弐
逢魔時。太陽が山の向こうに沈み、暗がりが辺りを支配していくると、突如として奇怪な笑い声が聞こえてきた。
すわ、何事か。安子は自らの出番が来たと、喜び勇んで声のするところへ駆けていった。
「どこ? どこにいるの?」
安子が寝殿の前で中庭を睨みつけながら、血気盛んに叫ぶ。
「あそこよ」
安子の後ろを付いてきた千鶴が、東対にある木の陰を指差した。
「知っているわよ、そんなことぐらい!」
安子は強がりを口にし、急いでその方向に目を向けてみた。そしてその瞬間、彼女の背中にぞわりと怖気が走った。
暗闇の中、噂される黒い体毛のせいでか、不気味に顔だけが空中に浮かび上がって見える何か。それは口角を嫌というほど吊り上げ、歯をむき出しにして「キヒヒ」と笑いかけてきたのだ。
その異様さに、思わず安子の足はたじろいで後ろにさがってしまう。だけど、その場に千鶴がいたことを思い出した安子は、自らの小心をごまかすように気勢をあげて、勢いよく前に飛び出した。
「貴方のことなんか、全然怖くない! 私は賀茂安子! 未来の陰陽師たるこの私が! 貴方を退治してやるわ!」
「キヒヒ」と、黒毛の何かは安子の口上に更に笑いを募らせた。その人を挑発するような仕草に対して、安子は激発する。
「何がおかしいのよ!?」
「お前は賀茂安子」
「それが何よ!?」
「お前は人生をむなしいと考えている」
「はぁ? いきなり何を言っているの?」
「幾ら努力しても、神戸千鶴には敵わないと思っている。だけど、それを認めてしまうと、賀茂家の血脈たる自分の立場が無くなってしまう。自分の人生が無意味なものとなってしまう」
「なっ、何を言っているのよ!」
「だから、敵わないと知りつつも、盛んに勝負をけしかける。周りに自分の意義を認めさせるために、自分の価値を知らせるために。本当は千鶴に敵わないことを誰よりも知っているのに。ああ、むなしい。無意味な茶番を続ける人生がむなしい」
訳知り顔で黒毛の何かは捲くし立てる。ただ喋っているだけではあるが、さすがにここまで来ると、その正体は分かる。
「気をつけなさい、安子。あれは心を読む妖怪、覚よ」
千鶴の言葉に呼応して、覚は木の陰からその姿を現す。それは人ほどの大きさで、長くて黒い体毛に覆われた猿の如き存在であった。
聞いていた話と符号する外見。貴族の争いが増えた理由は、この覚と見て間違いないであろう。
「神戸千鶴」覚は、今度は千鶴に話しかけた。「お前が私に攻撃しないのは、賀茂安子に手柄を譲ろうとしているから」
「な、何を言っているか、私にはさっぱり分からないわね」千鶴は動揺をあらわにして答えた。
「賀茂家の嫡女たる立場が無くなりつつある賀茂安子を心配して、その背中を押してやる。ああ、私は何て優しいのだろう。ああ、私は何て友達思いなのだろう。お前は、そう考えている」
「濡れ衣よ! そんなこと考えてないわ!」
千鶴は声を大にして、慌てて抗弁する。だけど、残念ながら、その先からの言葉は出てこなかった。安子は千鶴の胸倉を掴んで、地面に押し倒したのだ。
「ふざけないでよ、莫迦千鶴!」安子は玉のような涙をこぼしながら、喉の奥から声の限りを搾り出した。「私はそんな同情なんかいらないって言っているでしょう! それなのに何なのよ! そんなに私は哀れなの!? そんなに私はみっともないの!?」
「ち、違う、違うって!」千鶴は首を振って、必死に否定する。
「じゃあ、何で覚を攻撃しなかったのよ!」
「それは……」
千鶴が言いよどんだところを、安子はすかさず声を太刀のように研ぎ澄まして、相手に叩きつけた。
「だから、私は千鶴が嫌いなのよ! 大嫌いなのよ!」
安子の悲鳴にも似た言葉が中庭に木霊する。その様を面白そうに眺めていた覚だが、安子の声を機に家中の人間がその場に集まってくるのを見ると、再びその姿を陰へと溶け込ませていった。
後はただ安子のか細い嗚咽が、暗闇に響くだけであった。




