一 毎朝見るいつもの光景
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一 毎朝見るいつもの光景
溶けたアスファルトがねっとりと靴裏に絡みつき、一々足を引き剥がしながら歩くのが煩わしい。まるで地面の熱気が空気まで溶かしているかのように、目の前の景観が歪んで見える。
十月が秋と言われた時代があったらしいが、その時に生まれたかったものだ。
魁地は体に溜まった熱を吐き出すのに、オペアを全開したくなる衝動を抑え、今朝もだらしなく垂らしたシャツで汗をぬぐいながら、ソラシマ三高へと向かっている。
あ~、早く空調でギンギンに冷えた教室に入って、真理望にセキュリティー不正解除してもらった端末でネトゲやり――っぐふぅっ?!
突然襲った背後からの衝撃。
「おっはよぉ~、魁地!」
「ってぇなぁ~!」
相変わらずの能天気な声がキャピキャピと魁地の背中をくすぐり、さらに声だけでは飽き足らないと言わんばかりに、豊満な二つの隆起物をズシリと惜しげもなく押し付けてくる。
「てめぇ、真理望! 公衆の面前で飛びついてくんなっていつも言ってんだろが!」
「なになに? 魁地ったら照れてんのかなぁ? かわゆいのぉ、おいおい」
「だから、ちげぇよ! 俺の面子ってもんがあんだろが!」
「大丈夫。引き籠りゲームオタクのあんたに面子もなにもないわよ。それより、いっしょに学校行きましょ、きゃぴっ」
「きゃぴっ……じゃねぇよ、ったく。だからさっきからおめぇのデカい胸が当たってんだよ背中に」
「はぁ?! なに言ってんのよ、エッチ、変態、馬鹿魁地!」
――という、毎朝のルーチンワーク。
退院して学校に復帰してからというもの、真理望は毎朝この調子だ。
そしてこの後、魁地はいつものように全身に突き刺さる槍のような視線に、悪寒を覚えることになる。
屈託のない笑顔を帯びた童顔に似合わぬ、スポーティーながらもグラマラスで妖艶なボディー。成績も優秀で人当たりも良い。そんな真理望は、すれ違う男子の眼を釘付けにし、校内でも一際目を引くアイドル的存在になっていた。
四六時中注目の的になっているそんな彼女が、悪評高かった魁地が入院明けて登校し出すと、毎日のようにこの調子とあらば、周囲の男子は黙っているわけもなく。魁地の半径二十メートル以内は死ね死ねオーラで充満している始末だ。
こうなっては、どんな形であれ人付き合いを極力避けたい魁地にとって死活問題であり、とにかく真理望を遠ざけたい一心なわけであるが。
しかし、そうは問屋が卸さない。
などという古き良き表現に舌鼓を打っている場合ではなく、事実、今朝も魁地が下駄箱の蓋を開けると、そこにはどっさりと画鋲の敷き詰められた上履きが口を開けて待っていた。
いや、これむしろ履けないでしょ。
「くっそぉ~。おいっ、真理望。おめぇのせいでこの有様だぞ」
「はぁ、人のせいにしないでよね。それは魁地の素行の悪さがさせてることでしょうが」
「あっそ。じゃぁ、素行の悪い俺にはもう近づかない方がいいぜ。じゃな」
「……ええぇ……かいちぃ。そんなこと言わないで、ぐすん」
魁地の背後で真理望がくすんくすんと鼻をすすり出す。彼女の目には涙が汁ダクで溜り、今にも溢れ出しそうだ。
すると、さっきまで感じていた鋭い視線が、今度はハンマーのように重みを増し、魁地の全身に打痕を残す。
四面楚歌。
ちらりと目線を流すと、いつの間にか彼を取り囲んでいた男子生徒らが皆睨みを効かせ、殺気立っていることに気付いた。
(……もう、勘弁してください。泣きたいのはこっちだよ)
魁地は慌てて真理望に謝意を表明し、バケツいっぱいの冷や汗で脱水症状を発祥しそうになりながらなんとか教室まで辿り着いた。
朝からマジ疲れんぜ……。
「多綱くん、おはよう、ございます」
「どわぁっ?!」
背後から突然投げかけられたウィスパーボイスは、いきなり首筋に氷を擦り付けられたかのように、魁地の頸椎に冷感を走らせた。
