ナーシャへの問診
構想だけはずっとしっかりあったのに、形ができるまで、随分とかかってしまいました。
厨房から運ばれてきたスープを食べ、ディアナが調薬した薬も嫌がらず飲んだナーシャは、そのままもう一度、深い眠りへと落ちた。今回調薬した材料の中に睡眠を誘発する作用のあるものはなかったが、ゾンカーンには痛みを和らげるとともに緊張を緩和する効果もあるため、もともとストレスから来る不眠状態だったナーシャにとっては、格好の睡眠剤となったらしい。睡眠ほど顕著な心身回復機能はないため、眠れるのは良いことだと説明し、ディアナはひとまずマグノム夫人を休ませた。
ミアがいない間、マグノム夫人の補佐を務めてくれているユクシム女官は、非常に有能かつ目端の効く人物である。その彼女へこっそり、間違いなくマグノム夫人が横になって入眠するのを確認してほしいと伝えたところ、「私もそうしようと考えておりました」と全面同意が返ってきた。単に自由時間を作っただけでは、マグノム夫人が休まないであろうことは、部下たちの共通認識になりつつあるらしい。
――そうして、マグノム夫人を見送り、休憩が終わり戻ってきたナーシャのもう一人の侍女(リヴィエラ、という名前だった)を出迎えて驚かれ。かろうじて主室にいるときだったため、「このお部屋でナーシャ様を診ているときは、『紅薔薇』ではなく医者のディアナとして接してください」と言い含めることができた。リヴィエラ本人は、マリス前女官長時代の後宮を、とにかく目立たず騒がず、淡々と仕事だけをこなす存在となることで生き延びてきたタイプの侍女であり、ディアナのことも噂以上には知らなかったが、主のナーシャがディアナを慕っていたことから、悪印象は持っていなかったそうだ。
何より、昨夜駆けつけてきたディアナが見せた〝奇跡〟――『森の姫』の霊力を活用した治療を目の当たりにした彼女に、〝医者〟たるディアナを拒否する心情は持ちようもないようで。最初の驚愕が過ぎてからは、両手を上げて歓迎してくれたのである。
リヴィエラと、モコ。昨年、マグノム夫人が後宮を大きく改変してから、ナーシャについているのは変わることなくこの二人である。春に再び後宮内の序列が見直された際、ナーシャの位は大きく上がり、部屋も二間続きのものとなったが、「侍女は気心知れた彼女たちのままが良い」という本人の希望を聞いて、この配置が継続されたと聞いている。モコは新人だがよく気が利いて覚えも早く、穏やかで柔らかながら仕事はきっちりこなし、それでいてベテランゆえの柔軟性ある対応が取れるリヴィエラとは良いコンビのようで、部屋が広くなっても基本は二人で問題ないようだ。
……なんて話を、雑談のように二人と交わしつつ、最近のナーシャについてもちゃっかり聞き取って。モコが気を利かせて運んでくれた朝食をナーシャの部屋でこっそり頂きつつ、眠るナーシャに急変がないか見守っていたところに、来客が告げられた。
「――おかえりなさいませ、紅薔薇様。ご挨拶が遅れましたこと、お詫び申し上げます」
「秘密裏に帰ってきたのですから、ご挨拶されてはこちらが驚いてしまいますわ。――リディル様」
やって来たのは、シェイラ、ナーシャと仲の良い側室、リディル・アーネスト。アーネスト男爵家の長子で、この後宮における〝味方〟の一人である。
「ちなみに、現時点において、『紅薔薇』の帰宮はまだ成されておりません。公式的な現在地は、港から王都へ向かう馬車の中、ですよ」
「つまり……今、私の目の前にいらっしゃるお方は?」
「側室でも何でもない、ただの医者のディアナ、です」
人差し指を立てて片目を瞑ったディアナに、リディルは大きく目を見開いて――、
「……ずっと、そうかな、って思ってたけど。やっぱり、ディア、よね?」
