つまり、もう勉強しなくてもいいってことですか!?
争奪戦から二日後、月曜日。朝。
朝食前の軽い練習を終えた耀と侍恩は、寮内の共同浴室で背中を流し合っていた。
「耀様、今日から各チームが新体制で動き出しますね」
「……うん」
「言わなくていいのですか?」
「……うん」
「差し出がましいようですが、耀様が言えばあの男はきっと……」
「ダメだよ」
泡塗れの耀が振り返り、困ったように笑う。
「だって蓮さん、プロ目指してるんだよ? わたしたちのチームに誘ったら、迷惑かけちゃうよ。蓮さんの邪魔になるようなことしたくないもん」
「……そうですか、分かりました。さ、早く身体を洗って湯船に浸かりま――」
「達花、まだ入ってるか?」
「蓮さんッ!?」「なッ!?」
ガラガラとドアが開かれる音と、バシャーンと水を打つ音が重なる。
「あ、いたいた。お前、長風呂だな。てか、一人だからってバシャバシャやるなよな……まあ、誰も見てないからやりたくなるってのは……なんか分かるよ」
「分かるな! そそそれより、どうしてここにいる蓮剛羽!」
耀を潜水させた侍恩は、憤怒に顔を塗りたくる。
「貴様、もう風呂は済ませたのだろう!? こういうことを避けるために、先に入らせたというのに、この変態が!! 所詮は男――」
「言っとくけど、別に達花の鳩胸見に来たわけじゃないからな? ちょっと自意識過剰過ぎないか?」
「己ぇえ、度重なる協定違反! もう我慢の限界だ! ここで断つ! ッ……!?」
勢いよく浴槽から飛び出そうとした侍恩だったが、潜水する耀に足をがしっと掴まれる。
水中でぶくぶくと泡を漏らす耀はぶんぶんと首を振り、侍恩の何も実ってない股間をびしっびしっと何度も指差す……確かに、今全裸で飛び出して行ったらバレる。
「あぶぶぶぶぶ……!?」
耀の限界も近い。
穏便に済ませ、さっさと出て行ってもらおうと、侍恩は冷静さを取り戻した。
「さっさと上がれよ。飯が冷めるからな」
「お、応。わざわざ伝えに来てくれたこと感謝する。先に食べていてくれ。すぐに行く」
「ん、分かった。それじゃ」
「…………ふぅ」
「あー、そう言えば、耀どこに――」
「いいから早く行けい!」
……という騒がしい朝から始まり、時刻は早くも放課後。
「じゃあ、俺……チーム練行ってくる」
「応」「……」
HRを終え、荷物をまとめた剛羽は席を立つ。
耀から返事がないのは少し気になったが、構わず歩き出す。
剛羽は、元闘王学園の先輩――九十九義経が率いるチーム九十九への入隊が決まっていた。
尊敬する九十九と同じチームでやりたいという希望が叶った形だ。
本日から早速、チーム九十九のA1、つまり一軍の練習に合流する。
出足は順調だ。
が、剛羽はどこか浮かない表情である。
最初からコーチをするのは争奪戦までという約束だったが、耀たちを放り出す形になり、後ろめたさを拭えないのだ。
(立ち止まるな。振り向くな。俺のいるべき場所はチーム神動じゃない)
それでも何とか止まらずに歩き続け、教室のドアが近付いたところで――
(…………やだ、行っちゃやだよ……行かないで、蓮さん)
――剛羽の背中が遠ざかっていく。
ジャスティン=エイツヴォルフの試合を観て、砕球を知り。
蓮剛羽という同年代のスター選手を知って、言葉を聞いて、強くなりたいと思った。
そんな憧れの少年が九十九学園に編入してくると知った日は、夜も眠れなかった。
あの寮にやってくると聞いた日は、衝動を抑え切れずに深夜までボブと練習した。
ウイカのおかげで、コーチまでしてもらえた。
肌と肌が触れ合うくらい近くで練習を見てくれた。
争奪戦で心が折れたときには泥塗れの自分を抱きしめてくれた。
名前で呼んでもらえた。
自分が立ち直るまで見守ってくれた。
励ましてくれた。
もっともっと好きになった。
――剛羽の背中がどうしもないくらい遠ざかっていく。
上げかけた右手を左手で抑える。
胸が苦しい。
もう二度と手の届かないところに行ってしまいそうで。
胸から込み上げてきた奔流に支配され、視界が霞む。
涙で濡れる。
「蓮さん…………行かないで」
なんて、口に出して言えるはずないのに。
この気持ちは胸にしまっておかなければいけないのに。
ここで引き止めてしまっては、迷惑を掛けてしまうのに。
……そんなことは十分理解しているのに。
身体が勝手に動き出し、その背中を追って駆け出し、そして――
「ッ……!?」
剛羽は何者かにぎゅっとシャツを掴まれた。
驚いて首だけ動かして振り返れば、そこには耀が。
何も言わない。
言ってこない。
黙ったままで。
頭を下げて、俯いたままで。
けれど、シャツを掴んで離さないその手が、少女の気持ちを雄弁に語っていた。
少女の前髪の影にきらりと光る雫を見付ける。
思わず、ここが教室だということを忘れて、抱き締めたくなる。
しかし、もう決めたのだ。
耀の気持ちどうこうではなく、自分がこうしたいと決めたのだ。
耀が砕球を続けると自分で決めたように。
だから、衝動を抑えて、胸の痛みを堪えて――
「早く、行かないと……練習始まっちまう」
