三七 決断(1)
三七 決断(1)
チャッ チャッ チャッ チャッ チャッ チャッ……
突然、彼の中に響き始めた音。周囲の音が徐々に薄れ、代わりにそれが音量を増して行く。何の音だろう?
でも、もういいや。
もう、全部どうでもいい。何がどうなったって、俺は彼女を死なせてしまった。
今だから思う、霧生が自分の中で、どれだけ大きな存在になっていたのかを。
チャッ チャッ チャッ チャッ チャッ チャッ……
それでも、それは徐々に大きくなり、彼の中で騒音のように響き出した。
ああ、そうか、これは、時計の音だ。
昔、引き取られた祖父の家で見たことがあった。今では骨董品価値すらあるという針式の機械時計だ。いくつもの精細なギアが絡み合い、静けさの中に心地よい金属音を奏で、時を刻んでいた。
しかし、その音は彼の頭を砕かんばかりに大音量と化していく。次第に、その音に言葉が混じっていく。
多綱くんに会わなければ、私は死なずに済んだのに……多綱くんに会わなければ、私は……
「うわぁぁーーー!!!」
魁地は叫んだ。頭が割れるように痛い。それでも霧生の苦痛に比べたら屁でもないだろう。彼は痛みが怖いのではない、今生きている自分が怖かった。
なぜ、俺が死ななかったんだ?
何故、あのとき霧生を助けられなかったんだ?
なぜ?
彼には叫ぶしかなかった。
とにかく、何が生まれると言うわけでもない。何も解決はしない。ただ、鳴り響く時計の音の中に、自分という存在を溶かして消し去るため、彼は思い切り叫んだ。
地面が歪み、暗闇が明瞭に映り、光が闇を広げる。彼は消えていく。フェルベアードも、結浜も、山田も、信司も、真理望も……全てが彼から遠のいていく。
――この世か、あの世か、どこかも分からない、どこか――
そこは、見渡す限り、何もない。
海もなければ、かと言って砂漠でもない。ただ、彼の左手はべっとりと血に塗れ、それが何故かも、どうしたらいいのかも分からないが、それに比して右手だけは綺麗だ。
誰か教えてくれないか?
どうせ誰もいないんだろうが、言うだけは言わせてくれ。
目の前には何の道もなく、目印もない。どこに進んだら良いのかも分からないのだから、ここに縛り付けられていたとしても状況は変わらない。いやむしろ、その方がいい。今はその足が地面を踏みつけているのか浮いているのかさえ分からないのだから。
しかし、じつは少し前まで、彼はこれまで通り全てが見えていた。その自分以外に支配された世界の中で。
あらゆる物理法則と理論が構成する世界。そして、その中で繰り返される有機的な反応の連鎖。そう、彼はそんな既存の世界で、既存のルールと法則に則り、他人と干渉しつつも自分なりに人生なんてものを考えたりもして、でも稀に世の中の決め事を破ったり。特殊な事情があるにせよ、そんなのは普通の人間と言えば、普通の人間だ。そう、彼は人間に他ならない。
――でも、今は違っている。今、彼は全てを支配している。彼を縛る法則などない。その世界の誰も、彼に抵抗も反抗することもできない……否、彼に反抗できる者はいない、と言うよりも正直な話、彼以外、もうそこにはいない。
よって、彼が、世界。つまり、神と同義。
自由という無、無という自由。
口では軽々しく言ったりもするが、そんなのはっきり言って、神にすら想像はできない。結局、どっちだっていう話だ。
だから、当然の如く彼は困惑している。つい昨日までは自分のベクトルを他人の動かした何かで決めていた。
そう、だから、「自分発」なんて言うのは嘘、あり得ない。
オリジナルの人生、オンリーワン、自分だけの道を歩む。
――そんなものは、結局のところ既にそこにある流れの中で、無抵抗に身を委ねたり、はたまた逆行したり、思い切って道を逸れてみたり――いずれもそこに流れがあるから、それに比して自分を見出すことができる。そういう意味では、人生なんて独創的なものではあり得ず、選択的なものなんだろう。
だから、人って言うものは弱い。人には、必ず人が要る。
でも、彼は神になった。
神になった彼は、もはや何もできない。人間は、変に世の中を否定すべきではない。そんな格じゃないんだ。そして、誰がそんな格を持ち合わせているかって……それは、誰もいない。ここにいる神だって、図らずもそうなんだ。何が正解かは、誰にも分からない。
さて、今や神となった彼を救えるのは、誰だ?
――そんなの、やっぱり神しかいないだろう。
「多綱さん。お目覚めですね」その声で、魁地は我に返った。




