十 中庭(2) 能力
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十 中庭(2) 能力
――ソラシマ実験区 結浜研究所付属病院 中庭の散歩道――
そうこうして、取り乱していた二人はようやく落ち着きを取り戻し、中庭の散歩道を歩いていた。
研究所と病院の間を横切るこの道は、両脇に茂る木々で外部の喧騒から遊離された特別な空間だ。やがて公園に飽きたカップルたちは、景観の変化を求めてここを歩き出すと相場が決まっている。
「あ! ねぇ魁地。あの蝶、綺麗ね。見て、お花にとまったわ」
「お、おぉ。そうだな……」
魁地は挙動不審に辺りをキョロつく。彼はこうも生身の人間と居ることに慣れないものかと、自分の対人スキルの無さにげんなりする。そして、そんな彼の内情を知らず、真理望は微風に舞う薄手のギャザースカートを押さえながら蝶々を追い、無邪気にはしゃいでこの空気を満喫しているようだ。
「なんだか避暑地に旅行に来た気分ね。きゃははっ」
「おい、そんなにはしゃいでっと転ぶぞ」
「っへん。そんなへまはしませんよぉ~だ! ……て、わわっ?!」
どてんっ!! 「きゃっ!」
「おっおい、大丈夫かよ?」
脇の縁石に足を引っ掛けて転んだ真理望のギャザースカートが、剥いた魚肉ソーセージの皮のように撒くし上がっている。そして彼女は、魁地の目の前に、薄いピンクの布地を惜しげもなく披露する。
ふっくらと健康的で張りのあるヒップ。布地を少し食い込ませた肉感のある太腿。メリハリある脹脛――なんてこった。こいつは、胸だけじゃない。どんだけ贅沢なボディーを持ってやがるんだ。
「……き、きゃぁ!」真理望は自分のあられもない姿に気付き、慌ててスカートを握り締めた手を股間に押し付け、地面にぺったりとへたり込む。
「ちょ、ちょっと魁地! 何見てんのよぉ!」
涙目の真理望がこれまた凌辱的な魅力を滲み出す。彼は真理望から顔を逸らして赤らめた頬を隠し、覗いた事実から話題を遠ざけようと、咄嗟に彼女に手を差し出した。
「だから危ないって言ったんだよ……ほら、大丈夫か?」
真理望は眉間にしわを寄せて「むぅ~」と怒り顔だが、差し出された彼の手を見てその表情は少し緩んだ。
真理望はその手をゆっくり握り、体重を彼の腕に任せる。滑らかな肌。力強い握力。ただ、彼の手は思いの他冷たく、あまり人間味を感じない。それが何故かは分からなかった。
そう言えばこれまで、こうして彼の手を握ったことなどなかった。自分は魁地のことをほとんど知らない。その距離感がそう感じさせたのかもしれない。真理望はそう思った。
「あ、ありがと」
起き上がった彼女は、もう一方の手でスカートを叩いて砂埃を落とす。
「ね、ねぇ魁地。もう、怪我の痛みはないの?」
「ん? いや、多少つなぎ目……じゃない、間接がキリキリする感じはあるけど、概ね良好だよ」
真理望が握ったままの手をじっと見つめる。魁地は焦り、慌てて彼女の温もりが移ったその手を離してポケットに入れる。
「ほら、もう、こうして歩くこともできるしね」わざとらしくスキップするように軽快に歩いてみせる。
「あ、ちょっと魁地。まだリハビリ中でしょ。無理しないでよ」
「大丈夫、大丈夫」
実際、昨日よりも体の操作は上達していた。彼は昨夜、病棟内を徘徊して歩くトレーニングをした。常に能力を経由しての神経伝達は意識的なコントロールを必要とするが、慣れてしまえばそれも無意識に近くなる。多少の誤差修正は必要とあれ、彼はおよそ自然に動けるようになっていた。
「そうだ。やべぇ、そろそろ検査の時間だ。部屋に戻らなきゃ」
「そっか……もうそんな時間ね。わかったわ」
草木の香りを摘んだ爽やかな風が、彼らを心地好く撫でていく。彼はその感覚に、何故だか以前よりも生身のリアリティーを感じる。
「いい風だな。こうしていると、あの事件なんて嘘だったみたいだよな」
「そうね。あぁ~ぁ、私は明日から学校。もうしばらく休みたかったなぁ」
「俺はまだ検査とリハビリが残っているから、もう少し入院生活だ。学校かぁ……退院したら越沢にまた何か言われそうだな」
魁地はふと、バグズのことを思い出した。ここにいるとそんな非日常を忘れていたが、むしろ今ではそっちが日常。そう言えば、真理望も結浜や霧生からバグズのことやバグアビリティーの話を聞いたのだろうか?
