五、兄の武器
モール商会という奴隷商人は、どうやら奴隷に慣れきっているようです。何を言っても、何をしても、嘆くだけで逆らわない幼い女の子たちが当然と思っているがために、手を抜きました。目隠しもなく、手足も縛られていません。
わたくしたちが屋敷のどこの部屋へ連れてこられたのか、入り口からどのように通って来たのか、すべて記憶しました。エプロンのポケットに入れて持ってきた手帳と万年筆が役に立ちます。屋敷の見取り図を書いていくのです。
門から庭を通り抜け、使用人用の出入り口からすぐ左の人がすれ違えない細い階段を二階へ上がり、左右に交互に四つずつドアがありました。部屋の前には見張りさえいません。そして五つ目の右のドアが廊下の突き当たりに位置していて、そこへと放り込まれました。床へ倒れた衝撃で少し肩が痛みましたが、文句は言っていられません。放り込まれる前に周りを見回しましたが、この部屋だけドアの外に閂がありました。中からは開けられないのでしょう。しかし、急いで作ったようで、ただの木の切れ端のようでした。
部屋の中は椅子が三個と丸テーブルが一つだけです。窓は腰の高さに二つ、両開きのガラスがはめられています。外を覗くとすぐ下は低木が植え込まれていますし、下草も充分あるようです。飛び降りるだけで逃げられそうですが、二階の高さでは幼い子は怖いでしょう。男の子なら飛び降りたかもしれませんが。
女の子は八人、あとわたくしと侍女のロールですね。さて、どうしましょうか。
「ロール、この手帳を持って窓から飛び降りなさい。逃げ道はわかるわね?」
「お嬢様は」
「証拠を押さえたいのよ、この屋敷の持ち主が関わっているのか否か」
「でも!」
「騎士隊とお父様がまっすぐここへたどり着けるように」
ロールも時間がないのをわかっているのか、視線をさ迷わせて考えたあと、わたくしをまっすぐに見て頷いてくれました。
椅子を窓の横へ置いて、留め金を外すと、ぎぎ、と音を立てて開きました。やはり今まで捕まえられなかったのは、その日の内に別の国へと連れ出すこと、幼くて自力では逃げられない女の子ばかりが拐われたことが原因のようです。窓から少し頭を出して周囲を確認し、ロールは振り返りました。
「お嬢様、行って参ります」
「えぇ、頼んだわよ」
「ご無事で」
ロールは窓枠を蹴り、宙へ飛び出しました。とさ、と軽い音がし、しばらくは静かでしたがやがてかさかさと草が揺れて風が通り抜けていきました。それを聞き届けると窓を閉めます。椅子を元へ戻し、虚ろな目でわたくしの動きを追っている子どもたちを踏まないようにしてドアへと身体を押し当てます。
ドアのすき間を覗き、閂の位置を確かめます。薄暗いですが、黒い影がよく見えました。
わたくしには姉様はお一人ですが兄様はたくさんおります。その中でも一番年の近い、三つ子の兄様は特殊なお仕事に務めています。そのうちのお一人、諜報部で暗殺を公的に行っている兄様から必ず肌身離さず持ち歩くようにと渡されているものがあります。スカートもペチコートも捲りあげ、ガーターベルトにつけられた細い筒の蓋をめくり、一本の針を引き抜きました。
ソファーなどの布や皮を張るための大きく太い家具用縫い針です。何本か太さが違うものを揃えています。兄様がおっしゃるには、針の先に毒を塗ると効果的だとか。わたくしには身を守るだけのものでよいので、そこまでは仕込んでおりません。便利になるからと工夫して創られた道具は、使う人によって人を傷付ける道具にもなるから気を付けなさいという、マナーの先生をしてくださった次兄様の言葉が身に染みます。
その針を、ドアのすき間へ差し込みます。閂を探り当て、突き刺しました。少し壁の方へと動かして、針を抜き、また突き刺し、動かして閂を寄せていきます。金具ではなく木で出来たものでよかったですね。
ようやく閂を外すと、針を一番太い物へと変更しました。これからは道具ではなく武器が必要だからです。わたくしはドアを開けてみました。やはり見張りはおりません。まずは子どもたちを出したいですが、外の様子がわかりません。八人という気力をなくした幼い子どもを全員見付からずに逃がせるのかわからないのです。見に行くしかありませんね。
「……お姉ちゃん、逃げるの?」
あぁ、そう見えますよね。ですが、騒ごうとはしない子に微笑みを返しました。
「様子を見てきます。悪い人がいたらまた捕まってしまいますからね」
「わたしたち、ここで待ってたらいいの?」
「大きいお姉ちゃんが騎士様を連れてくるのよね?」
「そうです、皆さん走る準備をしておいてくださいね、悪い人がいなければ出られますから待っていられますね?」
「うん」
「わかった」
座り込んでいた子どもたちが立ち上がりました。ロールが出ていったこともよく見て理解していたようです。これは頼もしいですね。
「皆さん、行って参ります」
「行ってらっしゃいお姉ちゃん」
くるりと身を反転させてドアを背で押し、閉めました。あれ以上部屋の中にいたら、わたくしの綻んだ顔を見られてしまったことでしょう。
わたくしは末っ子です。お姉ちゃん、と呼ばれることはないのです。孤児院では貴族として平民との違いを理解させるためにも、お嬢様と呼ばれています。はじめて、お姉ちゃんと呼ばれました。気合いが入ります。
暗い廊下を見て、慎重に歩を進めます。四つのドアを左右に通り過ぎ、階段の手前で足を止めました。階段は途中で折り返していますので、上から覗き込みました。声も足音も聞こえません。あとは使用人用の出入り口の外に誰か居ないか、見に行かなければなりません。
出きるだけ軋まないように階段を下りて、一階で手にした針を構え直しました。出入り口のドアノブをゆっくりと回します。
サッと光るものが横切り、わたくしは針を突き上げました。
辛うじて視界に入るこめかみの横には両刃の剣。
わたくしの針は誰かの顎の下。
時が止まりました。