参
明くる日、陰陽寮にやって来た礼の格好は昨日のものとは随分と違っていた。
丁子色の野暮ったい小袖は、絹の布地を白縹色に染め上げた上品なものに変わっており、その服の上に羽織った青色の袿には、蒲の穂綿でも入っているのか、随分と厚手で何とも温かそうな一品であった。
礼は千鶴の目の前にやって来ると、くるりとその場を回って、着ていた服を見せびらかした。
「えへへ~、どう、ちづ?」
「……う、うん、いいと思うよ」
千鶴が言葉に窮してしまったのは、何も着飾った礼に嫉妬を覚えたからというわけではない。礼の後ろにいた竜宮童子の容貌もまた、昨日とは変わっていたのだ。
まっさらな陶器とも言えるような綺麗だった顔の肌には吹き出物が溢れ、肩には大量のフケが乗っている。そして身体はというと、黒く汚れた垢が厚く覆い、童子が腕や首を掻くと同時にポロポロと、その欠片が床に落ちていっているのだ。
見ているだけで、こちらの肌が痒くなってくる不潔さであった。
「ねえ、礼、気づいているかもしれないけどさ、その子……」
千鶴は、それとなく礼に注意を促そうとする。竜宮童子の変貌は、明石礼の裕福さに関係していることは、明らかだ。
このまま際限無しに願い事を言い続ければ、どういった変化が竜宮童子に訪れるか、想像するだに恐ろしい。だけど、そこは仮にも陰陽生の礼。千鶴の言わんとしていることは、心得ているようだった。
「ハハハ、大丈夫だって、ちづ。竜宮童子でしょ? このくらい平気、平気! それよりもさ、皆で何か食べに行かない? 今はお金に結構余裕あってさ、唐菓子でもおごるよ~」
礼は千鶴の心配を晴れやかに打ち払い 陽気に声をかけた。千鶴の不安はそれでも残るが、本人が気づいていて尚、平気だというのなら、言葉のかけようもない。
それに滅多に口にすることができない甘味がタダで食べられるとあっては、千鶴の心はやっぱりそちらに傾いてしまう。そしてその機会が失われるとなっては、喜べる道理があるはずもない。千鶴は笑顔で太鼓を叩いた。
陰陽生の皆でお茶と唐菓子を仲良く食べた翌日、陰陽寮に異臭が漂った。鼻の奥まで突き刺さり、更には胃の中をかき乱して、その内容物を撹拌するかのような汚臭。
いつか老夫婦の台所で千鶴が嗅いだ臭いが、かわいいとすら思えてくるほどの強烈な刺激だ。千鶴たち陰陽生が鼻をつまんで、何事かと辺りを見回していると、いきなり御簾が上げられた。
そこに目を向けてみると、顔に白粉を塗り、唇には紅を差し、クロテンの毛皮を羽織った女性が胸を張り、誇らしげに立っている。臭い上に、奇妙奇天烈極まりない格好の人ではあるが、貴人の一人かもしれない。
千鶴たちは慌てて床に膝をつき、手をつき、挨拶をしようとした。しかし、彼女らの頭が下げられる前に、随分と聞き慣れた声での笑いが、その部屋の中で木霊した。
「ひょっとして、礼?」
千鶴が破顔する真っ白な顔の女性を丹念に窺い、そこに一つの面影を見出すことにようやく成功する。そして礼と問われた女性は、それを肯定するかのように一際、笑い声を大きくした。
「ハハハ、ほんと、おっかしいの! 皆が私を貴族の誰ぞと勘違いしているんだもの! 私は私! 明石礼だよ~!」
「それでその格好は、どうしたのよ?」
ひとしきりして、礼の笑いが収まると、千鶴は陰陽生の皆を代表して訊ねた。すると、礼は喉の調子を整えるように軽く咳払いしてから、袖で口元を隠し、まるで貴人のような奥ゆかしさを演出して答えを述べ始めた。
「おほほ、千鶴さん、ここは陰陽寮。なれば、敬いて、装束整えてこそ、礼儀にかなうもの。千鶴さんは、些かそこを軽んじられている様子。それでは安倍晴明様も、嘆き哀しみましょうぞ」
「うるさい。余計なお世話よ」
と、千鶴は礼を突き放す。そうして二人はお互い睨み合い、やがて堪えきれなくなったかのように笑い出すというのが、いつもの光景だ。
しかし、今日の千鶴はただ顔を歪め、胃と口を手で抑え、こみ上げる吐き気と必死になって戦っているだけであった。その様子を見て取った礼は、立ち込める不穏な空気を追い払うように、慌てて笑顔を作って、口を開いた。
「いや~、うちが祇園社の参道の露店で煎餅を作って売っているのを、ちづは知っているでしょ? それが今度、ちゃんとしたお店を持つことになったの。それも大っきいやつのね。それで、お父さんとお母さんがさ、これからは貴族の方々との付き合いが出てくるかもしれないから、服も格好もちゃんとしたのにしろ~て」
どこがちゃんとした格好なのか。下手な冗談としか思えない発言に、その場にいた全員に思わず怒りが募る。
だけど、その感情をぶつける機会は、ついぞ訪れなかった。陰陽生の皆が口を開きかけたところで、醜悪な姿をした童子が部屋に入ってきたのだ。
彼の顔は赤黒くただれ、そこからは汚らしい膿が止め処なく流れ出ている。身体は壊死しているかのように黒ずみ、強烈な腐敗臭を漂わせている。
どうみても、陰陽寮に立ち込めた臭いの原因はこれである。ひょっとして、これが昨日と一昨日に見た竜宮童子なのであろうか。だとしたら、明石礼はどれほどの願いを竜宮童子に叶えてもらったのだろうか。
千鶴たち陰陽生がおそるおそる童子を見つめていると、彼は礼の毛皮をおもむろに引っ張った。礼は一瞬ほど眉を顰めて嫌悪の情を見せたが、すぐさまそれを取り繕い、笑顔で童子の顔にある膿を手ぬぐいで拭いていく。
献身的な介護とも言えるが、そこには以前の礼にあった快活さや温かさは微塵も感じられない。礼の我慢が限界に達しようとしていることは明らかであった。
「ねえ、礼」
千鶴は肺にある空気を吐き出すのが勿体無いと言わんばかりの小さな声で、弱々しく呼びかけた。しかし、礼はその先の台詞を拒むかのように急いで立ち上がり、千鶴に元気一杯に話しかける。
「というわけで!! 私はしばらく陰陽寮に来ないかも!! お店の立ち上げで、色々と忙しいからね!! 私は絶対成功してみせるよ、ちづ!! 貧乏なんか、もう嫌だからね!!」
言うだけ言うと、礼は千鶴の言葉を待たずして、童子を連れたって、陰陽寮を出て行ってしまった。陰陽生の皆は、これでようやく息を吸えると安心したが、肝心の臭いは竜宮童子が去っても、消えることはなかった。
陰陽博士が来る時間になっても、残り香がきついまま。結局、その日の授業は、そこで終わりを迎えることになった。