「び、びっくりした。霧生かよ、相変わらず存在感ねぇな」
「むっ……なんなら今すぐその体の操作権を奪ってもいいんですよ」
と言いつつ、霧生が胸ポケットからカード状のルーナ―を取り出した。
魁地は「いやいや冗談でしょ」と苦笑いを浮かべるが、彼女のゴミを見るような蔑んだ目は、とても冗談を言っているようには思えない。
「あの……砂菜さん、本当にすみませんでいた」
フェルベアードの襲撃から一ヶ月が経過した。
魁地は三週間ほどの入院で退院し、もはや住み慣れていた病室から寮に移って、通常の学校生活に戻っていた。
比較的大きな怪我を負った結浜は、今も療養のため入院中だ。どうやら自分の体には彼の能力ボンダーを使えないようで、人の体は修繕できても、自分は直せないのだと彼は言っていた。あと少しで退院だそうだが、彼は久しくバグズの戦線から離脱している。
その間、結浜の代わりにバグズの指揮を執っていたのが信司だ。だが、伝説とまで言われたフェルベアードの撃滅とエンバッシュの死はアングラに相当なインパクトを与えたのか、その後ザルバンの絡むようなバグズ案件の事件はほとんど発生しておらず、半月ほど経つと、信司も研究が忙しいと言ってアーティファクトから出ていってしまった。
結局、今では、最も冷静な判断ができるということで、霧生がバグズの指揮を執っている。が、ほとんどは山田と華凛の口喧嘩の仲裁係だ。
そして、越沢先生がその秘書として彼女をサポートしている。
とまぁ、バグズ的にはまだ完全復活というわけではないが、魁地にとっては、ようやく訪れた平穏な高校生活だった。
未だに異能学の講義はうざったいことこの上ないと思っている彼ではあるが、ある程度自分の能力の脅威を理解しているようで、少しはまじめに取り組むようにもなっていた。
そして、今日もこうして日常が始まるのだ。
いつものように、チャイムギリギリでだるそうに席に着くと、徐に教室に入ってきた担任の越沢が教卓に構えて、趣旨不明のしたり顔を生徒に向ける。
そして、いつものように言うのだ。
「やぁ、諸君。昨夜はよく眠れたかな? 今日も一日頑張りたまえ」
(たまえじゃないっつうの。たまえじゃ。越沢、自分のイメージにビジュアルが追い付いてねぇぞ。痩せて出直してこい)
魁地はこれまた毎朝のつっこみを心の中でかまし、中年の太ったおじさんで霞んだ眼を隣の真理望でこっそりと回復させる。
そう、じつは横からのアングルがたまらなくいいのだ。
ちらり。
「またエロい目でこっそりこっち見てる。変態」
「……なんで最初からスタンバってんだよ。この女はよ。それって逆に、最初から俺を見てたってことだろ。怖い怖い」
「?! ……はぁ? あんたのことなんか見てないわよ。自意識過剰なんじゃないの? ぷぅ」
あ~あ、また膨れちゃったよ。くっついたり離れたり、こいつのことはよく分からん。
真理望は顔を赤らめて頬を膨らませている。そして、教室の対角に目をやれば、そこにはこっちを睨んで同じように膨れている彼女がいる。
「おっ、霧生も相変わらずだな」
これもまた毎朝見るいつもの光景。今日も平和だ。
(う~ん、でもなんか……)
魁地は教室に目を流す。周りの生徒は相変わらず狂信的に目を輝かせて越沢を見ている。
まぁ、やる気があるのは良いことだが、みんな、そのおっさんはただのおっさんだぜ。目を覚ませ。――というツッコミもまた、いつも変わらぬ日常に他ならないのだが、今日はなぜか胸騒ぎがする。
そして彼の感じたそれは、次に発した越沢の一言で理解に至った。
「それじゃ、ちょっと急なんだが、今日は新しく君たちのクラスメートになる転校生を紹介する。浦戸君、入りたまえ」
ガラリと開いた扉から入ってきたのは、まるで絹のように滑らかな長髪をなびかせてしとやかに歩く、清楚という言葉を擬人化したような美しい女子生徒だった。
「浦戸 望と言います。皆さん、宜しくお願いします」




