八 中庭(1) 蝶々
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八 中庭(1) 蝶々
――ソラシマ実験区 結浜研究所付属病院 中庭の公園――
木々の間をすり抜ける風が、白地のゴスロリワンピースを縁取るフリルを揺らめかせている。普段、学校で見ることのない制服以外のその姿に、魁地は思わず目を奪われる。
「……で、真理モ……あの織里、さん。今日は急に、どうしたのかな?」
魁地はお見舞いに来たと言って突然病室に現れた真理望に動揺しつつ、密閉空間に二人きりでは時間を消化する術に限りがあると考え、彼女を病院敷地内の公園に誘った、という状況が、今だ。
「真理望、でいいわよ、いつも通り。それより……」
そこは一般にも開放されている公園で、茂る木々や池、子供たちの遊具などがゆとりある時間を作り出している。今はまだ平日の午前中とあって家族連れは少ないが、暇をしている大学生や世間ズレした高校生のペアがそこかしこで絡み合い、愛の粘液をオーバーフローさせている。ベンチで彼らを眺める魁地は苦笑しつつ、隣に座る真理望の熱視線を痛いほど感じている。
「本当に、多綱なのね……、本当に」
真理望は目に大量の涙を含ませ、さっきから同じことを言っている。
「ああ、俺だよ。さっきから言ってんだろ。で、何か俺に用でもあるのか?」
「あの……用って言うか。多綱……あの、私もその、魁地って呼んで良いかな」
魁地はクラスメートから遠巻きに見られているため愛称で呼ぶ者はほとんどいないが、一部の同属民からは格ゲー界の神と知られる彼を尊び、ネットネームの”Ka1(カイチ)”で呼ばれていた。だが、そんな一面を知らない真理望にとって、それは単に名前の”魁地”で呼ばれているようにしか聞こえなかった。
「まぁ、呼び方なんざなんでもイイけどさ。好きにしろよ」
「魁地、私、お礼を言わなきゃって……その」
「俺、別にお礼されるようなことはやってねぇよ」
真理望の眼球にかろうじて貼り付いている水膜。彼女がまるで子供の引き付けのようにヒクつく度、その塊りが揺れ動いて張力と重力の均衡を打ち破ろうとする。そして、ついにその時が来た。
「うえぇぇ~ん!」
マジか?! と慌てる魁地はまるで子供をあやす不慣れな父親のように、周囲の目を気にしながら真理望を落ち着かせようとする。
「でもでも、だって私を助けた後、魁地、車に潰されて死んだと思ったから――」
「だぁ~っ、泣くなよ! そう、奇跡だよ。偶然車体の隙間に入り込んでさ。なんとか骨折と打撲で済んだんだよ。このとおり、もう元気だぜ!」
魁地は両腕をふんっ、と曲げてボディービルダーの真似をしてみせる。
それを見て「あはは」と笑う真理望に、魁地は安堵と共にうっすらと違和感を覚えた。
これまでの開口一番突き刺されるような彼女のトゲが全くない――なんだ、これ。事件前はあれだけ変態呼ばわりされて避けられていたのに、なんか調子狂うな。相当ショックが大きかったのかな。まぁ、そりゃそっか。
「うん、本当によかったわ。……本当に、魁地なのね」
真理望は魁地に微笑みかけた。魁地は、愛らしいその笑顔に思わず見入る。いつもは、彼女の睨んだ顔しか見てこなかった。彼は初めて見るその笑顔に、巨乳以外の彼女を感じた。そうか。これが、真理望という子なんだ。
そして、真理望もまた、魁地に特別なものを感じていた。あの事件での彼の行動は全く予想だにしないものだった。その時、彼女の中の劣悪な彼は音をたてて砕け散り、まるでヒーロー染みた彼が現れた。
二人は、見つめあったまま少しの沈黙を自然に消化した。
「あ、ごめん。ちょっとボ~っとしてた。とにかく、俺のことは気にすんな。まだリハビリ中だし、まだもう少し学校には戻れないけど、俺は大丈夫だから」
