参
「ああ、やっぱり私って、晴明様に嫌われちゃったのかなぁ」
どんよりと曇る空の下、寒風が吹き荒む中で、千鶴はバリ、ボリ、と遠慮なく煎餅を齧る音を響き渡らせながら、消沈した様子で呟いた。晴明の対応には、随分と突き放したものがあった。
あれで、これからの人生を何の憂いも抱かずに生きていけというのは、土台無理な話だろう。何と言っても、安倍晴明は陰陽道において燦然と輝く太陽の如き存在だ。
彼に疎まれてとあっては、これからの人生に暗雲が立ち込めるに等しい。陰陽師になるという千鶴の夢は、もう潰えてしまったのだろうか。
失意と絶望と後悔。そのあまりの重さに絶えかねた千鶴は、思わず地面に膝をついて、悲嘆に暮れた。
「何をやってるの?」
このままいっそ自殺でもしてしまおうか、と何となしに千鶴が考えていると、いつの間にか後ろにあった晴明邸の門の戸が開けられ、時がそこにひっそりと佇んでいた。千鶴は慌てて立ち上がり、膝についた汚れも払わずに、時に詰め寄る。
「晴明様は私のこと、何か言っていた?」
「別に、何も」
その冷たい一言に千鶴は意気阻喪としてしまう。だが、千鶴がどれだけ暗い表情を浮かべても、そこには何の慰めの言葉も掛かってこない。
お互い向き合っているのに、静寂が支配する。そのやり取りに「この人とは何か話しづらいなぁ」と千鶴は改めて思うのであった。
千鶴と時の二人は、時を同じくして一年程陰陽寮に通っているが、彼女らが会話した回数などは両の手の指で事足りる程度。あまり仲は良くない。というよりは、西宮時には仲が良い人はいるのだろうかと頭を傾げてしまうほど、彼女は人付き合いが悪い。
勿論、彼女の容姿は、いつかの竜宮童子のように忌避される醜さとは無縁のものだ。小柄で、なよやかな身体は清潔感に溢れ、鼻を摘まむような臭いは発していない。前髪と胸先まで伸びた黒い髪は共に毛先で綺麗に切り揃えてあり、肩に掛かった髪は髷にして、象牙の花飾りで締めている。
肌も貴人のように手入れされたもので、シミや汚れは一つもなく、しっとりとした白い肌が顔を覆っている。そして双蛾の下には黒真珠のような瞳が飾られ、真っ直ぐに伸びた鼻筋の下には濡れそぼった唇が静かにかしこまっている。
服装は卯の花色の小袖の上に、綺麗な綾織となっている厚手の蘇芳色の袿。そこに洒落た模様こそないが、その素材は全て正絹となっているから驚きだ。
一見、非があるように見えない外見ではあるが、ただ一つ千鶴が苦手とするところがあった。それは彼女の目である。
西宮時の陰陽寮での成績は占星術以外は凡庸そのものであるが、そういった愚かさとは正反対のように警戒と好奇の光が目の奥で鋭く輝いていたのだ。それに見つめられると、千鶴の胸の内はどうにも不安な感情が湧き起こり、言葉を見失わせてしまうのだった。
「あはは、えーと、私って、煎餅のためだけに呼ばれたのかな?」
じっと注がれる視線に挫けず千鶴は何とか口を開いた。普段なら、別にそこまで努力はしないのだが、今回は晴明の動向は少しでも探っておきたい心積もりだ。だけど千鶴の期待に反して、そこに返ってきた答えは、何とも脈絡の無いものであった。
「この後、暇?」
「え? う、うん」千鶴はしどろもどろになって答えた。
「じゃあ、付いてきて」
「え、えーと、ど、どこに?」
質問には答えず、時はそのまま脇目も振らずに歩みを進めていく。意図が全くの不明である。一緒に遊ぶのが目的ではないということは、平素の付き合い方を思い出してみれば、すぐに分かる。
となると、行動を共にするのは、やはり安倍晴明が絡んでのことなのだろうか。そんな当たりをつけた千鶴は多少気後れはしたものの、大人しく時の後を付いて行くことにした。
「おおおおおおお小野宮第 ぃぃぃぃ!!!?」
時が足を止めた場所で、千鶴は頭を抱え、絶叫を上げた。小野宮第とは、藤原中納言実資が住まう邸宅のことである。
そして藤原実資は、貴族のこととなると大変見識の狭い千鶴も良く知る名前だ。藤原北家の嫡流にして、公卿の一人。かの御堂関白こと藤原道長と事を構えて尚、生き延びることが許される血脈にして才能の持ち主だ。
どう考えても、千鶴如きが、おいそれとお邪魔できるほど、低い地位にいる人間ではない。千鶴は稲妻もかくやという速度で時に走り寄ると、がっしりと彼女の肩を掴んだ。
「ま、待ちなさい、時!! 貴方、気でも狂ったの!? それとも死にたいの!? 不敬よ、不敬!! 晴明様も言っていたでしょう? 分を弁えなさいって。こんな所に勝手にズカズカと入っていたら、それこそ死刑よ!! もういいでしょ!? もう帰ろう!! もう分かったから!! ね!?」
悲愴な声で何やら捲くし立てる千鶴。しかし、場所も弁えずに怒鳴り声を上げる態度こそが、敬意の欠けている証拠なのではないだろうか。
そんなことを思った時は、千鶴を窘めるべくやんわりと口を開いたが、途中で面倒臭いと思ったのか、結局言葉を発さなかった。そしてその代わりに、と時は千鶴の手を振り払い、小野宮第へもう一歩足を進める。
「こら、時……!!」
千鶴の怒声は、そこで収まった。時が先へ進むと、そこにいた門番たちが道を開けたのだ。てっきり、煌く白銀の刃が時の首元に殺到するかと思いきや、意外や意外である。
ひょっとして、西宮時は藤原実資の関係者なのであろうか。千鶴は前を行く時に追いつくと、おそるおそる訊ねてみた。
「あ、貴方様は貴族様なのでございましょうか?」
その質問に、時は呆れ交じりに答えを返す。
「陰陽寮が、どこにあるか知っているでしょう? 貴方と礼以外は皆貴族よ」
「うっ! となると、やっぱり時様は……」
千鶴の口を遮るように、時の足がいきなり止まった。そうして一瞬ほど瞑目した後、時はゆっくりと、確かな発音で、こんなことを告げる。
「私は貴族じゃない」
貴族だけど、貴族ではない。その妙な言い方に、千鶴は思わず首を傾げてしまう。何か深い事情でもあるのだろうか。だけど、それを訊ねることは許されないようだ。
その証拠に、と時は千鶴を置いて、さっさと前に進んでいく。気になるといえば、気になるが、それを聞ける仲というわけでもない。
それに運良く話してくれたところで、何かの怪異のように千鶴が解決できる話でもないだろう。千鶴は頭を振り、先程の疑問を頭の中から追い出すと、小走りで時の後を追った。