弐
千鶴は朝に連れられて朱雀門にやって来た。朱雀門とは大内裏の南にある正門である。瓦葺きの二層閣を朱色の柱で支え、大棟には鴟尾が飾られているという、何とも立派な建物だ。
しかし悲しいかな、そんな輝かしい場所であったのは、もう昔のことで、常在していた警備の人間はもうおらず、儀式やら歌垣やらに集まっていた貴人たちの影も今はどこにもない。
かつては煌びやかであった朱色は蒼然として、至る所に木の地肌が晒されている姿は、最早哀愁すら漂わせていた。
仮にも帝がおわす内裏へと続いてく門。ちゃんとした手入れや管理をすべきなのだろうが、内裏にはそれをする人も、それをさせる金もないときている。
帝の力が衰退しているとの噂は、ここでハッキリとした形で表れていた。
「それで、ここに何の用なの?」
千鶴はくすんだ色の大きな柱をペシペシと叩きながら訊ねた。朝は千鶴に見向きをせずに、上を見ながら独り言のように呟く。
「二階には行けるのかな?」
「さあ、どうだろ」
階段や梯子はないかな、と千鶴は一応周りを見渡してみる。しかし、そんな彼女の目に入ってきたのは、目当ての階段ではなく、朝が一階の屋根に向けて跳躍する姿だった。
しかも驚くべきことに、朝はそのまま屋根の上に着地してしまったのだ。千鶴の口はあんぐりと開いた。
「え? ちょっ? 朝?」
「上れたよ。ちづも、早くこっちに来なよ」
「いや、そんな方法で上れないからね!! 普通、できないからね!!」
千鶴が息も荒く捲くし立てると、朝は「しょうがないなあ」と言って、屋根から手を伸ばしてきた。それでも簡単に千鶴の手が届く高さではないが、他に何する手立ても思いつかない。
千鶴は助走をつけて「うおおおー!!」と思いっきり飛び上がることを数度繰り返して、どうにか朝の手に掴まることに成功した。
そして次の瞬間、「よっ」という朝の小さな掛け声と共に、千鶴の身体は朝の腕一本で易々と屋根の上に引き上げられてしまった。
不思議である。今のことにしても、先のことにしても、女一人で到底成し得る力ではない。そこで千鶴の頭に過ぎったのは、昔に聞いた朝に関する一つの噂であった。
曰く、姫路朝は鬼の子ではないか、という話だ。
何でも彼女は小さな頃、大の大人数人がかりでも動かせないような大きな石を、軽々と持ち上げてしまったことがあるらしい。その他にも牛と綱引きして勝っただとか、熊と相撲をして勝っただとか、真偽は定かではないが、朝の人並み外れた力の強さを示す話は多い。
千鶴がそれを耳にした時は、朝の美貌に嫉妬した暇な女中連中が朝を笑い者にすべく作り話を流したのだろう、と一笑に付したものだ。だけど、朝の実際の力を目の当たりにすると、にわかに噂に真実味が増してくる。
「行くよ、ちづ」
朝はいきなり千鶴の身体を抱き上げると、二階の高欄を楽々と飛び越えて、楼上へと降り立った。そして朝は千鶴を床に下ろすと、朱雀門の内部に興味深げに目を送る。
そこからの朝の行動は何とも奇妙であった。楼上の中央へ行くと、まるで何かに思いを馳せるように目を閉じ、周りにあるものを身体全体で感じ取ろうと大きく息を吸い込み始める。
勿論、そこには感動する光景が広がっていたわけではない。床に埃を積もっており、梁の部分に蜘蛛の巣が張り巡らされている。正直に言って、息を吸うのを躊躇うほどに汚い。だけど、朝にとっては、そうではないようだった。
「ねえ、ちづ、私の噂って知っている?」
いつの間にか目を開けた朝は、千鶴を見ながら薄く笑っていた。それは自虐のようでもあり、人をからっているようでもある。千鶴は少し答えるのを躊躇ったが、ここで言う嘘に意味はないだろうと判断した。
「まぁ、あれを全く聞かないっていうのは無理があるよね」
「フフ、そうだね。じゃあ、この朱雀門についての噂は知っている?」
会話の流れからして、帝の衰微ではないことは明らかだ。となると、姫路朝が聞いているのは、やはりこれなのだろう。
「鬼が住んでいたってやつだよね?」
「うん、そう。ちづは、そのことをどう思う?」
その質問には、千鶴はすぐに答えられなかった。朝が、どういった答えを求めているのか、よく分からなかったのだ。二人が市場で出会ったのは偶然とはいえ、朱雀門にこうしてやってきたのは、朝の意志によるところが大きい。
そして鬼の子と噂される彼女が、人を超えた力を披露し、鬼について聞いてくる。しかも、出会ってから一年経って、ようやくのことだ。
朝なりに、何か思うことがあったのだろう。それを無碍にするのは、友人としてはばかられる。
そもそも、かつて朱雀門にいたという鬼とは何だったのだろうか。その鬼は、今は亡き源博雅と笛を吹き合い、その音色に感銘を受けた二人は笛を交換したと伝えられる。
更に遡ると、鬼は故殿の紀長谷雄と双六で勝負して、その結果、賭けていた美女を差し出したという。
きてれつな話だ。普通、鬼といえば、人を喰らう妖怪である。それが何故か人を襲うこともせずに、のん気に人との関わりを持っている。そこで、千鶴ははたと気がついたことがあった。
「え、あの鬼って朝だったの?」