「私も、あのときの女の子の素性に確信が持てなくて……リディ、で合ってる?」
「……あってる」
頷いたリディルは、そのまま、貴族令嬢らしくなく床へ座り込んだ。
「あ~、も~……見たことない顔だったから旅行者だろうとは思ってたけど、まさかクレスター伯爵家のご令嬢がトコトコ徒歩で移動してるとは思わないでしょー?」
「アーネスト領が山間部で、馬の負担が大きそうだったから、麓からあの集落までは歩いただけよ。ちゃんと長距離移動には馬を使ってるわ」
「しかも、やたら大きい薬箱背負って!」
「あぁ、私の愛用品ね。ちゃんと二つに分けられるようになってて、遠駆けのときは馬に運んでもらってる」
「あれで貴族令嬢だと思えって方が無理あるよ~……」
「それはそう」
嘆くリディルに笑って、ディアナは彼女へ手を差し出し、立つのを手伝った。
寝室に控えていたリヴィエラに頼み、リディルの分のお茶を用意してもらい、ナーシャの主室の片隅をお借りする。
「あのときも〝医者見習い〟を名乗ってたけど、結局ディアの本職は医者なの? 貴族令嬢なの?」
「ん~……何が本職かと言われると難しいけど、クレスター伯爵の娘として生まれて、〝ディアナ〟と名付けられて、貴族籍を持ってるのは確か。で、物心つく前から動植物の薬効を調べるのが遊びで、趣味になって、領地の薬師へ弟子入りして調薬について学んで、そのお薬を飲んだ患者さんがどういう風に回復していくのかも知りたくて領地の医師たちにも弟子入りして、いつの間にか医者の仕事もこなせるようになった……みたいな?」
「……ちなみに、あたしと出会った頃は?」
「ちょうど領地のお医者様たちに師事して、医療を習い始めた時期だったわ。だから、〝医者見習い〟って名乗ったのも嘘じゃない」
「嘘じゃないけど、全部でもないわね」
「それは、クレスター家がエルグランド国内を回る際の、様式美みたいなものだから。本名をもじった旅名を名乗るのも、身分を明かさないのも」
「そうなのね……」
リディ――リディルと出会ったのは、ディアナが十三歳の頃の話だ。自らの興味をトコトン極め、ついには臨床医療分野にまで首を突っ込むようになった当時のディアナは、シーズン外の視察中、〝医者見習いのディア〟と名乗り、視察の傍ら地方の動植物の薬効を調べて回っていた。その途中、「あの山の上の方に生えている見たことのない薬草は、色々な病によく効く」という話を聞き、向かった先がアーネスト領だったのである。
アーネスト領は高山地帯――それもクレスター地帯とは違い、さほど雨の降らない、乾燥した山々が連なった土地だ。初めての生態系に胸躍らせつつ、馬は却って進みが遅くなりそうだと、薬箱を背に山登りを楽しんでいたところ、とある集落を発見。重い空気の漂うその集落では当時、体調不良者が続出しており、たまたま行き合ったディアナはこれも何かの縁だと、看病を手伝うことにした。
そこにいたのが――〝リディ〟と名乗る、ディアナと同じ年頃の娘だったのだ。
「薬箱を背負って〝医者見習い〟を名乗ったとはいえ、私が医者に見えないことなんて承知の上だったけれど。それでもあんなに頼られたくらいだから、あのときは本当に困っていたのね」
「あの集落では、数年に一度の頻度で、あの病が繰り返されていたの。周辺の村からは気味の悪い風土病扱いで、いつしかお医者様も来てくれなくなって、困り果てていたのですって」
「そうだったの。……まぁ、原因を考えれば、それも分かるけれど」
ディアナが調べて明らかになった病の原因は、集落に一つだけある共同井戸の水質悪化だった。集落の井戸へ水を供給している水脈は、彼らの山の頂上から山裾まで続いていたが、その水脈はとある金属の鉱脈と隣接しており、雨が多量に降った年などは鉱脈の金属成分が水脈へと流れ込み、水質を悪化させていたのだ。水脈中の水は、地中を通る間に濾過され、麓へ辿り着く頃はほぼ無害になっているが、山の中程より少し上に位置するこの集落地点ではまだ濾過し切れず、水を飲んで不調になる者が続出したのだろう。
