。
という中でどう対処するのか?という話になっていきます。続きは明日。よろしかったらブックマークをお願いします。