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 ヤンが出立した日の夜は、やけに月が赤い夜だった。


 客が少なかったため早々に店じまいをしたマーシャは、二階の居住スペースに移動し、窓から月を眺めていた。


(うーん。何か、綺麗って言うよりも、ちょっと怖い気がするなあ)


 寝間着姿だったために寒気がしたマーシャは、上着を羽織る。昼は暖かいが、夜はぐっと気温が下がる。


(そろそろ寝ようかな)


 窓を閉めようとマーシャが窓の取っ手に手を置いた時だった。外がざわざわと騒ぎ出したのだ。


「もしかして、火事?」


 マーシャは再び窓を開いて身を乗り出した。火元と風向き次第では、ここにまで延焼してしまう。

 だが、左右を見回してみても火の臭いも感じなければ炎で空も染まってはいない。


 不思議に思ったマーシャは、騒ぎの原因を知るために階段を降りて店を出た。すると先程よりも騒ぎが大きくなっていた。声がする方を頼りに走り、角を曲がると人々が手に持つ灯り(カンテラ)が見える。町の北出口の人だかりが出来ており、どうやら火事ではないようだった。

 だが、緊迫した雰囲気であることはすぐに分かった。


「マーシャ、いいところに! 今呼びに行こうと思ってたの!」


 そんな声が聞こえて目を向けると、人ごみの中からフレアが転がるように出てきた。こちらも寝間着の上からショールを引っ掻けただけの恰好である。その顔には焦りと不安が浮かんでいる。


「何が起きたの!?」


「実際に見た方が早いわ!」


 フレアは普段の彼女からは想像もできない程の力でマーシャの手を引き、人ごみに向かって叫ぶ。


「どいて! マーシャが……魔法使いが来たから、道を開けて!」


 まるで彼女の言葉に魔力が宿っているかのように、そのひと声で人の群れがぱっくりと二つに割れた。その間をフレアはマーシャを引っ張ったままぐんぐん進んでいく。


「……!」


 灯りに照らされた光景を見て、マーシャは言葉を失い、足を止めた。


 そこには、血だらけの人々が倒れていた。頭から血を流す者、腹を押さえてうずくまっている者、怪我の痛みで呻いている者……。彼らが乗っていたと思われる馬車は半壊しており、よくぞここまで持ちこたえた、という代物だった。

 ベージュ色のはずの馬車が黒く見えるのは、皆の流した血で染まったに違いない。目に留まるのは、彼らが命からがら逃げ出したことがありありと分かる、凄惨な状況ばかりだった。


「マーシャ、何とかなる?」


「やってみる。お医者さんはもう呼んでる?」


「門番の人たちが行ってくれているわ!」


 この町に医者はいない。隣町に一人いるが、高齢なので到着は遅れるだろう。マーシャはごくりと喉を鳴らした。


(お医者さんが来るまでに、何が出来る?)


 医者は病気の場合は瀉血をし、怪我の場合は縫合をする。医者が来る頃には時刻は深夜になり、たくさんの灯りをもってしても手元は暗く、治療には時間が掛かるだろう。


 迷っている暇は無い。マーシャは自分を強引に引っ張ったにもかかわらず、今はしがみつくようにしているフレアを振り返った。


「フレア、私の店から薬草のをすり潰したものが入った瓶をありったけ持ってきてくれる!? あと、包帯も!」


「分かったわ!」


 フレアは弾かれたように走り出した。数人の若い女性が「私も手伝うわ!」と追いかけていった。


「誰か、井戸からお水を汲んできて! 女の人たちは、お湯を沸かして!」


 その言葉には若い男性と中年の女性が反応し、各々が駆けていく。

 彼らの走っていく様子を見届ける暇も惜しみ、マーシャは一番近くにいた男性から灯りを借り、倒れている男性に走り寄った。


「怪我を見せてください!」


 その男性は膝から血を流していた。灯りを近付けると、丸くて深い傷が等間隔にある。どうやら肉が(えぐ)れているようだった。


「一体、何が……」


 こんな傷、見たことがない。無意識に零れた言葉に、怪我人の男性が声を押し出して答える。


「いきなり怪物の大群が襲ってきて……」


「怪物の大群が!?」


 マーシャは我が耳を疑った。怪物が群れをなすことなど、ほとんど無い。しかも、ここまで執拗に人間を襲うなど、前代未聞だ。だが、傷口は明らかに牙の鋭い何かに噛まれた痕だった。

