四 傷痕
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四 傷痕
僕は、欠陥品なんだ――。
小学五年生の夏休み。不意に感じた違和感。魁地が車の後部座席でなんとなく外の景色を見ていたときだった。それは視覚で得られるものではなく、突然頭の中に湧き上がってきた悪寒のようなもの。
冷たい風が半開きのドアウィンドーでランダムな気流を作り、彼の顔をやさしく撫でている。
父親が鼻歌まじりにハンドルを握り、助手席の母親は袋に手を入れてカラフルな飴を弄る。一見すると何気ない風景。しかし、その日常は遠くに見える対向車線のトラックが突然左右にぶれ始めることで非日常と化す。
トラックの揺れは見る間に大きくなり、彼の車がその少し手前に差し掛かったとき、その傾きは限界を超えた。括り付けられたワイヤが次々に切れて弾け飛び、詰まれた大量の鉄パイプが雪崩落ちる。
宙に投げ出された鉄パイプはトラックのスピードを保持したまま巨大な矢と化し、彼の車のフロントガラス目掛けて次々と飛び込んでくる。
もはや彼らには成す術はなかった。両親の体は何本もの鉄パイプで肉を削ぎ落とされ、そのほとんどは挽肉のようになって周囲に飛び散る。車はコントロールを失い、突き刺さったパイプで裁縫道具の針立てのようになったままガードレールを突き破り、川に沈む。
――冷たい風が半開きのドアウィンドーでランダムな気流を作り、彼の顔をやさしく撫でている。
「……あれ?」
スピードが変わるたびに音域が変化するEV車のモーター音が耳元で囁く風の音と調和して、心地好いメロディーを奏でる。
変わらず快適な車内。それだけに、たった今彼が見た光景は吐き気のするような不快感と恐怖で満ちていた。特に、まだ子供の彼にはあまりに衝撃が強かった。
それは彼に具わった一種の予知能力。だが、普段は予知というには短すぎる先の未来しか見ることができない。一秒から、精々三秒程度だ。それも、自分で見ようと思わない限りは見ることが出来ない。だから、不意な事故を都合よく検知することは難しい。
だが、このとき見た予知は珍しくもっと先のことのようだった。それも、自分が望まぬして、まるで誰かから送り込まれた、予知と言うより経験に近いものだと感じた。今はまだ車の中で、両親が前に座って父親が鼻歌を歌いながら運転している。なんらおかしな所はない。
彼はそれがただの夢だったのかもと思う。そう、そうに違いないと。
彼がふと前方を見ると、対向車線を走る黄色いトラックがこちらに迫っている。
彼は嫌な予感しかしなかった。そのトラックはカーブを通り過ぎてすぐ、荷台の荷物が傾いて重心を崩し、少しずつ左右に揺れ始めた。それは既に見た通りに繰り返された。
「パパ、止まって!」
「何でだ。トイレか? 少し我慢しなさい」父親は顔を横に向け、横目で後部座席の彼を覗った。
「いや、違う、前だよ。トラックが、いいから止まって!」
「おいおい、ふざけてるんじゃないぞ」
父親が正面に向き直ると、トラックはすぐ近くに迫っていた。そしてその時、トラックが大きく傾いた。荷台から滑り落ちていく鉄パイプが甲高い金属音を響かせながら、次々に彼の車を目掛けて飛んでくる。
「あっ!」
寸分たがわぬ光景が、今彼の目の前に広がろうとしている。それはもう一度繰り返された幻影なんじゃないのか、彼はそう思いたかった。だが、降り注ぐパイプの嵐の中、降り掛かる両親の血肉を肌でリアルに感じることができた。
彼にはそれが夢の産物とは思えない。それはとても温かい。あまりの温かさに驚き、涙が溢れた。
こうなることは分かっていたはずだ。選択を誤ったのは自分だ。
分かっていた。そうなってほしくはなかった。しかし、僕には何も変えられなかった。だから、その結果は、全て自分のせいなんだ。自分がいるから、悪いことが起きるんだ。
それはあの時にもう、分かっていたはずだった。
あの時――彼には他にも特別な能力があった。
手で触るだけで人の神経を麻痺させ、その動きを止めることもできた。
ある日の放課後、友達が数人の生徒に連れて行かれた。人のいない路地裏。彼は苛められていた。苛めはすでに度を越えていて、カッターの刃先を友達に突きつけているところを見てしまった彼は、咄嗟に割り込んで彼らの動きを止めた。
恐怖で引きつらせた顔。誰も、そのときに何が起きていたのかを理解できなかった。そして魁地さえ、次に何が起きるかを理解できていなかった。
彼の耳に飛び込んできたのは、悲鳴だった。助けられた友達は、動けないそいつらに次々と奪ったカッターの刃を突き立てた。彼らの叫び声は狭い路地裏の壁を幾度も反射し、魁地の脳裏に焼きついた。
全員一命は取り留めたものの、事は刑事事件に発展し、友達は収監された。
そして、彼はその後、自ら命を絶った。
「僕は、欠陥品なんだ」彼はいつも、そう言っていた。そらが、口癖になっていた。人とは違う何かがあるにも関わらず、それを活かすことができない。むしろそれはいつも悪い方向に働く。
たまに普通の人には見えないものが見えるから、言動が奇矯に映る。
だから、彼は周囲から浮いていた。