判明した病の原因と、対処法である〝安全な飲み水の作り方〟を伝授し、不調を訴えている者たちへ適切な処置を施したことで、ディアナはいたく感謝された。その中にはもちろん、集落の人々の看病に当たっていた〝リディ〟も含まれていて。
「集落の子にしては上質な衣服だったし、集落の長の腰が低かったしで、もしかしたら領主一族の誰かか、領地守護職の近親者かな、とは当たりをつけていたけれど……まさか本当に、アーネスト家のご令嬢だったとは、ね」
「あの風土病については、父も憂慮していてね。発生の知らせがあれば、なるべく現地で指揮を取るようにしていたのだけれど、あの年は色々と重なって……何ができるわけでもないけれど、猫の手よりは使えるだろうからと、あたしが行くことになったの」
「何もできないなんて……あのときのリディは素晴らしかったわ」
皆の不安を微笑んで受け入れ、寝る間も惜しんで治療に駆け回り、親が伏せっている子を励ます。それを全て無理なく、自然体でこなせているリディルに、当時のディアナはただただ感嘆した。薬箱を背負っている以外はただの小娘な、自称〝医者見習い〟のディアナの話もしっかり聞いて、原因究明や治療薬の調合にも協力を惜しまない〝リディ〟は、まさしく理想の看護人で。
集落の病が落ち着く頃には、共に戦った彼女へ、紛れもない好意と友情を抱いたのだ。
「そう思うなら……こっそり、素性を教えてくれても良かったじゃない?」
「視察の旅の途中、特に他領では、クレスター伯爵家を名乗らないのが不文律みたいになってたのもあるけど……たぶん、ちょっと怖かったの」
「怖かった?」
「リディのことは、半分以上、領主に連なる誰かだろうと思っていたから……貴族のご令嬢と、あんな形で知り合うのは初めてで。いざ素性を打ち明けたらどうなるのか、分からなかったから」
「あぁ……『王国の悪を牛耳る、裏社会の帝王』だものね、表向きのクレスター家は」
「違うって知ってたの?」
「詳しい事情は知らないけれど、お祖父様とお父様の人脈から得られる情報を組み合わせたら、クレスター家が本当の〝悪〟じゃないのは分かるから。たぶん、何らかの理由で、敢えて〝悪〟と呼ばれてるんだろうな、って解釈よ、我が家では」
「さすがは人脈のアーネスト家……」
ディアナとて、〝リディ〟の素性が気にならなかったわけではない。あの高山地帯がアーネスト男爵領であることは知っていたから、視察旅の後、今の男爵家について軽く調べた。結果、リディルという名のデビュタント前の娘がいることを知り、あの〝リディ〟は十中八九、アーネスト男爵令嬢だろうと予想はしていたのだが。
「まさか、リディとこんなところで再会するとは思わなかったわ」
「その言葉、そっくりそのまま返すからね? ディアはあたしを領主の娘と予想できても、ディアをクレスター家のご令嬢だなんて思えるわけないから」
「社交の範囲も被らないしねぇ」
「そういうこと」
大きく頷いて、リディルはジロリと、ディアナへ恨めしげな目を向けてくる。
「後宮に『紅薔薇様』がやって来て、彼女ならこの後宮を何とかしてくれるかもしれない! の気持ちで挨拶に行った先に、忘れもしない〝医者見習い〟が豪華なドレスに身を包んで座っていたときの気持ち、ディアに分かる?」
「まさかリディがいるなんて、の気持ちと、今更五年も前の話を持ち出してもなー、の気持ちでここまで来てしまったこと、大変申し訳なく思ってます……」
「本当よ。表向き、あたしたちに繋がりなんて一切ないから、プライベートで会いたいなんて連絡するのも不自然だし。そもそも立場と身分上、プライベートで会っても『紅薔薇様』相手じゃこんな気安く話せないし」
