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見上げれば、すぐ近くに金の髪と青碧色の瞳が見えた。
「クラウド!?」
ヤンの父親の怪我を睨むように見ているその表情は、硬く険しい。
南口近くに住む彼も、騒ぎを聞きつけてやって来たようだ。寝間着姿のマーシャと違ってしっかりと服を着込んでいる彼は、こんな時間まで学術書でも読んでいたのか、片眼鏡を掛けたままだった。
クラウドはその鋭い眼差しでマーシャを見下ろして、怒鳴った。
「どけ!」
「で、でも」
狼狽えるマーシャを、クラウドは後ろへ突き飛ばした。尻もちをついたマーシャの寝間着が土にまみれる。
「見ているしか出来ないなら、引っ込んでろ!」
クラウドはヤンの父親に駆け寄ると、その患部に手を当てた。途端に濃密な金色の光が彼の手から発現する。
そうだ、今は一刻を争う事態なのだ。死に対する恐怖などという感情に構っていては、助かるものも助からない。クラウドの一撃はマーシャの恐れを見事に吹き飛ばしてくれた。
「わ……私もっ」
マーシャは震える足に力を込めて立ち上がり、クラウドの隣に駆け寄った。するとクラウドがまたもや怒鳴りつけてくる。
「お前の治癒魔法なんて役に立つか! いいから俺の補助をしろ!!」
「わ、分かった!」
度重なる暴言に口答えしている余裕はない。悔しいが、この男に従えばより良い状況になるというのはマーシャが一番良く分かっていた。
マーシャはヤンの父親を挟むようにクラウドの反対側に回り込み、彼の両手の上に自分の両手を乗せる。そして全身から魔力を手繰り寄せた後に、クラウドの手に向かって力を放出した。
対象者の魔法の効果を格段にアップさせる補助魔法だ。本来、攻撃魔法や治癒魔法よりもこういった補助魔法の方が得意であった。それをクラウドが知っていたとは夢にも思わなかったため、マーシャは内心で驚いていた。
だが、今はそんなことに構っている余裕はない。マーシャはクラウドに向かって補助魔法を放出し続けた。
患部の肉は次第に盛り上がり、かぎ裂き状だった箇所が丸みを帯びていく。
クラウドの額には汗の粒が浮かんでいる。これだけの怪我を治療するのは、いくら彼でも骨が折れるのだろう。
その汗が顎にまで流れた時、大腿部の肉が剥き出しになっていた骨を包み込んだ。
金とピンク色の光が止み、全てが終わった頃には、二人とも息が上がっていた。マーシャは声も無く脱力し、地に崩れ落ちた。魔力が激減してしまったのだ。しばらく休憩を取らなければ次の魔法は使えそうにない。
ヤンの父親の顔から死相は消えたが、青白いことに変わりはなかった。
「出来ることはやった。あとはこの人の生命力に懸けるしかない」
「うん……」
クラウドはヤンの父親の足に乗せた手を下ろした。そして遠巻きに成り行きを見守っていた人々を見回す。
「誰か、この人を町長の家に運んでくれ。なるべく揺らすな」
クラウドの指示で男たち数名が簡易に作成した担架でヤンの父親を運んでいく。
すると固唾を呑んで見守っていたヤンが傷だらけの身体を引きずりながら二人に詰め寄ってきた。
「おい! 待ってくれよ。父さんの足、くっついてないじゃないか!」
ヤンは傍らにある父親の千切れた足を指差す。
「ヤン、ごめんね。でも」
マーシャがヤンに詫びようとすると、クラウドがその言葉を引き取った。
「チビ。魔法は万能じゃないんだ。お前の父さんの足は切れて時間が経ち、壊死が始まっている。たとえうまく繋がったとしても、そこから腐っていくだけだ。もちろん、医者にも治せない。どちらにしろ、片足は諦めるんだな」
「そんな……!」
ヤンの顔がこの世の終わりとばかりに曇る。
「命が助かるかもしれないってだけでも、ありがたいと思え」
クラウドはそれきり興味を無くしたように踵を返し、他の怪我人の元へ行ってしまった。
「マーシャ、ほんとにどうにもならないのか……?」
「……ごめん。ごめんね……」
