弐
「竜宮童子!?」
千鶴は思わず驚きの声を上げた。竜宮童子。その名前の通り、竜宮の子供だ。
竜宮は海の神の住処であることからして、そこの童子もやはり神に名を連ねるものなのだろう。大内裏の結界は妖怪などの陰の気を祓い、その侵入を防ぐものである。
そして神は妖怪とは正反対の陽の気の持ち主だ。だから、難なく結界の中に入ることができたのであろう。
だけど、真に驚くべきことは、そこではない。それは竜宮童子の逸話であり、その能力だ。
曰く、竜宮童子には願いを叶え、富をもたらす能力があるという。それが事実であるなら、確かに明石礼が笑顔になるのも頷ける話だった。
「え、それって本当なの? 騙りとか礼が勘違いしているとかじゃなくて?」
常識的な観点から、千鶴は疑問を投げつけた。だけど、それで礼の考えを覆すことはできなかったようだ。彼女は平然とこんなことを言ってくる。
「大丈夫。そこはもう確認した」
「そ、そう」
千鶴は、ようやっと頷いた。竜宮童子を手に入れるなど、物凄く羨ましいことである。
お金があれば、解決できる問題もたくさんあるし、何より人生における選択肢が増え、生活が豊かになる。正直、喉から手が出るほど欲しい。
しかし、そういった感情をあからさまに見せては、礼に警戒心を抱かせ、友情にヒビを入れることにもなってしまう。千鶴は精一杯愛想笑いを作り、できるだけさり気なくお追従を言った。
「す、すごいね、礼。さすがだね。参ったよ、私は」
「うへへ~」
「と、ところでさ、どこでその竜宮童子を手に入れたの? 私、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけど、気になるな~。あの、良かったらだけどさ……」
千鶴は礼の表情を窺いながら、躊躇いがちに質問した。すると、礼は顔一杯に笑みを貼り付け、盛大に胸を反らしながら答え始めた。
「あれ? ちづも気になる? ふふふ、いや~、苦労しましたよ~。春に授業で竜宮童子のことを教わった時、これだーなんて思ってね。それ以来、暇を見つけては、神社やら寺やら、とにかく神様が居そうなところに片っ端から松の枝とか縁起の良いものを投げまくってきました。正直、どこの神様が聞き届けくれたかは分からないけれど、いや~、神様はやっぱり居るもんなんだね、ちづ」
阿呆極まりない回答である。ちゃちな貢ぎ物を捧げるだけで、竜宮童子がやって来るなら、今頃は全ての人間がお金持ちになっているはずだ。
せめて、どこの神社か寺かさえ分かれば、色々と検証できる余地はあるのだが、この分ではそうはいかない。夢が儚く散っていったことを悟った千鶴は盛大に溜息を吐いた。
「ほら、鼻をチーンってして」
突如、千鶴の耳の中に入ってきた声で現実に引き戻された彼女が目にしたのは、礼が竜宮童子の鼻をかんでやっているところだった。その光景で、あることを思い出した千鶴は先程の莫迦みたいな俗念を戒め、今度は陰陽道に携わる人間として、厳かに言い放つ
「浮かれているところ悪いけれど、礼、授業で習ったこと、ちゃんと覚えている? 竜宮童子によって得られる富は永遠のものじゃないんだよ?」
竜宮童子の話の結末としてあるのは、いずれも童子を邪険にしてしまい、それによって財宝が消え去ってしまうことだ。これを失念してしまっては、折角手に入れた幸運も意味を成さなくなってしまう。
だけど、いつも調子の良いことばかり言って失敗している礼だが、今回ばかりは違うようだった。
「分かっているって。もう心配性だな~、ちづは。竜宮童子に冷たくすると、願いで得たお宝が消えちゃうって話でしょう? 大丈夫だって。もうこれから毎日、ホカホカになるまで温かくしまくってやるよ、私は!!」
礼は両手で拳を握り締め、血気盛んに意気込む。今まで、ついぞ見せたことがないほどのやる気だ。
これなら、大丈夫なのかもしれない。千鶴がそんな所感を抱くと同時に、部屋の中に教鞭を執る陰陽博士が入ってきた。どうやら雑談の時間は終わりを迎えたようだ。千鶴と礼は慌てて竜宮童子を外に追いやり、博士への朝の挨拶を述べた。