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だが、予想していた痛みは訪れなかった。
突然この世のものとは思えぬ声が聞こえ、衝撃音が辺りに響く。
目を開ければ、目と鼻の先に口から泡を垂れ流し、痙攣する猪が倒れていた。そしてしばらく経つと痙攣が止んだ。断末魔の叫びだったようだ。
マーシャはその猪の背中に、細くて長い棒が突き刺さっているのを発見した。――いや、違う。よく見れば、それは細い棒と見紛うばかりの氷の刃であった。氷柱は猪の体を貫通したようで、地面には赤黒い染みが広がっていた。それに伴い、獣の臭いに血の臭いが混じる。
季節は春。こんな氷柱のような氷がその辺りに落ちているはずがない。
(一体、誰が?)
その問いは、すぐに分かることになる。
マーシャは人の気配を感じ、猪から視線を外した。猪の向こう側に誰かが立っていたのだ。明るい金の髪、青碧色の涼しげな目。背の高い男の着用する白いマントが、太陽の光を浴びて眩く映る。
「クラウド!?」
マーシャはその人物の名を叫んだ。そう、狂暴化した猪をいとも簡単に倒した者は、マーシャが(一方的に)敵対しているクラウド・ウィザーズリーその人だったのである。
クラウドが一歩足を出すと、マーシャの張っていた目くらましの結界が勝手にパチンと弾けて消えた。元々、魔力を持たない人に対して用いていたもので、魔力の高い者には全く効果のない結界であった。
「ど、どうしてここに?」
クラウドは表情一つ変えずに問いに答える。
「ファルクが教えてくれた」
「ファルク?」
すると上空を飛んでいた大きな鷹が舞い降り、クラウドの肩に乗る。先程マーシャが見惚れていた珍しい種類の鷹だ。身近で見るとやはりその体は大きく、白と茶の混ざった羽根は艶やかで、とても賢そうな目をしている。
ファルクと呼ばれた鷹は、挨拶なのだろうか、嘴を開かずに小さく鳴いた。
「こいつは俺の使い魔だから、言葉が無くても意思の疎通が出来るんだ」
「使い魔……」
使い魔というのは魔法使いが使役する動物である。常に魔力を吸われ続けるため、魔力の高い者にしか持つことが出来ない。いわば実力のバロメータである。
一次的に操るならまだしも、マーシャが使い魔を使役するとなれば、ねずみや小鳥が関の山だろう。その代償として、常に甘い食べ物の摂取が必須になりはするが。
ようやくショックから抜け出したフレアは、立ち上がって両手を組み、クラウドをキラキラした目で見上げている。
「危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました!」
身体を二つに折って感謝の意を伝えたフレアは、マーシャを勢いよく振り返った。
「ほら、マーシャもお礼を言って!」
マーシャものろのろ立ち上がると、服の汚れを払ってから渋々お礼を言う。
「……ありがとう」
するとクラウドはフレアにだけ笑顔を見せ、マーシャの方へは冷たい顔を向けた。
「別に構わない。二人を助けたのはついでにすぎないんだから」
「「ついで?」」
「俺が用があったのは、こっちだ」
クラウドが屍となった猪の巨体を見下ろす。
「自警団から依頼があったんだ。山から逃げ出した獣たちが畑を荒らしているから、退治するように、と。この猪は特に高額の賞金首だったんだ」
マーシャはなるほどと頷いた。魔法使いがこういった害獣駆除の依頼を受けるのは、ままあることだ。ましてやクラウドの攻撃魔法の能力は高いので、これ幸いと彼に白羽の矢が立ったのだろう。
「それにしても、どうしてこんな場所に猪がいたんだろう?」
そもそもこんな大きな獣が、人の住む町に近寄るはずがないのだ。
するとクラウドはマーシャを見下ろし……いや、見下した。
「お前、ヒーリトス山の大火事を知らないのか?」
「何よ、そのくらい知ってるけど」
マーシャは憮然として答える。ヒーリトス山はここから北東に位置し、国境も兼ねている山脈の一部である。