だけど、それももう終わりだ。もうこれ以上、悩む必要はない。
――彼はそう思い、目を瞑る。
次々に車に突き刺さる鉄パイプ。それが自分を貫いてくれる。そうやって何もかも、終わってくれればいい。……と、彼はそれを期待したが、一向に痛みを感じない。
彼は目を開く、ゆっくりと。すると、目の前には寸前で止まる何本もの鉄パイプ、そんな光景。
「えっ……どういうこと?!」と、彼が思った矢先、車がガードレールにぶつかり、その反動で鉄パイプが押し込まれた。それは彼の胸を目掛けて突き出してくる。
今度こそ終わり――彼は冷静にそれを見つめている。
全ての事象がゆっくりと、スローモーションで。
しかし、突き出される鉄パイプは彼の目の前で、まるで見えない壁に弾かれたように突然動きを止めた。そして奥歯を震わすような甲高い音を放ち、くの字に折れ曲がった。
車は激しく回転しながら土手を転がり落ち、彼は床になった天井に体をぶつけ、次に床になったドアに思い切りぶち当たる。そして勢いで開いたドアから外に投げ出された。
頭を打ち付けていた彼はそのまま意識を失った。そして車はそのまま川へと落ち、ゆっくりと沈んでいく。
朝日が南へ這い上がり真昼の太陽になろうとしているその頃、川はその箇所を境に赤い帯を伸ばし、日の光をまだらに反射して紅染めの模様を作り出していた。
◆◇◆◇◆◇
グラウンドに横たわる魁地の周囲は、流れ出る彼の血で真っ赤に染まる。
そして、その赤い水たまりは、けたたましい音を掻き鳴らしながら迫りくる清掃車の振動で、幾重にも重なる波紋を作っている。
清掃車が魁地に迫る。運転している異端審問官の残党は、気が動転してハンドルを真直ぐに握れないでいる。車はバックで高速走行しながら殺意を持って魁地に向かうが、間一髪、彼の脇をかすめた。
「くそっ、ヤバい。このままじゃ俺も害獣に殺される!」
男は咄嗟にハンドルを切り、再度魁地へと正面を向けた。
「……こんどこそ、やってやる」
急発進する清掃車。
地面を削りながら、車両のタイヤはさらに回転速度を増していく。
霧生や真理望は成す術なく微動だにできず、まるで停止したような時の中で、ただその光景を見つめるしかなかった。
そして、ついにそれは、魁地を通過した。
「た……多綱、くん」
霧生は目の前の光景を疑った。
車両はすぐ先の防壁に衝突し、炎上している。そして、壊れた車両の金属片に紛れて、小さく分かれた彼が点在する。
彼の体はまるで叩き割られたスイカのようにジューシーに飛び散っていた。彼女は高まる心拍と呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと深呼吸しながら目を瞑った。そして何かを感じ取ると、その目を見開いた。
「織里さん……」
霧生は真理望の元へと走った。真理望は車両の中で魁地の方を見つめたまま微動だにしない。瞬きもせず乾いたガラス球のようになったその目からは生気が感じられない。
「たづな……たづな……たづ……か、かいち……」
正気ではなかった。
彼女は目の前で起きた一部始終を目の当たりにしながら、現実を受け止められないで意識は中空を彷徨っている。
衝突の影響で怪我もしているようだ。額や腕からは血が流れ落ち、服のあちこちが赤く染まっている。呼吸も異常に荒い。
「織里さん、しっかりしてください。織里さん!」
霧生は負傷した真理望を支えながら、彼女の目を魁地から逸らしてその頬を叩いた。
「織里さん、もう大丈夫ですから、織里さん!」
真理望の瞳孔が徐々に絞られ、その目はやがて霧生の視線に交わった。
「よかった。織里さん、怪我をしているようです。早く処置をしないと」
「たづな……多綱……多綱は? か、魁地は? あいつ、私を助けて……」とその時、真理望の頭に先程の光景がフラッシュバックした。大きな鋼鉄の塊が魁地をなんの抵抗感もなく潰していった。
「きゃぁーーーー!!」
突然手足をバタつかせて暴れ出した真理望を霧生が強く抱きしめる。骨が折れていたりしたら危険だ。
「落ち着いて、落ち着いてください。大丈夫です、大丈夫。大丈夫ですから……」
霧生の薄い胸の中で、真理望の鼓動が鳴り響く。押さえていた彼女の手はやがてゆっくりと力が抜け、呼吸も落ち着いてきた。
「ご、ごめんなさい。霧生さん。……私、何が起きたのか分からない。多綱に、魁地に助けられて……あいつは、あいつは?」
真理望は彼の方を見ようとするが、霧生は彼女を抱きしめたままその視線を遮った。そして彼女に子守唄を聞かせるように、ゆっくりと話した。
「織里さん、大丈夫ですよ。多綱くんは大丈夫です。すぐに、会うことができます。ですから、織里さんは少しの間病院に行きましょう……大丈夫です。すぐに、会えますから」
「かいち……うん……」そして、彼女はゆっくりと目を瞑った。
霧生は彼女を抱いたまま後ろを振り返った。
その先には損壊の激しい彼の塊が横たわっている。普通に考えればアウトな光景。その塊は生物学的に生きているのかさえも不明だ。
彼女は何かを探るように彼を見つめる。
そしてようやく、けたたましいサイレンと共に、特殊警備団や緊急車両が駆けつけた。
……大丈夫です。絶対に。