「あー……そこに関しては、関係者一同、割と気にしてないから。公の場で『紅薔薇』やってるとき以外なら、別にどう接してくれても大丈夫よ?」
「さすがにそれは……後宮でお互い側室やってる以上、難しくない?」
「本来、リディも私も、畏まった言い方とか得意じゃないのにね」
「ホントそれ」
〝リディ〟と過ごしたのは、集落の病がある程度落ち着くまでの一週間程度だったが、マトモな健康体がお互いのみという状況の中、互いに手を取り合って民を救った経験は、過ごした時間以上に二人の仲を強固なものにした。いつか貴族籍を抜ける日が来たら、もう一度会いたいと思っていたうちの一人だ。
「まぁ、ね? ディアが『紅薔薇様』なら、絶対後宮をこのままにはしておかないだろうし、困っている人がいたら全力で助けてくれるだろうと確信できたから、そこは良かったけど。側室として、今後どう振る舞うべきかについても、ある程度の道筋はつけられたし」
「私も、革新派の側室の中にリディがいてくれるなら、この先どう動いても、大体のフォローは任せられるなぁと思えたわ」
お互いに似たようなことを考えていたのだと告白し合い、少し笑う。〝リディル・アーネスト〟とディアナに面識はなく、『紅薔薇』中に〝ディア〟として接することも不可能なため、ずっと無関係を装ってきたが……スタンザでの様々な出来事を経て、ディアナの意識も少しずつ、変わっているのかもしれない。
「あ、そうだ。今のうちに言っとくと、私この先、実家へは帰らないから」
「シェイラ付きの女官とかになる感じ?」
「あ、知ってた?」
「最近のリディが、シェイラの補佐役へ舵を切りつつあるな、っていうのは感じてたから。集落での看病中も、自分で働いてお金稼ぎたいみたいなこと言ってたし」
「あ~、そういえばそんな話したかも。〝医者見習い〟として一人旅してるディアが眩しくて」
「あはは……ごめんね、実際は私も稼いでなくて」
「ディアの場合は、実家の主戦力の一人な時点で、充分な稼ぎ手だと思うけど……」
話が雑談じみてきたところで、寝室の気配が動く。ディアナが即座に寝室の入り口へ視線を滑らせたのを、リディルも鋭敏に察知した。
「……ナーシャ様、どうかした?」
「えぇ。……目覚められたみたい」
入眠してから、三時間ほどが経過している。深く眠っていたようだし、覚醒のタイミングから見ても、良質な睡眠が取れたことは間違いないだろう。
立ち上がったところで、寝室からモコが出てくる。
「失礼いたします。ナーシャ様がお目覚めになりました」
「ありがとうございます、モコ。――リディル様とご一緒に、寝室まで伺っても良いか、ご確認ください」
「承知いたしました」
一度下がったモコは、そう待つことなくすぐに戻ってきた。「お会いになるそうです」の言葉に、一つ頷く。
「ありがとう。ではリディル様、ご一緒に」
「はい」
多くを語らず、ディアナはリディルを連れ、寝室へと入る。
寝台の上で、ナーシャは既に身を起こしていた。
「べ……いえ、あの、ディアナ、さま」
「おはようございます、ナーシャ様。お体の調子はいかがですか?」
「ぁ……眠る前より、随分と楽、です」
「それは、良かった。今からもう一度診察いたしますが、リディル様と、モコとリヴィエラにも、付き添って頂いて構いませんか? もしも、大勢の前での診察がご負担なようであれば、遠慮なく仰ってください」
「……大丈夫、です」
周囲をチラリと見てから頷くナーシャは、明け方に起きたときより、随分としっかりして見えた。ディアナはゆったり微笑んで、先ほどと同じく脈拍から見ていく。体温も先ほどより下がっているようだったので、今度は体温計で正確に測って。
