6
翌朝。まだ薄暗い町を、マーシャは走っていた。こんなに真剣に走ったのは生まれて初めてかもしれない。ただ一つの目的のためだけに走るマーシャは、知らず知らずの内に自己新記録を叩き出していた。
息切れしつつ到着したパン屋の扉を開けて、マーシャは叫んだ。
「白パンッ! じゃなかった、おばちゃん! 白パン、ある!?」
声と同時に店に飛び込む。扉には“準備中”の札がぶら下っていたのだが、お構いなしである。
「え……えらく早いね、マーシャちゃん……」
まだ開店準備すら終えていないシーラが、引きつった笑みを浮かべている。カウンター越しには、まだ石窯で焼かれていないパンの生地が見える。パン屋の開店時間は朝食に間に合わせるため早いのだが、マーシャの来店はそれよりも更に早かった。
「よっしゃ! 間に合った!!」
(クラウドめ、ざまーみろっ!)
ガッツポーズをきめながら、マーシャは歓喜に酔いしれている。
「極端すぎるわよ、あんた……」
フレアが厨房から呆れ顔を覗かせる。
マーシャはクラウドに取られることのないよう、朝イチで駆け付けたのだ。予約という手もあるのだが、どうやら思いつかなかったらしい。今日はまだ魔法を使っていないので、甘い食べ物は必要なかったのだが、これはもうマーシャの意地だった。
「今日はどこかへ行く予定なの?」
店の奥で焼きあがったばかりの白パンをほくほく顔で頬張っていたマーシャに、フレアが尋ねる。その視線は、マーシャの持っていた籠に注がれている。
「どうせ仕事の依頼も無いし、薬草でも取りに行こうと思って」
昨日、商人風の男に店中の薬草類を持って行かれたので、品薄になっているのである。店には「店休日」と書かれた板をぶら下げてきているので、ここで腹ごしらえを済ませて、そのまま出発するつもりでいた。
するとフレアは笑顔になって手を叩いた。
「良かった! 私も一緒に行ってもいい?」
「何か欲しい薬草でもあるの?」
「ポポの花を取りに行きたいのよ」
ポポは黄色い花を咲かせる花だ。花びらや葉を刻んで肉料理に加えたり、お茶やお酒にしたり出来る、便利な花である。パンに入れることもあるので、それ用に欲しいのだろう。
春を過ぎるとポポに苦味が出るため、そろそろ取り納めをしなければならない時期だった。
「じゃあ、一緒に行こうか」
確かマーシャの目的地付近にもポポの花が咲いていたはずだ。ポポの根を乾燥させて煎じると強壮剤になり、婦人病や子供の風邪にもよく効く。たくさん咲いていたら自分の分も確保しようとマーシャは思った。
「お昼もパンでいいでしょ? 甘いパンはもう要らないわよね?」
「うん、大丈夫」
今日は薬草を取りに行くだけなので、魔法を使うことは無い。そう伝えると、フレアがシンプルなパンに野菜や肉の具を手早く詰めて二人分のサンドイッチを作り、自身の籠に収めた。
それから二人はディアーナの町を出た。
ディアーナは周囲をぐるりと塀で囲まれた小さな町である。塀は城塞都市といえるほど堅固なものではなく、比較的どの町にもある。野生の動物や怪物を侵入させないための防衛設備だ。
出入り口は東西南北に一つずつあり、王都から派遣されている警備の者が常駐して商人などの出入りを取り締まっている。だが、見るからに一般人であるマーシャとフレアは碌にチェックもされず通過出来たのだった。
小高い丘を二つ越えたら、ポポの花はすぐに見つかった。ポポは群生する植物なので、一か所にかたまって生えているのだ。二人は蕾のものは残し、花の咲いてあるものだけを次々と摘み取っていく。
「わあ、たくさん採れたわ。ありがとう」
「私こそ。話し相手が居るだけで助かる」
いつも一人で薬草を摘んでいるので、和気あいあいと会話しながら作業するだけで心が躍る。フレアの持ってきた籠はみるみる満杯になった。
「次はマーシャの用事に付き合うわ」
「いいの? 先に帰ってもいいんだよ?」
「二人でやった方が早く済むでしょ。さ、行こう」
「うん、ありがとう!」
マーシャは笑顔でフレアを目的地まで連れていった。
小さな森に入ってしばらく進むと、小さな池が現れた。その池のほとりまで歩いたマーシャはフレアを振り返った。
「ようこそ、私の薬草園へ!」
