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「来たか、陰陽生よ」


 夜のとばりが下りた暗闇の中、寝殿前の簀子すのこ実資さねすけが待ち構えていた。鬼火を見つけるためにか、篝火は焚いていなく、高欄こうらんに置いてある蝋燭の小さな炎だけだが、実資をうっすらと照らしている。


 遅れて来たことを申し訳なく思った千鶴は慌てて膝をつこうとするが、実資が「良い」と手を前に出し、千鶴を押しとめた。さすがに鬼火を前にしてまで、礼儀に拘るつもりは実資には無いようだ。


「それより、これを見よ」


 実資の目線を辿り、千鶴が目を向けてみると、きざはしを降りた所に、鬼火が一つ、確かに漂っていった。千鶴がそれを目に留めたことを確認すると、実資は腕を組み、困ったように、たどたどしく口を動かした。


「一週間前から、このように鬼火が現れるのだ。そうして、ただその場を漂うだけ。別に直接危害を加えてくことはないのだが、家中の者が気味悪がるし、中にはいとまを告げてくる者もおった。今はまだ表には出ていないようだが、人の口に戸は立てられん。いずれは他の者たちも知るところになるだろう。そうなっては事よ。公卿くぎょうの一人が、たかだか怪異の一つに浮き足立って、下男下女の手綱をみっともなく放したとなっては、笑い者にもなろう。神戸千鶴よ、晴明と時が保証する其方の実力を、この場で見せてみよ」


「はっ!」


 と、千鶴は受け答えると、緋色の元結もとゆいで後ろ髪を縛り上げ、早速鬼火の前に進み出た。晴明が陰陽師ではない陰陽生に任せた怪異だが、確かにそれは正しかった。


 煌々と青白い炎が空中で揺らめいているが、その火勢は何とも弱々しく、風が吹いてしまえば、簡単に消えてしまいそうなほど頼りないのだ。おそらく千鶴の愛用している大幣で軽く叩けば、一瞬にして消滅してしまうだろう。


 これなら晴明や時から説明がなかったことも納得できる。だけど、千鶴はそんな鬼火のか弱さと同時に、えもいわれぬ物悲しさを感じることができた。


 鬼火に良くあるような怒りや憎しみとは無縁の感情。千鶴は、その原因を突き止めようと鬼火にそっと手をかざしてみた。


「この鬼火について、分かったことがあります」ややあって、千鶴は実資に向かって神妙な顔で告げた。


「うむ。申してみよ」


 実資の言に答える前に、千鶴は野次馬で集まっていた小野宮第の舎人や女中を見渡した。その意味を察した実資は厳かに声を響かせる。


「これよりは、この陰陽生と我だけとする!! 他の者たちは、この場を下がれ!!」


 命令を言い渡された者たちは、不承不承としながらも去る。何故か西宮時は、その場に残っているが、実資も文句は無いのか、口を閉じたままである。そして周りに人がいないのを確認すると、千鶴はようやく鬼火の正体を話し始めた。


「この鬼火は藤原ふじわらの師輔もろすけ様の念です」


 身内の名前が出てきたことに実資は顔をしかめた。実資はかつて観修かんしゅう僧都そうずより、藤原師輔が政敵である実資の祖父の実頼さねよりに子孫断絶の祈願をしたと聞いたことがある。


 その時の実資は自分が生まれてきたではないか、と笑い飛ばしたものだが、こうして形を持って現れてきたとなれば、悠長に笑っていられるものではない。


 実資は「骨肉こつにくの者、心苦しくあるが、ここは祓ってやるのが情けよ」と顎をしゃくる。しかし、千鶴は手を動かすでもなく、毅然として首を横に振った。


「師が師であれば、弟子も弟子よの。ましは、目上の言葉を聞かぬが礼儀と申すのか?」


 実資の口調は穏やかであるが、はっきりとした怒気がこもっていた。答えを間違えれば、ただの陰陽生である千鶴の身は危ういものとなるであろう。だけど、そんな威圧を千鶴は涼風のように受け流し、淡々と言葉を放った。


「普通、鬼火とは人の怨念が形作るものです。ですが、この鬼火は、それとは縁遠いものです」


「む? では、何だと申すのだ?」


「これは後悔です。この鬼火は藤原師輔様が抱いた後悔の念に、陰の気が取り憑き、形を得たものです」


 千鶴が鬼火に触れた時、彼女脳裏に訪れたのは、藤原師輔その人の意識だった。胸を掻き毟らん程の激情に、自らの身を抉り取られるかような痛いほどの後悔の念。そんな師輔の慟哭が、瞬時にして千鶴の頭の中を埋め尽くしたのだ。


 藤原師輔とは、藤原実頼の実の弟である。その師輔は、あろうことか忌まわしき呪いを兄へかけた。


 勿論、彼らも人間だ。始終、仲良くはしてはいられないだろうし、時には恨みや怒りでもって仲違いをしたりもする。そして師輔は不和の果て、自らの一族の立身出世の為に兄の一族の断絶を願った。


 それは兄と敵対するに至った師輔にとって、快哉であったに違いない。だけど、最後の最後、死の間際に師輔に訪れたのは後悔であった


 血を分けた兄弟。長らく同じ時間を過ごした中で、その全てが憎しみに彩られた筈もなく、些細かもしれないが確かな幸せがあった。そしてその記憶が、まさに師輔が天に旅立とうとする時に、鮮明に頭の中に呼び起こされてしまったのである。


 自分は一体何をしてしまったのだ。昔の幸福を垣間見た師輔は自らの所業を悔いながら、苦しみと共に息を引き取った。そしてその強烈なまでの後悔は死後も尚、現世に残り、こうして鬼火となって現れたのだ。


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