「感染症の諸症状は、投薬前より和らいでいるようですね。節々の痛みはどうですか?」
「それも、かなり、楽です」
「炎症を抑える効能がある薬草を、いくつか混ぜて調薬したのが効いたのでしょう。お薬は数日間、続けてお持ちしますので、飲み続けてくださいね」
「分かりました」
「……さて、ここまでは、〝ナーシャ様〟の不調について、診察いたしました。引き続き今度は、ナーシャ様とお子様、お二人の現状について正確に把握すべく、診察をしたいのですが」
先ほどまでと変わらないトーンで、ディアナはそのまま、妊婦健診の話を持ち出す。表情が僅かに強張ったナーシャを前に少し待つと、彼女の口がノロノロと開いて。
「現状……ですか?」
「お腹の中のお子様が健やかに育つためには、医療分野からのフォローが必要不可欠です。お子様が今、どういう状態なのか。お生まれになるまで、あとどの程度のお時間を要するのか。その間、日々大きくなっていくお子様に合わせ、ナーシャ様のお身体も刻一刻と変化しますが、その時々に即したケアをどうすれば良いのかなど、細かい部分をお手伝いさせてください」
「この子は……無事、生まれてくるのですか?」
「新たな命を、無事この世へ送り出すため――生まれた先の未来で、母子が揃って健康で過ごすために、産前産後医療は存在します。医者として、全身全霊を尽くすことを誓いますゆえ、縁あって患者となられたナーシャ様とお子様のお命を、どうかわたくしに守らせて頂けませんか」
「まも、って、……いただけるの、ですか」
「当然のことです」
ディアナの返答に、ナーシャは一度、静かに、目を伏せて。
「よろしく――よろしくお願いいたします、ディアナ様」
深々と、頭を下げた。
「はい、もちろん。――お体を曲げるのは子宮に負担がかかります。楽になさってください」
姿勢を戻したナーシャに一度仰向けで寝転んでもらい、子宮の張り具合などを確かめていく。ついでに、聴診器をお腹へ当てつつ、そっと『森の姫』の霊力を使い、胎内の様子を深く探って。
(あぁ……強い子だわ)
まだまだ自我もない頃だろうに、本能で生き続けるべく、母の胎内に〝あり続けよう〟とする力が感じられる。この時期の流産は母にも子にも原因はなく、一定の確率で起こることではあるが、それを乗り切れたナーシャ母子があらゆる意味で〝強い〟のは間違いなかった。
「……微かながら、胎児の心音が感じられます。未だ、切迫流産の最中にありますので、絶対安静は必須ですが、今のところ、胎児の成長は順調ですよ」
「――!!」
ゆっくり告げると、仰向けのナーシャの顔に、紛れもない歓喜が浮かんだ。それは、心の底から我が子を慈しむ〝母〟のもの。
(……ナーシャ様は、腹の中の子を愛して、守ろうとしておいでだわ)
望まぬ妊娠によりこの世へ産み落とされ、親の愛を受けずに育つ子も多い中、母に愛されているナーシャの子は幸運なのだろう。
穏やかに笑って、ディアナはナーシャへ、一つだけ尋ねておくべきことを口にする。
「それではナーシャ様。最後に、最終の月経開始日を教えて頂けますか?」
「そ……れは、」
途端に表情を曇らせ、口を閉ざす彼女に、侍女とリディルが気遣う素振りを見せる。
そんな彼女らを視線だけで制して、ディアナは辛抱強く、ナーシャの返事を待った。
「…………それを聞いて、どうなさるおつもりでしょう?」
長い長い沈黙の後、返ってきたのは固い顔と声での質問。
警戒心も露わなナーシャへ、ディアナはただ、きょとんと小首を傾げてみせた。
「今の産前医療では、胎児の成長を最終月経開始日から数えるのです」
「胎児の……え?」