 すると水の入った桶が早々に届いた。まずは治療が先だ。運んでくれた男性に礼を言い、マーシャは傷口に水を掛けて汚れを落とした。怪我人は悶えるように呻く。


 マーシャは手を傷口に向け、目を閉じて深呼吸を一つした。足の爪先から全身に力を巡らせ、かざした手に集めていく。マーシャが目を開くと、ピンクの淡い光が発生し、負傷している箇所を包み込む。すると抉れた肉が徐々に盛り上がり、穴が狭まっていく。傷から流れる血が止まった頃、マーシャは全身の力を抜いた。いや、抜けた。

 男性は気を失っている。気力と体力を使い果たしたのだ。


 魔法は万能ではない。怪我を治癒する際に利用するのは、本人の治癒能力である。魔法はその治癒の速度を速める手助けしているに過ぎないのだ。

 また、傷口は塞がっても失われた血は戻らない。あとは本人の生命力に頼るしかない。


 すると息せき切ったフレアと若い女性たちが戻ってきた。


「マーシャ、持ってきたわよ!」


「ありがと、フレア! 今、この人に魔法をかけたから、薬草を塗って包帯をして! 他の人は、フレアに手順を見せてもらって、町長の家で怪我人に治療をしてあげて!」


 フレアはマーシャが薬草を使用しているところを何度も見ているので、手順を知っている。後のことは彼女らに任せて、マーシャは自力で動けない怪我人たちに視線を戻した。


「おおい、こいつもどうにかしてくれよ!」


「こっちの方が重傷なんだ、早く治してくれ!」


 息つく暇も無く、あちこちから声が掛かる。


(……何とかしてあげたいけど、でも)


 ――数が多すぎる。


 見回すだけでも十数人はいるし、馬車の中にも何人かいるようだった。魔力も無限に放出出来るものではない。あと数人も治療すれば、マーシャの魔力は枯渇してしまうだろう。


「とりあえず、自分で歩ける者は私の屋敷に!」


 その時、名乗り出たのは、ようやく到着した町長だ。高台にある彼の家には、遠方から役人が訪れた際には簡易宿泊所として利用される離れがある。


「すまないが、皆、動けない怪我人を運ぶのを手伝ってくれ!」


 今まで見守るしかなかった男共がようやく動く。足を引きずる怪我人に肩を貸し、町長の家に向かって移動し始めた。


 その怪我人の中に見知った顔を見つけて、マーシャは叫んだ。


「ヤン!」


 もしかしてと思っていたが、やはりこの一行は今日出立した彼らの馬車だったのだ。三台ほどあったはずの馬車が一台しか無いところを見ると、あとの馬車は全壊したか荷物ごと置いてきたのだろう。


 ヤンは目の上に怪我をしており、顎にまで流れた血が固まっている。目に入ってしまったのか、左目は開かないようだった。


「ヤン、大丈夫!?」


 マーシャはヤンに駆け寄った。目を確認すると、眼球には傷ついておらず、まぶたを切っただけのようだった。顔の怪我は傷口が小さくても大量の血が流れるのだ。


「マーシャ……。俺、は大丈、夫。だから、お父さんを……」


「おじさん?」


 怪我は大したことなくても、頭を打っている可能性もある。だが、マーシャはヤンの願いを聞き入れ、周囲を見回す。すると馬車の荷台に仰向けで倒れているヤンの父親らしき男性を発見した。


「お願い……だ、マーシャ。お父さんを助けてくれ……」


 ヤンは父親のことをオヤジと呼ぶのも忘れ、幼い頃のように“お父さん”と呼んだ。


 マーシャはヤンを安心させるために頷いてみせ、馬車に近付いた。


(おじさんを治療して、ヤンの怪我も早く治してあげなきゃ)


 だが、マーシャはヤンの父親の変わり果てた姿を見て、びくりと震えて息を呑んだ。


(足が、無い……!!)


 かざした灯りの中に浮かんだヤンの父親には、あるべきはずの左足が無かった。――いや、彼の傍らに千切れた血だらけの左足が転がっている。その醜い傷口からは白い骨が覗いて見えた。


「う……っ」


 マーシャは自分の口を必死で抑えた。胃液が逆流してきたのだ。こんなに酷い怪我を見たのは、生まれて初めての経験だった。その表情は青白く、今にも死神が彼の命を奪ってしまいそうだった。

 だが、マーシャの身体はまるで地に縫い留められたように動かなかった。傷口が気持ち悪かったせいではない。そこに確かに横たわる“死”という概念に恐怖を覚えたのだ。


(どうしよう、どうしよう……私……!)


 出来ない、という言葉が脳裏を過ぎった時、マーシャの肩が強引に後ろへと引かれた。

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