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愛したい

 彼女との旅行は僕の人生で一番楽しい旅行になった。見たことのない景色を彼女と一緒に見て回ることの楽しさを、僕はこの時に初めて知った。できれば、彼女に直接見せてあげたかったが、彼女を他の人に見せたくなかったので、彼女にはスーツケースの中で我慢してもらっていた。


 あれから、二人の探偵とは逢っていない。うまく逃げられたようだ。会社からは何度も電話があったが、スマートフォンも途中で捨ててしまったので、今はどうなっているか分からない。


 もう彼女以外はどうでも良かった。彼女がそこにいるのなら、僕はどこにだって行ける。


 とはいえ、旅にも限界はあった。特に資金面においては彼女を購入した影響もあり、僕は少しずつ近づいてくる底のことを考えないといけなくなる。

 お金がなくなると彼女に不自由な思いをさせることになる。僕は彼女がいるなら、どこでも生活できるが、彼女にそれを強いることだけは避けたい。


 何とかお金を稼ぐ方法を考えないと、この旅も終わってしまうな、と漠然と僕が考えていたある日のことだった。変化は唐突に訪れた。


 普段はスーツケースの中に入ってもらっている彼女だが、ずっとそこでは窮屈だと思い、僕はホテルの部屋に泊まっている間は、彼女を外に出すことにしていた。その間、僕は彼女のあまりの美しさに目を奪われながら、彼女の冷たい肌に触れ、時には興奮のあまり絶頂してしまうこともある。


 その中で不意に彼女の姿が少しずつ変わっていることに気がついた。彼女は不変的な存在だと思っていたのだが、そうではないことを僕はその時に思い出させられる。


 恐らく、ゆっくりと彼女の身体が腐敗しているのだとすぐに分かった。彼女が彼女のまとっている美しさを手放そうとしているとすぐに思った。それを止めるために以前の僕は調べていたが、旅をし始めてからはそのことも怠り、彼女をただ愛することだけしかしてこなかった。

 その怠惰な振る舞いが彼女の変化を招いたのなら、これは完全に僕の責任だ。そのことを強く後悔しながらも、何とか今から僕にできることはないかと考えようとした。


 しかし、今の僕は彼女以外に何もない。仕事は辞め、お金ももうすぐ尽きる。暮らす家も真面にない状態だ。


 その時、僕はこのままでは彼女に愛想を尽かされると思った。彼女は少しずつ僕から離れたいと思っている。それが目に見えて現れたのかもしれない。


 もしも彼女に捨てられたら、と僕は想像し、恐怖に震える。彼女が僕から離れてしまったら、僕はもう生きていけない。僕にはもう彼女しかいないのだから、彼女の存在は何としても守らないといけない。


 僕は彼女を助けるためにホテルに籠り、彼女の時間を止める方法を調べた。調べて、調べて、調べ上げた結果、僕には彼女の時間を止めることができないと悟る。


 僕には彼女の時間を止めるだけの力も、お金もない。僕には彼女しかない。それなのに、その彼女を守るための力が僕にはない。

 僕には何もない。改めて突きつけられた現実に、僕は絶望した。


 彼女が腐敗することに、彼女がいなくなることに、その彼女を救えないことに、彼女のいない世界に、彼女のいない現実に、僕はただただ絶望した。絶望して、絶望して、絶望して、絶望し切って、僕は何もかもどうでも良くなった。


 あと少しで彼女がいなくなるのなら、あと少しでいい。もう十分なほどに最高な時間を過ごしたから、もう必要ない。もう何もいらない。

 僕は彼女を連れて、ただ歩くことにした。あとはもう厄介なことの全てから解放され、彼女と二人で過ごせればいい。彼女と二人で見たい景色が一つだけ残っている。その景色さえ見られたら、もう何でもいい。


 目的地があったわけではない。ただ気の向くままに歩き、歩き、歩き続け、僕はただ彷徨い続ける。


 最後に彼女の声が聞きたいと思った。唐突な願いが僕の頭に落ちてきて、僕は混乱していた。


 何故なら、彼女は死体なのだから、言葉など発するはずがない。そのことは最初から分かり切っていたことだ。そのことを理解し、その上で彼女を愛していたはずだ。

 ただ冷たい彼女がそこにいるだけ。そのことだけを望んでいたはずだ。


 それなのに、僕は彼女の声が聞きたいと思った。それはあまりに矛盾している。僕の願いとして正しくない。


 僕はどう思っているのだろうか。僕の本当の気持ちはどれなのだろうか。もう彼女と一緒にあと少しを楽しむと決めたのに、僕の心は満たされない。僕の最高だったはずの時間はいつのまにか、足りなかった思い出に変わってしまっている。


 僕はどうして、ここにいるのだろうか。僕はどうして、彼女を連れているのだろうか。僕はどうして、この場所を歩いているのだろうか。僕はどうして、あと少しで満足できると思ったのだろうか。

 僕はどうして。その言葉が僕の中で連なり、僕に答えのない疑問をぶつけてくる。


 もう何も分からない。僕はスーツケースから解き放たれた彼女を抱え、誰もいない場所をただ歩いていた。


 考えたくない。考えることはやめた。僕はただ誰かを愛せたら良かったのだから。それができたのなら、僕は幸せだったはずだ。それ以上は求めない。最初から求めていない。そのはずだ。分かっている。分かり切っている。


 だから、もう何も考えない。


 気がついたら、僕は綺麗な湖の前に立っていた。周囲を木々に囲われており、その隙間から入る日の光が水面でキラキラと輝いている。そのあまりに綺麗な光景を彼女に見せてあげようと思い、僕は彼女を座らせ、その隣に自分も座った。


「綺麗だね」


 僕の呟きに、もちろん、返答はない。


「こんな景色が君と見られるなんて」


 そう呟いても、もちろん、返答はない。


 気がついたら、僕の目から涙が零れていた。僕の目から溢れた涙が彼女の手の上に落ちていく。どうして泣いているのか、僕は分からない。もう考えることをやめた僕には何も分からない。


「もういっか…」


 小さく呟き、僕は彼女を抱きかかえた。あとはゆっくりと、まっすぐに、ただ歩むだけ。


 これでもう大丈夫。僕と彼女は離れない。僕と彼女は別れない。


 これでもう、ずっと一緒。

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