「最終月経開始日から数えて、ナーシャ様が現在、妊娠何週目なのかを明らかにすることで、出産予定日も算出できますし、そこまでの経過も大まかではありますが予想できます。特に、妊娠中期、後期は、ナーシャ様の体型も大きく変化しますので、衣類や家具などの調整も必要になりますし。いつ頃までに何が必要なのか把握するためにも、正確な妊娠週を知りたく、お尋ねいたしました」
「ぁ……」
瞳を大きく見開き、こちらを凝視してくるナーシャ。そんな彼女を、ディアナはあくまで医者として、静かに待ち続け。
そして。
「最終の、月経、開始日は……」
「はい」
「光月、の……15日前後、だったと、思います。すみません、細かいことは、覚えてなくて」
「あの、ナーシャ様。正確なお日にちは、私どもで記録しております。持って参りましょうか?」
そっと申し出てくれたのはリヴィエラだ。ナーシャが頷いたのを見て、奥へと下がり。しばらくして、侍女や女官が側室の生活を記録する用紙の一部を持ってくる。
「ありました。ナーシャ様の最終月経終了日は、光月の13日です」
「ありがとうございます。となると、今日は森月の9日ですから……現在のナーシャ様は、ちょうど妊娠10週目に入ったところね」
「あの、それで、順調にいけばいつ頃のご出産となるのでしょう?」
「妊娠43週から48週程度が正産期と言われているわ。出産予定日は、だいたい正産期の真ん中を取るから、計算すると……来年草月の23日頃かしら」
「来年の、草月」
「元気なお子様と会えるよう、頑張りましょうね」
微笑むディアナに、ナーシャも笑みを浮かべて……けれどすぐ、視線をスッと下げてしまう。
ディアナは少し考えて、リヴィエラとモコへ、記録の片付けとお茶の用意を頼んだ。
「紅茶は、妊婦の体に良くないの。妊娠初期に良いお茶については厨房長がよくご存知だから、『ナーシャ様用のお茶』とお願いしてもらえるかしら」
「承知いたしました」
「あと、軽くつまめるものも持ってきてくれると嬉しいわ。ナーシャ様のご様子は、リディル様とわたくしで見ておくから」
「は、はい!」
「では、失礼いたします」
礼をし去っていく侍女たちを見送ってから、ディアナは何も語ることなく、往診用鞄に聴診器や体温計を片付けていく。今後のことも考えれば、暗い中でも診察しやすい照明器具があると便利だなぁ……と考えていると。
「なにも……お聞きに、ならないのですね」
「はい?」
「ディアナ様のお立場であれば、陛下へお仕えする側室の一人が子を孕んだなど、一大事でしょうに」
「まぁ……そうなんですか、ね?」
一大事は一大事なのだろうけれど、エルグランド王国の側室たちは外部と完全に遮断されているわけではない(年に三度の王宮夜会は普通に出られるし、ディアナのように用事があれば海外へだって行く)ため、別に不思議ではないというのがディアナの忌憚ない意見だ。あと、不義密通がどうたらこうたらという話なら、そもそも大事にするつもりもない側室を考えなしにホイホイ集めたジュークの自業自得案件なので、むしろナーシャは被害者である。
(そりゃまぁね? どんな扱いを受けようが、一度側室として入宮した以上は、王へ誠を尽くすべきというのが、お偉方の理屈なんだろうけれど。理屈で割り切れないからこその感情なのであって、苦しむ人たちの〝苦しい〟って感情を無視して押し付ける理屈は、ただの理不尽なのよ)
それゆえ、ディアナの中に、ナーシャを責める気持ちは、そもそも欠片すらないのだが。
どうやらナーシャは、この妊娠について、おそらく関係者の中で誰よりも、重く受け止めているようだ。
ピンと来ていないディアナの前で、横たわったまま、ナーシャは低く低く言葉を紡いでいく。
「ディアナ様であれば、この子が陛下のお子でないことはお分かりでしょう。……側室として後宮にお部屋を賜りながら、陛下以外の種を宿し、実にしてしまったことは、紛れもない大罪です」
「ナーシャ様……」
