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「つ、疲れた……」
ようやく家に帰ったマーシャは、灯りをつけ、店の椅子に座ってテーブルに突っ伏した。出来ることなら、すぐにでも土で汚れた顔を洗いたいし、汚れた寝間着も着替えたい。だけど今は立つ気力がなかった。魔力も体力も限界だった。だが、頭は妙に覚醒していて、しばらくベッドに潜り込んでも眠くなりそうにない。
(何が起きたのか、結局分からなかったな。まあ、詳しくは明日聞けばいいか……)
疑っているわけではないが、本当に狂暴化した怪物の群れが現れたのなら、原因の究明と何かしらの対策を取らねばならない。だが、マーシャは今夜の働きで疲労困憊していたので、ざわついている町の人々を残して先に帰ってきたのだった。逃れてきた、と言ってもいい。何しろ、マーシャとクラウドは重症人を治癒した英雄なのだ。一番の功労者となったクラウドがさっさと帰ってしまったので、皆の感謝の念はマーシャに集中しそうになっていた。あのまま残っていたら、胴上げをされるだけでは済まなかっただろう。
首の位置を変えるために身動きすると、ポケットの中に突っ込んでいた紙がカサリと鳴った。先程、クラウドに手渡されたものだ。マーシャは義足技師の名と住所が書かれたその紙を取り出した。
(これってやっぱり、ヤンのお父さんのために、だよね?)
ヤン本人には、にべもなく「諦めろ」と言っていたが、このような心遣いを見せるとは。あれは本当にクラウド本人だったのだろうか。マーシャは今でも夢を見ていたのかもしれないと思っていた。
(クラウドって、実はいい人?)
あのいけ好かない整った顔を思い浮かべていると、昔の記憶が甦ってきた。
それはマーシャがラヴィエール魔法学園へ入学して三ヶ月が経った頃のこと。
すっかり落ちこぼれのレッテルを貼られていたマーシャは、魔法練習室に向かっていた。
魔法練習室とは、文字通り、魔法を練習するための自習室である。いかに魔法学園といえども、いつでもどこでも魔法を使っていい訳ではない。授業中に教師の指導下で、または認可されたイベント会場などで、そして魔法練習室で、と使用場所が細かく決められている。それを破れば、即退学。また、使用した魔法の威力によっては、魔法の国家資格を取得する権利も永久に剥奪されてしまうのだ。
魔法練習室は壁や床が特殊な素材で作られており、防音ならぬ防魔加工がされているため、よほど強力な魔法でない限り、室内でいくら魔法を使っても損傷しない。そのため、魔法練習室は学生たちが気兼ねなく魔法を使える、数少ない施設であった。
図書室や音楽室などが入る北校舎の2階には、廊下の左右にたくさんの練習室が並び、完全予約制になっている。いつも予約で埋まっているのだが、この日はタイミングよくキャンセルが出たので、何とか予約が取れたのだった。
マーシャが予約しておいた部屋へ行くと、中にはまだ誰かがいた。廊下に設置されている時計を確認してみれば、すでに予約時間になっている。平日の制限時間は30分しかないので、早く交代してもらわないと寮の夕食時間に間に合わない。
マーシャは相手を急かすことにした。個性の多い学園では、自己主張をしなければ損をするとこの三か月間で嫌という程学んでいたからだ。
ノックをしようと思い、扉に近付く。
するとその瞬間、扉が中から開き、マーシャのおでこを強打した。その途端に持っていた本が腕からこぼれ落ちて音を立てる。
「何だ、お前か」
扉を開けたのは、天敵のクラウドだった。彼は白地に金の縁取りが施された学園の華美な制服を隙なく着こなしている。着られている感がまだ拭えないマーシャとは雲泥の差だ。
クラスメイトのため、嫌でも教室で毎日会わなきゃいけないというのに、放課後にまで遭遇してしまうとはついてない。
