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「西宮時様のお戻りです」


 小野宮第の寝殿の御簾の前に座っていた舎人(とねり)が高らかに声を上げると、時は寝殿の(ひさし)から突き出た濡れ(えん)簀子(すのこ)(うやうや)しく右膝をつけて座った。


 置いてけぼりになった千鶴が「え!?」などと右往左往していると、舎人の一人が二、三度軽く咳払いした。何だかまずい状況に置かれているようだ。千鶴は慌てて時の隣に両膝をつけて跪いた。


「ただいま戻りました」


 千鶴が隣に座ったのを確認すると、時は寝殿の御簾の向こうに声をかけた。壁に向かって話すような虚しい行為に思えるが、そこにはちゃんと声が返ってくる。


「御簾を上げよ」


 濁りの無い、透き通った低い声が、地を這うようにして轟く。まるで(ばち)で太鼓を強く叩きつけたかのように、心に震える音だ。


 傍らにいた舎人が頷き、御簾を無駄なく、優美な仕草で上げる。すると、烏帽子に、白藍色の直衣(のうし)を身に着けた中年の男性が檜扇(ひおうぎ)を手に御座(みざ)に座っている姿で現れた。


 白い髪が目立ち、肌には皺も刻まれ、老いを如実に体現してはいたが、その顔立ちは精悍であり、瞳にも何ら翳りは見られない。そしてそこらの若者を圧倒せんばかりの覇気が、その老衰していくはずの身体の内外から、確かに迸っていた。


「へへー!!」


 そのご仁が藤原実資と見て取った千鶴は、電光石火の速さで土下座した。間違っても粗相などしないように、と彼女が知る最高位の敬意の示し方だ。


 だが、実資はその所作を褒めることも、感心することもなく、逆に眉を顰める。そして千鶴に聞こえるように大きな溜息を吐くと、改めて時へと顔を向けた。


「よく戻った、時よ。して、吉平(よしひら)は何処か?」


「吉平様は来ません」上から降ってくるような声に、時は怯むことなく淡々と答えた。


「来ないとは、どういうことか?」


「吉平様に話を持ちかけたところ、晴明様を紹介されました」


「それでは晴明は何処か?」


「晴明様にお話を伺ったところ、この件は左にいる神部千鶴で十分だ、と」


 実資は持っていた檜扇で苛立ちをぶつけるように掌を叩いた。


「あの面倒くさがりや共め!! この我に対して不遜だとは思わんのか!!」


 その怒号に対して、時は冷や水を浴びせかけるように冷静に訊ねる。


権貴(けんき)におもねらないのは、立派なことではないでしょうか?」


 実資は押し黙った。かつて藤原道長の要請に対して前聞無し、と実資はそれを退けている。そのことから彼は権貴におもねらないと評価された人間だ。


 それを踏まえてみれば、彼の今回の言い分には疑問を投げかけることもできる。でも、時のような言い方は、皮肉を通り越して、最早嫌味とも取られかねない危ない発言だ。とても礼儀に適うものではない。


 千鶴は床を眼前に見据えながら、二人のやり取りに肝を冷やす。だけど、実際には実資は怒ることもなく、それどころか覇気の失せた憂い顔で、時にこんなことを訊ねてきた。


「時よ、まだあのことを怒っているのか?」


「何のことでしょう、中納言様?」


 呆けた台詞ではあるが、同時に名刀のような切れ味を感じさせる内容でもある。二人の間には、何か諍いごとでもあるのだろうか。


 あるとしたら、関係ない私をここで巻き込まないで欲しい、と千鶴は切に願う。勝手に連れてこられて、勝手に険悪な二人の間に立たせられる。


 そこまでの流れに、千鶴の意思は何一つ介在していないのだから。心なしか、千鶴は胃がキリキリと痛むのを感じてきた。


「……まぁ良い。それでその千鶴とやらの実力は確かなのか?」


 実資は時との意味深な会話を切り上げ、再び千鶴に目を向けた。神戸千鶴などという一介の陰陽生の名前は貴族の間で一度も話に上がったことがないのだから、不安を覚えるのは当たり前の話だ。しかし、時はまたもや千鶴を置き去りにして、勝手に話を請合った。


「晴明様のお墨付きです」


「そうか。であるならば、千鶴とやら、後は頼んだぞ」


 その言葉に千鶴は「へへー!!」と当たり前のように引き受けてみせた。しかし、彼女の従順さに返ってきたのは実資の失望を多分に混ぜた、げんなりとした溜息だった。


其方(そち)よ、別にここは帝のおわします内裏でもないし、何かの行事の最中でもないから、うるさくは言わんが、その挙措はもう少し正した方が良いぞ。其方の振る舞いは、見ているこちらの方が恥ずかしくなる。後で時に教えてもらうが良い」


「へへー!!」


「…………まぁ良い。鬼火が出るまで、まだ時間がかかろう。それまではゆるりと過ごせ」


 一応は納得したのだろうか、実資が舎人に目を向け、軽く檜扇を振ると、御簾がゆっくりと下ろされた。そして実資が立ち去る気配を敏感に感じ取ると、千鶴は肺に溜まっていた空気を吐き出すように、ゆっくり、大きく安堵の息をこぼした。

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