「なぁ、真理望もバグズの話、聞いたんだよな?」
「ええ、もちろん。結浜先生から聞いたわ」
魁地は一つの疑問を抱いていた。真理望は、いったいどんなアビリティーを持っているんだ? こいつもバグズに呼ばれたってことは、何かやばい能力があるということだ。
「な、なぁ。真理望って、どんな能力があるんだよ?」
「ん? ……ん~ん。教えないっ」てへっ!
てへっ……じゃねぇ。「なんで教えてくんねぇんだよ」
「だって、魁地だってそういうのあるって黙ってたじゃない」
「黙ってはない。そもそも聞かれなかったし。それに、あまり使いたいものじゃなかったし……ってか、今は対等なんだから教えろよ」
「ええ~……」
真理望は尖らせた唇に人差し指をつけ、困ったちゃんの様子だ。少し考えた後、真理望は言った。
「実のところ、私自分の能力って何かよくわかってないの」
「は?」結局、はぐらかされたのだろうか……しかしまぁ、そうこう言う自分も能力を正確に把握できたのは霧生に教えてもらったからなわけで。そう考えれば、なまじこいつも嘘とは言えんか。
魁地はこれ以上の追及は野暮と感じた――の、だが。
「織里さんのバグアビリティーは少し特殊です。複雑系の理解、とでも言いましょうか」
……?!
「どあぁ! ってか、霧生かよ! ビビらせんなよ」
魁地の背後から突然現れたのは霧生だった。
相変わらずオーラのない奴だ。ってか、むしろ無のオーラが半端なく出ているというか。ブラックホールか、こいつは。
「こんにちわ。多綱くんの検査に同行することになっていたので」
「あ、ああ。そうだった、すまん」と返しつつも、魁地は霧生の言葉が気になった。彼女は真理望の能力について、何か知っているようだ。
「ところで、さっき言ってた、なんだっけ。複雑系の理解? とかなんとか、ってどういうことなんだよ?」
「理解できませんか? では、カオスの掌握、とでも言いましょうか」
「……いや、難易度変わってねぇし」
霧生がどんどん面倒な奴になっている気がする、と思うのは俺だけだろうか。それとも、こいつは元々こういうとぼけた奴だったのかな。霧生を見ていると、第一印象が幻想であることを実感する。
霧生は空を仰いで半分閉じた瞼に光を受け、何かを考えているようだ。そしてその目が一瞬、ピクリとして大きく見開いた。何か思いついたらしい。
「超演算能力、これでどうでしょう?」
「あ、ああ……まだマシになってきた。計算が速いってことか?」
「いえ、少し違います……では、実例で説明します。実は、私たちバグズは、全生徒の学校の授業を全てモニタリングしています。授業中の様子からデジタルノートに入力したテキスト情報まで全てです」
「てめぇら、そんな姑息なことまでしてたのかよ」
「とにかく、それは能力の片鱗が現れていないかを確認するために必要なのです。そして、先月の授業で、プログラミング実習がありました。二時間、その間に何でも好きな処理マクロを作成するというものでしたが、織里さんの作ったものは常軌を逸していました」
「え……っと、ああ、エクストリームC言語を使ったプログラミングか。俺も趣味のゲーム作りで多少やってっから、それなりに高得点いったぜ。俺クラスになると、ただのゲームユーザーでは終わらないのだ」
「多綱くんのことは聞いていません」
……てめぇ、霧生。こんど二人になったら色んなことやってやんぞ。……っていうか、もうあれこれやっちゃんたんだ。
「それより、織里さんです。そのときのプログラムと作業ログは、全て回収して確認しています。使った開発ツールは簡易的なものでしたが、織里さんのマクロは数百規模の構造体や多次元配列が構成され、数千規模の多重分岐処理と膨大な数のプロシージャが連携してダイナミック動作するものでした。そして、あり得ないことにこれだけのソースコードに対してコンパイル回数はたったの一回。ノーミスでビルドして完成に至っています。機能は三次元応力解析シミュレーション。市販レベルを超える動作性能でした。普通は時間内にそれを入力することもできないでしょう。頭がイイというレベルのものではなく、人間では不可能な芸当です」
「な、なんて奴だ」魁地は開いた口が塞がらない。どんな化け物だ。
「そう? まっ、暇つぶしとしては楽しい授業だったわね」
真理望はまるで他人事のような顔をしている。なんだかまだ自分のことを理解できていないようだ。
「別に記憶力がいいわけじゃなけど、なんか深く考え出すと頭の中のフローチャートをどこまででも広げて行けちゃうのよね。それにそういう演算とか処理とか。多少の自然現象なら、その後どうなるか物理モデルで推定することもできるわ」
その時、砂埃が舞い、突風が彼らを包んだ。
地面にはどこからともなく吹き飛んできた紙屑が舞い、そして風に負けた木々の葉が不規則に揺られながら落ちて来る。
それを見た真理望は数歩移動し、両手を広げた。右手は少し下、左手は頭の上に伸ばす。魁地にはそのポーズの意味が分からず、滑稽に映った。
「おい、真理望。何やってんだよ」
真理望はピクリともせず、無言でその体勢を維持している。ひょっとしたら宙を舞う木の葉や紙屑を取ろうとしているのかとも魁地は思ったが、風が止んで全て地面に落ちてしまった。
「真理望、残念だったな。さすがにそれは」と、その時、もう一度風が吹いた。
今度は旋風のように下から吹き上がり、落ちた葉と紙屑を中空に舞い上がらせた。それは再び風に漂いながら真理望へと向かい、そして予め添えられていた両手に静かに収まった。
「……マ、マジかよ」
魁地は言葉を失った。これを演算で予測する?
