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 その日、昼も過ぎた頃、神戸千鶴は同じ陰陽生の西宮(にしのみや)(とき)と共に土御門(つちみかど)にある安倍晴明の邸宅に招かれていた。従四位下の位階にあるだけあって、晴明の家は大内裏にある建物と比べても遜色はない。


 そんな緊張して然るべきところなのだが、肝心の二人はどうにも頬を緩ませてしまうのだった。というのも、火桶が一つも無いのに、部屋の中が暖かいのだ。


 勿論、御簾一枚の向こうの外は時節通りの冬の寒さである。実際、千鶴たちもそれを嫌ほど体験して、肩を震わせながらようやく晴明の家にやって来たのだ。


 しかし、千鶴たちが今いる部屋は、それが嘘だったかのように、春陽を当てられたうららかな空気を醸しだしていた。


「わざわざ来てもらって、すまない」


 千鶴たちが部屋の暖かさに心を弛緩させ、人心地ついていると、凛と鈴を鳴らすような声が、屏風の向こうから聞こえてきた。その音は喚き散らすように周囲に響き渡るのではなく、一直線となって相手の耳の中に入ってきて、不思議と余韻を残す。


 何とも妖艶で、美しい楽器の音色のようでもある。この声の主が安倍晴明でなければ、千鶴たちもそのままゆっくりと耳を傾けていたい気分だ。


 だが、貴人を前にそんな無様な姿をさらけ出せば、彼女らは叱責を免れない。千鶴たちは慌てて姿勢を正し、床に膝と手をつけた。


「楽にしくれて構わないよ。知っていると思うが、私は堅苦しいのは嫌いでね」


 千鶴と時の前に現れた晴明は、にこやかに告げると、畳に腰を下ろした。気さくな物言いに、烏帽子と狩衣姿の気楽な格好だが、その挙措(きょそ)婉然(えんぜん)としており、畳にただ座るという姿も絵になっている。


 とても老齢の男性とは思えない。だけど、それも当然のことだろう。


 晴明の肌は瑞々しく張りがあり、老いで弛んだところが、どこにもないのだ。腰も曲がっておらず、背筋もまるで竹が突き刺さっているかのようにピンと真っ直ぐに伸びている。


 妖怪を射すくめるが如き切れ長の目の中にも、老人によくあるような諦観や妄執も欠片も無く、逆に生命力に溢れ、溌剌と輝いている。仮に彼に後光が差していても、誰も疑いを持たないだろう。


 安倍晴明は、そんな妙な説得力と魅力を持った人間であった。


「今日来てもらったのは他でもない、と本題に入る前に、まずは喉でも潤そうか。白湯(さゆ)でいいかな? それと、実は最近、京で評判の菓子を手に入れたんだよ」


 晴明がそう言うと同時に、屏風の向こうから白湯と菓子を乗せた膳を女中が持ってきて、千鶴と時の前に並べた。そして晴明の言う評判の菓子を目にした千鶴の額には、冷や汗がドッと滝のように流れていった。


 今まで、自分が何故晴明に呼び出されたのか皆目見当がつかなかった千鶴だが、ここにきてようやくその疑問が氷解したといった感じだ。案の定、晴明は千鶴を冷たくねめつけて、こんなことを言ってくる。


「何でも、その煎餅は私の好物らしい。いや、全く私自身も初耳のことなのだがね。どうやら私の一番弟子を名乗るものが、勝手にそう(うそぶ)いたらしい」


「そ、そうですか」


 ダラダラと流れ出る汗を何度も手で拭いながら、千鶴はやっとのことで返事をした。進退を極まるとは、こういうの言うのだろうか。


 千鶴の頭には弁明の言葉が全く思い浮かんでこない。いや、錯雑とした形ではあるが、いろいろと思い浮かんでは来る。だけど、そのどれもがこの窮地を脱するのには役立ちそうにないのだ。


 千鶴の顔は、段々と苦悩と懊悩に満ちた醜いものへ変貌していった。そしてそれを眺める晴明は、いよいよ無慈悲で酷薄な笑みを浮かべてくる。


「どうした、千鶴? 顔色が悪いぞ。どこか身体の調子でも悪いのか?」


「い……いえ」


「そうか。それじゃあ、その菓子をさっさと食べなさい。折角、用意したのだから」


「は……はい」


 蚊の鳴くような小さな声で弱々しく返事をすると、千鶴は膳に置いてあった煎餅を震える手でどうにか取った。だが、ここでそれを食べるのは正解なのだろうか。


 何だか、言われた通りに行動してしまったら、全てが終わってしまうような気がする。いや、正否を問う前に、まずはすべきことがあっただろう。


 どうにかそれを思い出すことに成功した千鶴は、煎餅を置き、膳を横にずらして、息を大きく吸うと、勢いよく額を床に打ち付けた。


「すみませんでしたーーーー!!!!」

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