半月ほど前、その山で火災が起きたのは、この国の者なら誰でも知っている。
「だったら分かるはずだ。その大火事で山に住む動物らが住処を奪われ、山を下りてきているんだ。この猪も食料を求めて彷徨っていたクチだろう」
火事の炎は風にあおられ延焼し、多くの木々や逃げ遅れた小動物が犠牲になった。そこで食糧難に見舞われた獣たちが山を下り、人々の食糧を奪っていたのだ。
「なるほど」
ようやく理解の意を示すと、クラウドは可哀想なものを見る目でマーシャを見つめた。
「どっちにしても助かったことに変わりはないわ。ぜひお礼をしたいから、またいつでも店に来てください。サービスします!」
「それはありがたい」
フレアの言葉に、クラウドはまた微笑む。マーシャには最初に出会った時以来一度も見せない顔だ。それを腹立たしく思いながら、笑顔を向けられたら向けられたで「何か裏があるんじゃないか」と勘繰ってしまうので、逆に良かったのかもしれないと思い直した。
「それにしても……」
「何?」
再びクラウドがマーシャに向かって口を開く。何を言われるのかと身構えてしまうのは、もう条件反射のようなものだ。
「このくらいの獣も倒せないなんてな」
「……」
案の定、クラウドの言は嫌味であった。
「あの店も早々に畳んだ方がいいんじゃないか?」
クラウドは地面で無残に潰れているポポと薬草園を見て更に言い募る。
「それか、“魔法屋”の看板を“薬草屋”にすればいい」
マーシャは悔しさに唇を噛む。だが、反論する術を持たなかった。自身が魔力が弱く、人々から“何でも屋”“薬屋”と呼ばれていることを誰よりも自覚しているからだ。
クラウドは言いたいことを全て言ってしまうと身体の向きを変えた。ディアーナに戻る方向だ。
「先に行く。気を付けて帰れよ」
「はいっ、ありがとうございます」
フレアがマーシャの様子を気遣いながらも礼を言って頭を下げた。
猪がクラウドの動きに従ってずるずるとついていく。どうやら魔法を使っているようだ。もちろん、マーシャにはそんな器用な芸当は出来ない。情けなさに瞼が熱くなる。
クラウドの姿が見えなくなると、フレアはマーシャの両手を握った。
「マーシャも庇ってくれてありがとう」
「ううん。私、何の役にも立たなくてごめん……」
視線を下ろしたままのマーシャは、フレアの泥に汚れたスカートから覗く膝から血が流れているのを発見した。猪から庇うために押し倒した時に、石にでもぶつけたのだろう。
マーシャは目尻を擦るとしゃがみ込んでフレアの膝に手を当てた。全身から力を集めて手の平から力を放つ。痛みが取れ、傷もある程度は塞がったはずだ。
それから無事だった傷用の薬草を摘み取り、揉み込んでから膝に塗布して布を巻く。
「ありがとう、マーシャ」
「ううん。こんなことくらいしか出来なくて、本当にごめん」
謝り続けるマーシャを困ったように見ていたフレアは、一つ頷くと明るい声を上げた。
「マーシャ、お腹空かない?」
「……」
「お昼もダメになっちゃったし、早く帰ろう? ね?」
「……うん。そうだね」
二人は無事だった薬草を回収した。そして薬草園の手直しをして、目くらましの魔法を再び掛けてから家路へとついた。
道すがら、フレアはマーシャを鼓舞するためにわざとはしゃいでいる。そんな様子を見て、マーシャは徐々に気を持ち直していった。
(落ち込んでても仕方ないよね。私はクラウドみたいに強力な魔法は使えないけれど、自分で出来る限りのことをしていこう。魔法だって、特訓すればまだまだ成長する可能性がきっとあるはずだもん)
「フレア、早く帰ろう? お腹空いちゃった! 今すぐに甘いもの食べたい!!」
マーシャがフレアに笑顔を向けると、フレアはほっとしたように微笑んだ。
だが、マーシャは大事なことを忘れていた。
あの猪の瞳が、赤く光っていたこと。そして、魔力を持たない猪がマーシャの張った結界の中まで難なく侵入してきたことを――。