耀の握る手が緩むのを待ってから、剛羽は教室を後にするのであった。
剛羽が教室から出て行くのを確認してから。
侍恩は重ねた両手を胸に抱えて俯く主に、気遣わしげに声を掛ける。
「耀様……」
「あはは、やっちゃった……」
耀は頭にこつんと拳をぶつけ、苦笑いする。
そして先程の行動が嘘だったかのように、明るい笑顔を浮かべる。
「しおん、今日もバリバリ練習しよ!」
「は、はい!」
耀と侍恩は早速帰り支度を始めた。
二人の表情には多少の憂いはあるものの活気がある。
争奪戦が終わったばかりだというのに、耀も侍恩もモチベーションは高い。
理由は、剛羽から掛けられた言葉のおかげだ。
次の目標は、約二ヶ月後に行われる高校一年生以下を参加対象とした新人戦。
チーム神動にとって、自分たちの力を試す絶好の機会である。
「新人戦まであと二ヶ月! たくさん練習して、楽しく、いい結果残そうね!」
「はい、勿論です」
下を向いてる暇はない。
次こそチャンスをものにしてみせる。
そうすればきっと――
「シンドウさん、ちょっとお時間よろしくて?」
不意に響く、独特なイントネーション。
教室にやってきた声の主は、胸の前で腕を組み、偉そうに胸を張り、こちらに視線を送っている。
頭に乗っかる猫耳のようにまとめた金茶髪が印象的な少女は、アリスティナ=エイツヴォルフだ。
学年序列一位の王女が最弱チームの二人の何の用だと、教室に残っていた生徒たちはにわかにざわめき出す。
まさかと息を呑んだ耀と侍恩は、顔を見合わせる。
お互い、血が通っていないのではないかというくらい、顔が真っ青だった。
「……す、すいません。もう一度言ってもらっても……いいですか?」
生徒会長室に呼び出されていた耀は、呆然とした表情になる。
「デスから」
対して、テーブルを挟んで耀の向かい側に座っていたアリスは、足を組み直して淡々と続けた。
「チーム神動は解散。シンドウヒカリさん、タチバナシオンくん両名は退学デスわ」
「たい、がく……退学!? つ、つまり、もう勉強しなくてもいいいいいってことですね!?」
「ポジティブ過ぎです、耀様!? 落ち着いてください!」
テーブルに身を乗り出す主を腰掛けさせ、侍恩はきっとアリスを睨む。
「チームから追い出すだけでなく、この仕打ち……いくら何でも横暴ではないですか。それに先日の争奪戦で、我々チーム神動はチーム九十九の主力であるあなたたちに――」
「アナタたちが勝てたのは、マシロくんのおかげデスわ。事実、シンドウさんとタチバナくんは一点も取ってマセん。違いマスか?」
「し、しかし!」
退学処分。
結果を残していなければ、いずれこうなるのではないかと、侍恩は予想していた。
だから、焦っていた。
力なきものは去る。
砕球エリート校ではよくある話だ。
「――ま、普通に考えて、こんな惨めな戦績じゃ退学も当然だな」
と、口を挟んだのは、生徒会長室の奥にある執務机に足を乗っけている、髪をツインドリルにした少年だ。
九十九義経。
チーム九十九の主将にして、九十九学園の生徒会長である。
ほどよいボリュームのツインドリルヘアーや、可愛らしいぱっつん姫カットは女子のヘアスタイルそのものだが、見た目が中性的なのでまったく違和感がない。
というか、その可愛さ、美しさは耀やアリスと同クラスだ。
「お前らのレベルは俺様のチームに――いや、この学園の最低水準にすら達してない。九十九のブランドに傷が付くレベルだ」
その冷たい言葉に、しかし反論の余地がない事実に、耀も侍恩も言葉を失う。
チームの解散。そして退学。
再スタートを切ったばかりだというのに、突き付けられた現実は非情なものだった。
「耀様……やはり、蓮をチームにスカウトしませんか? あの者なら、きっと――」
夕暮れの帰り道。
校門を潜ったところで、侍恩はがっくりと肩を落とした主の背中に声を掛ける。
耀は慌てて振り返った。
「そ、それはダメだよ!」
「ですが、このままでは……それに、蓮が入寮したときにチームに勧誘するつもりだったのではなかったのですか?」
「……うん」
しょんぼりと頷く耀。
決闘が終わった後、言おうと思っていたことは「争奪戦が終わるまでチームに入ってくれ」という条件付きではなく、「チームに入ってくれ」だ。
しかし、結局耀は言い出せなかった。
憧れの少年の足を引っ張りたくなかった。
「耀様……」
主の思っていることを、侍恩はすぐに察する。そして、心の中で溜息を付く。
こんな非常時でも、相手のことを考えているとは。
主の決心が堅いのであれば、執事である侍恩は何も言えない。
試しに聞いてみるだけ聞いてみては? と思うが、押し黙る。
「しおん」
そんな執事の両肩に、耀の手が置かれる。
大丈夫だと、安心させるように。
「退学って言っても新人戦の結果次第だよ。残り二ヶ月、わたしたちの頑張り次第で結果は変わると思うんだ。所属先を決めかねてる新入生の子たちが、このチームに入りたいと思うようなチームをつくろ!」
「はい、全力を尽くします」
侍恩は力強く答え、耀と一緒に歩き出すのであった。