縋るような目をするヤンを、マーシャは抱きしめることしか出来なかった。
しばらくマーシャの肩口に顔を押し付けていたヤンは、それでも数分でマーシャから離れた。
「ヤン、怪我の治療を……」
「俺はいい。それよりも、家に戻らなきゃ。母さんと妹たちが待ってるから」
「ヤン……」
何と言っていいか分からずに名前を呼ぶマーシャに、ヤンは微笑んでみせる。それは力のない笑みだったが、この非常事態の中においては、彼の気丈さの表れでもあった。
(子供だ子供だと思っていたけど、ヤンってすごいな……)
「ちゃんと怪我の治療は受けてね!」
ヤンはマーシャの言葉に振り返らないままで手を上げて応えた。
その小さくなる後ろ姿を見つめていると、上から冷たい声が降ってくる。
「おい」
クラウドの声だ。見上げようとした瞬間、何かがマーシャの口に突っ込まれた。
「モ、モガッ!?」
思わず噛むと口いっぱいに詰め込まれたのは甘い焼き菓子だった。菓子は冷めており、やや硬かった。その端が喉の奥にまで届き、マーシャは「げほっ」と喉を鳴らして咽てしまう。
「さっさと飲み込め。他にも怪我人は腐るほどいるんだ。働け」
クラウドは更に菓子の入った袋をマーシャに向けて放り、それだけ告げると、さっさと離れていく。
(もしかして、わざわざ自分の分を持ってきてくれたの……? いや、まさか。たまたま夜食用のお菓子を持っていただけだよね……)
頭に“クラウド、実は良い人説”が浮上したものの、今までされた仕打ちを思い出してマーシャは首を振った。だが、渡された(?)菓子はありがたく頂戴することにする。
菓子を噛み、甘みを感じる度に魔力が少しずつだが回復していくのが分かる。
咀嚼している間も色んな方向から呻き声が聞こえ、マーシャは急いで菓子を飲み込むと別の怪我人の元に駆け寄った。
すると、町の出入り口の方からたくさんの灯りがやって来た。何頭かの馬のひづめの音と嘶きが聞こえてくる。その先頭には二つの影が乗った馬の姿があった。
「医者が来たぞ!」
「助かったわ!」
「おおい、こっちだこっちだ!」
町民たちが口々に叫ぶ。
先頭の馬は半壊の馬車の手前で止まった。二つの影は門番と老医師だった。老医師は馬から降りてクラウドが治癒魔法を施した怪我人を一瞥する。
「ほお、手伝ってくれたのじゃな。ご苦労さん。後はわしが代わろう」
「いや、こちらは二人で大丈夫だ。町長の家へ行ってくれないか。そちらにもたくさんの怪我人がいる」
「よし、じゃあここは任せるとするかの」
老医師は一つ頷くと、再び馬に乗せてもらい、町長の家へと向かった。
――どのくらい経っただろう。粗方の怪我人に治癒魔法を施し、彼らが町長宅へ運ばれる様子を見守っている頃には、東の空が明るみ始めていた。
甘味で騙し騙し補給していた魔力も、とっくに枯渇している。マーシャは、気を抜けばいつでも倒れ込むことが出来るほど疲労困憊していた。
自分の恰好を見下ろしてみれば、服は泥だらけ、裾はボロボロ、髪もボサボサだった。きっと顔はもっとひどいことになっているに違いない。
マーシャは一番の功労者である男の姿を探した。その人は木の幹に腕組みをして寄りかかっている。近寄って顔を覗き込むと、その瞼はしっかりと閉じていた。その顔にもくっきりと疲労のあとが見える。
「クラウド……? 寝てるの? こんなところで寝てたら」
風邪ひくよ、と続けようとしたら、その瞼がすっと開いた。至近距離で青碧色の瞳と目が合い、マーシャはびっくりして一歩後ろに下がった。
「……帰る」
「お、お疲れ様でした……?」
何と声をかけて良いか分からず、決まり文句を口にしたマーシャとすれ違いざま、クラウドは小さなメモを手渡してきた。
そこには男の名前と住所が書かれている。そしてその下には“義足技師”の文字があった。
「クラウド、これ……?」
目を見開いたままのマーシャが振り返ると、すでに彼の者の後ろ姿はどこにも無かった。