そこには小さな薬草園が広がっていた。木々の隙間から陽が差し、池からの用水で薬草がのびのびと育っている。
作っていくらも経っていないので、規模は小さい。だが、ゆくゆくは大きくしていくつもりである。
「前にこの近くを通ったけど、全然気付かなかったわ。こんなところに作っていたのね」
フレアが興味深そうに狭小な薬草園を見回している。ここには目くらましの結界を張っているので、魔力の無い人が見てもその存在に気付かないのだ。今日、フレアがこの薬草園に気付いたのは、術者であるマーシャに同行したからに他ならない。
「まだまだ種類は少ないけどね」
「徐々に増やしていけばいいじゃない。で、私はどれを取ればいいの?」
「あ、じゃあ、その葉がたくさん付いてるやつ。根っこは残して茎から上だけ取ってくれる? そしたらまたそこから茎が伸びるから」
「分かったわ」
そうしておけば、土壌が良いので大した手間を掛けなくても自然と数が増えていくのだ。扱いの簡単なものをフレアに任せ、マーシャは特殊な摘み方を要する薬草を収穫し始めた。
その時、キィィッと鳴き声が聞こえ、二人は空を見上げた。木々の隙間から見える青空を何かが横切って影が出来る。よく見てみれば、それは大きくて嘴の鋭い鳥だった。
「鴉、いや……鷹?」
「へえ、珍しいわね~」
鷹が生息するのは、草原や海岸や砂漠、またはもっと樹木が生い茂る大きな森が主である。しかも長くて幅広い翼と長い尾羽を持つ、珍しい種だった。
(キレイな鷹だなあ)
「ちょっとマーシャ。見とれてないでさっさと摘んじゃいましょ」
「あ、うん。そうだね」
マーシャは慌てて作業に戻った。十分に成長した薬草から順に摘み、まだ十分な大きさではないものは残しておく。
二人はおしゃべりをしながら順調に薬草を収穫していった。
「さて、と。今日はこんな感じでいいかな」
「そう。じゃあ、そろそろお昼にしましょ」
「賛成! あ、どうせだったら見晴らしのいい丘に戻ってから食べようよ」
マーシャは立ち上がると腰をトントンと叩いた。ポポを収穫する時もそうだったが、ずっとしゃがみ込んでいたので、腰と足が限界だったのだ。
自分の籠に薬草を詰めていると、フレアが突然「キャッ」と悲鳴を上げた。見上げれば、フレアの顔が今まで見たこともないくらいに青ざめている。
「どうしたの、フレア?」
「マ、マーシャ……後ろ……!」
「後ろ?」
首を傾げつつ、フレアの指差した方向を振り返ったマーシャは、先程までは無かった黒い物体が池の畔にあるのを見た。風が吹いて獣特有の臭いが鼻を突く。
その正体は、猪だった。二人を見据える目が爛々と赤く光り、口からはどろりとした涎を垂らしている。その奥には人の手くらいなら簡単に食いちぎりそうな鋭い牙が見える。
「ど、どうしてこんな所にまで……!?」
動物や怪物は人間を恐れ、町の周辺まで近寄っては来ない。ましてや今は昼間だ。夜間ならいざしらず、こんな明るい内に街道近くまで寄って来るのは異常とも言えた。
「フレア、持ってきたパンを!」
狂暴化した猪が食べ物の匂いに引き寄せられたのではないかと考えたのだ。マーシャは震えるフレアから籠を受け取り、彼女を自らの背後に隠すと、パンを猪に向かって投げた。その拍子に、中に詰められていたたくさんのポポが地面に散らばった。
しかし猪はパンに見向きもせず、「グエエェェェッ!」と声を上げて突進してきた。
マーシャはフレアを突き飛ばし、襲い来る猪を寸でのところで躱した。バランスを崩して膝を突き、ポポの花が無残にも潰れる。
すると、通り過ぎたはずの猪が振り返り、またも奇声を上げて突進してきた。このままだとフレアが猪の犠牲になってしまう。
「フレア、危ない……っ!」
マーシャはフレアに覆いかぶさった。が、そこから一歩も動けなくなっていた。
(な、何か魔法を……!)
だが、こんな時にどんな魔法を使えばいいか分からなかった。焦れば焦るほど頭が真っ白になり、精神統一もままならない。
今日、ここに来なければ。フレアを薬草園まで連れて来なければ。今さら言っても仕方のない後悔が押し寄せてくる。
為す術もなくフレアを抱え込むと、猪はすでに目前まで迫っていた。
(ダメ、間に合わない!)
マーシャは最悪の事態を予想し、目を瞑った。