まるでマジックショーの類だ。むしろ、テレキネシスの能力と言ってくれた方が気持ちが楽になる。
「どう? ざっとこんなもんよ。まぁ、見た目の予測も入るからざっくりだけどね。それに、意識が関与する人の動きまでは誤差が多くて無理かな」
唖然とする魁地を尻目に、霧生は淡々と解説する。
「おそらく、織里さんはアーティファクトの演算用メモリの未使用領域に不正アクセスすることで、宇宙規模の演算能力を得ています。過去には類を見ない特殊なバグですので、多綱くんと共にバグズへ加入し、管理下におこうと計画したわけです」
たしかに、この女は早々に管理した方がいい。魁地は自分を棚に上げ、そう思って苦笑した。
「さぁ、多綱くん。行きましょう。時間です」
「あ、ああ。検査だったな。じゃぁな、真理望」
「しょうがないわね。霧生さん、こいつ変態だから近付かないでね」
真理望はやや不服な表情を見せる。彼女は魁地と別れるが、彼は霧生と二人になる。何故か心がむず痒い。カオスを理解できたとしても、人の心は理解できない、ということを彼女はよく理解している。そしてプゥと頬を膨らませ、彼らに背を向けた。
そんな真理望を見届け、魁地は振り返る。すると、すでに霧生は研究所に向かって歩き出していた。彼は小走りで霧生に追いついた。
彼女が半歩先を行くせいで、なんだか話しかけ辛い。そして沈黙が続き、二人の足音が無機質な廊下によく響く。霧生はこういうときに何を考えているのだろうと、興味を持った。
――と、その時、霧生が急に歩を止めた。彼女の早い歩調に合わせていた魁地は、思わずつんのめった。
「おっととと、なんだよ、急に!」急に……急に……きゅうに……魁地の言葉が響く。そこは、研究室のエントランスからセキュリティーゲートを通過して少し行ったところ。スタッフや業者が行き交うエントランスの賑わいは遮断され、人一人いない無音の空間が広がっている。
「多綱くん。一つ確認しなければいけないことがあります」霧生は振り向くことなくそう言った。
「な、なんだよ……こんどは」
「多綱くんは、バグズに身をおく覚悟はありますか?」
「覚悟? 俺のことは好きにしろと結浜のおっさんに言ってあるぞ。それに、一度なくした命だ。お前らのためなら、また捧げてやるさ」
「そうですか……分かりました。でも、命は大切にしてくださいね」
霧生が振り返ると、笑顔を見せた。魁地にはそんな気がした。それは一瞬で消えたが、まるでサブリミナル効果のように、そのコマが彼の脳裏に強く焼き付けられた。そして、それはとても美しいと思った。
彼女はくるりと体を反転させ、魁地を置き去りにする勢いで歩き出した。
「わ、待てよ、おい」魁地はまた、慌てて彼女を追いかけた。
霧生の横顔。口をきゅっと結び、落ち着かない様子。前を見たり、下を見たり。いつもの彼女は、力学的に最小限の力で移動するエコな奴だ。おそらく放っておけば数百年は生きるだろう。しかし、今はなんとなく違う。先程までの彼女とは、明らかに違う。
一体、何が彼女をそうさせているのか。
今から行われる俺の検査のことだろうか? それとも、他にまだ何らかのイベントがあるのだろうか?
そういえば、今日は検査とだけ言われたが、具体的に何を調べるのかは聞いていない。いずれにせよ、何かあるなら早めに聞いておきたい。
「あの……ところでさ、今日の検査って何処で何やるんだっけ? 俺、何も聞いてないけど」
少しの沈黙。そして、霧生が歩を止めた。
そこはテーブルや椅子の並ぶ喫茶スペース。施設内でありながら外にいるかのような観葉植物の敷き詰められた空間と、そこを取り囲むように、ずらりと並ぶ表札付きのドア。彼らは、いつの間にか研究所内の宿泊エリアに入っていた。そこは単身赴任や徹夜作業の研究者達が泊まれるように一通り揃ったプライベートルームが集合した高級ホテルのような空間だ。
「場所は、ここです。……私の部屋です」
「…………は、はい?!」