「そっか。よかったら、私もリハビリ手伝うわよ。少しは役に立ちたいわ」
「えっ?! ……いやいや、大丈夫だって、ホント」
「まぁまぁ、そんなこと言わず。少しは言うこと聞きなさいよ」
「だから、一人で大丈夫だって言ってんだろ」
「うっさいわね。いいから私の言うこと聞いてりゃいいのよ!」
「なんだと、この巨乳が!」
「何よ、この変態野郎!」
ワァ~! と、真理望は手を振り回し、まるで地団太する子供の様に魁地を小突く。だが、腕の遠心力で一緒に振り回される彼女の胸は立派な大人だ。その光景は彼の頭の熱を下半身に落とし、逆に冷静さを取り戻させる。
「あ、こら、痛たたた。おいおい、まてよ。俺はまだ怪我人だってぇの!」
「くぅ~……」
はぁはぁはぁ……。と、肩で息を鳴らす魁地と真理望はお互いを見つめ合う。
そして、彼らはにこりと微笑んだ。
「なんつぅか。やっぱりお前は真理望だよな」
「そういうあんたも、魁地ね」
ハハハ、と柔らかい笑いが二人を包む。
その笑顔を見ながら、魁地は思う。あの時の行動は決して彼女のためと思ったわけではない。あの時はただ、自分の命を軽んじた結果、別に死ぬことも厭わないと思っての行動だった。しかし、こうして今、本当の彼女を知り、彼女という命を感じる自分がいて、ただ紙面上でしかないと思っていた世界に少し厚みが生まれた。それは、いらないと思ったはずの自らの過去に価値を生み出し、消えるはずだった未来に踏み出す勇気を与えてくれた。
「真理望、俺は逆に、お前に感謝しなきゃと思ってる」それを聞いた真理望は、少し驚いたように彼を見つめた。そして何かを感じ取ったように俯き、言った。
「ねぇ、これからは自分のこと、どうでもいいなんて言わないでよね」
「え……」どこかで同じことを言われたような気がする。
魁地はそれを思い出そうとしたが、真理望の声で隠された。
「あのさ、お礼させて。私、何でも魁地の言うこときくわ」
「えっ、何でも?」
そのとき、魁地の目の前を蝶々がひらりと舞った。どこか行き先があるでもなくハタハタと揺れ浮かぶそれは、まるで風に漂う花弁のように、ふわりと真理望の胸元にとまった。
モノトーンの服飾に彩る鮮やかな青は、所狭しと顔を出すその胸をより一層美しく魅せる。
やばい、どんなに綺麗事を言っても、結局のところこの巨乳の破壊力は満点だ。彼はそこから視線をずらせない。
「ちょ……ちょっと、今いやらしいこと考えてたでしょ?」
真理望は胸元を手で閉じ、魁地を睨む。しかし、その手が豊かな胸の谷間を押し上げ、ザ・巨乳をより一層協調していることに彼女は気付いていない。が、魁地はそれに気付いている。
「い、いや、チゲェよ! きょにゅ、じゃない蝶が気になっただけだっつうの。綺麗だなぁ、なんてよ」
「嘘おっしゃい。胸見てたでしょ!」
「いやいやいやいや、違うっつってんだろ!」
魁地は汗だくで全力否定すると、突然真理望の様子が変わった。彼女は薄っすら桜色に染まった顔を魁地から逸らし、艶やかな唇を噛む。
「でも、まぁ、命を助けられたわけだし……魁地だったら私……その」
「えっ……まてまて」何のフラグだ? これは?!
恋愛シミュレーションゲームでもこんな凹凸で凸凹な急展開は見たことがない。電子データばかりでリアル女子に慣れていない半引き篭もり人生を歩んできた魁地は、この空気の濁流に追いつけない。
「魁地が望むなら……別に、いいけど」
「いやいや、ちょっと待て。そういうことじゃなくて、誤解だってば!」
すると、またもや真理望が膨れ出す。
「な、何よ、私には女としての魅力が無いって言うの? 失礼ね!」
「だからぁ……もう、そういうんじゃなくって」
今度は魁地が涙目になった。「マジ、泣きそうだよ、俺」