「ちょっと、おでこにぶつかったじゃない! 謝ってよ!」
痛むおでこを押さえながら抗議をしたものの、クラウドはマーシャのおでこを見て鼻で笑う。
「ふん、少しくらい腫れたところで、大した変化はないだろう」
「なっ……!」
マーシャは前髪で隠しているが、密かにでこっぱちなことを気にしていた。それを指摘され、顔が一気に熱くなる。鼻よりおでこを先にぶつけたのが良い証拠だ。
何か言いかえしてやろうとするマーシャを余所に、クラウドの視線が床に散らばった魔法書に注がれた。しっかりとお手製のブックカバーを掛けておいたのに、全てのカバーが外れてしまっている。
その魔法書には、“これであなたも魔力が大幅アップ!”“HOW TO 攻撃魔法”“1日10分の訓練であなたも高等魔法使いの仲間入り!”などといった怪しげな宣伝文句が並んでいる。
「み、見ないでよ!」
マーシャは更に顔を赤くして、魔法書を掻き集めた。すると頭上からクラウドの声が降ってくる。
「無駄だな」
「どーゆー意味っ!?」
見上げてみれば、クラウドが冷たい目で見下ろしていた。
「言葉通りの意味だよ」
そう言うとクラウドは廊下をスタスタと歩いていった。
文句を言う相手を失ってしまったマーシャは、腹立ちまぎれに練習室の扉をバタンと乱暴に閉めた。
室内にはクラウドの残り香があり、その良い香りが更にイライラを募らせる。練習室には窓が無いので、香りが消えるまではどうしようもない。
(もっと何か言ってやりたいのに、言う前にどっかへ行っちゃうんだから! あいつ、本当に腹が立つ!!)
クラウドが傷つくようなセリフを浴びせてやりたいと常に考えているのだが、何しろ敵はこれといった欠点がない男なので、思いつかないのだ。しかも、彼に遭遇するのは予想していなかったタイミングの時ばかりなので、咄嗟に反応が出来ない。
「いっけない。時間がないんだから、あいつのことなんてさっさと忘れて練習しないと!」
マーシャは先程拾い集めた本を片手に、さっそく本の内容を実行してみることにした。
だが、精神集中を始めたものの、ちっとも上手くいかなかったのだった。
「ほんと、あいつってば嫌なやつだよね!」
過去を思い出し、マーシャはまた腹が立ってきた。手にした紙を思わず握りしめてクシャクシャにしてしまったくらいだ。
(いいや、あいつが実は良い人だなんてある訳ないじゃない。っていうか、絶対に認めないんだから。これはアレだよ、たまたま気が向いたとか、この義足技師が知り合いだとか、そういう理由だよ、うん)
マーシャは無理やり自分を納得させる。ただの親切心ではなく、知り合いの義足技師の宣伝役を買って出たのなら、彼の行動にも頷ける。
(明日にでもヤンに渡してあげよう)
クシャクシャになった紙を丁寧に伸ばすと、風に飛ばされないように上から天然石を乗せる。
そしてよろよろと立ち上がり、流しの甕から水を盥に移し、顔を洗った。水に浸した布で腕や足を拭くと、すぐに布は黒くなる。
それは自身が頑張った証拠なのだが、こんな泥だらけの姿で明るくなった外を歩いていたのかと思うと、女としては複雑な心境だ。
だが、少しでも力になれて良かったと心から思っていた。怪我人全員が快方に向かうことを祈る。
おそらくフレアたち女性陣は、まだ町長の家で怪我人の世話に追われているだろう。
マーシャはひとまず睡眠を取り、目覚めたら彼女たち交代することにした。体力と魔力の尽きた自分では、いても邪魔になるだけだと分かっていたからだ。
(この階段って、こんなにキツかったっけ……)
気を抜くと膝から力が抜けそうになる身体で、何とか2階へ上がる。
寝間着を着替えると、ベッドへ倒れ込んだ。汚れた服は床に置いたままだったが、今はそれを片付ける余裕すらない。
眠れるかなと心配したものの、マーシャは掛け布団を被る間もなく、気絶したかのように眠りに落ちた。