「後宮を統べるディアナ様には……紅薔薇様には、私の不実を責める権利がございます。腹の中の子を〝罪の子〟だと、罵る権利があるはずです」
「……罵って、欲しいのですか?」
「…………わかりません」
ゆっくり、ゆっくりと、ナーシャの視線が天井を向いて。
「月のものが止まって、身体に不調が訪れて……新たな命が宿っているのだと、宿ってしまったのだと確信した夜は、この世の全てから見放された心地でした。本来ならば、その時点で己の不実を告白し、処罰を受けるべきだったのでしょう」
「……」
「けれど、私はどうしたってこの子を、諦められなかった。たとえ、生まれながらに〝罪の子〟なのだとしても、生きて――この世界で、生きていてほしくて」
「そう……」
「願うこと、それそのものが罪であることも分かっています。だからせめて、隠し通すつもりでした。……そんなこと、できるわけもないのに」
その瞳に浮かぶのは――、
「それなのに――私の身勝手な罪を、誰一人として、責めないから。力になりたいなんて、言うから。恵まれた立場だから言えるんだ、って、見苦しく八つ当たりました。自分が、こんなにも醜い人間だなんて、知らなかった」
――紛れもない、自嘲。
未来への不安が彼女を孤独にさせ、孤独ゆえに伸ばされた手が信じられず、跳ね除けてしまった。
そんな自分と向き合うほどに自嘲は募り、また不安になって……これでは、堂々巡りだろう。
背後で、泣きそうな表情を必死に取り繕っているリディルへ一度だけ笑いかけ、ディアナは真面目な顔でナーシャの頬へ手を伸ばした。柔らかく彼女の顔の角度を変えて、目線が合うようにする。
「わたくしは、ナーシャ様を責めません。紅薔薇である前に、わたくしはずっと、医療従事者ですから」
「……でぃ、あな、さま」
「医者にとって、命は命です。背景なんかありません。どんな命も、病や怪我を得て目の前にやってきた時点で、等しく救うべき存在なのです」
「命は……いのち」
「貴族だろうが、平民だろうが。大人だろうが、子どもだろうが。善人だろうが――悪人だろうが、関係ない。医者の前には、全て等しい〝命〟ですから」
「すべて……?」
「はい。もちろん――ナーシャ様と、お子様も」
「あぁ……っ」
美しいヘイゼルの瞳から、ぽろぽろ、涙がこぼれ落ちる。懐妊そのものに罪の意識を抱いていたナーシャにとっては、我が子を守りたいと願う母の心すら、罪悪のように思えていたのだろう。だからこそ、「どんな〝命〟も救うべき」だとただ医者の倫理に従うディアナの言葉が、態度が、弱い部分へ染み込んだのだ。
涙を流すナーシャへ、ディアナは患者向けの、とびきり優しい笑みを浮かべる。
「妊娠初期は、ちょっとしたことで心が揺れて、思ってもないことを言ってしまうものです。しっかり食べて、お薬を飲んで寝て、心も体も落ち着いてから、この先のことを一緒に、考えていきましょう」
「いっしょ、に?」
「ナーシャ様の主治医として、母体も胎児も健康でいられるように、無事に身二つとなられるように、全力でサポートして参ります。ですが、まずはナーシャ様ご自身が、自分と赤ちゃんを大切にできるようにならないと。医者の力だけで健康を維持していくのは、至難の業ですから」
「私、自身が」
「自分で自分を責めてしまっていたから、貴女を大切に思う人たちの声を、素直に受け入れられなかったのでしょう? それもまた、心の病のようなもの。心身ともに健康となれたら、きっとまた、別の視点も開けます」
「……開ける、で、しょうか」
「必ず、開けます。そのために、主治医は居るのですよ」
ナーシャの手が、そっと、ディアナの手へ重ねられる。
彼女が自ら伸ばした手を、ディアナは迷いなく取り、朗らかに笑った。
「この先、どうぞよろしくお願いいたしますね、ナーシャ様」
「こちらこそ……よろしくお願いします、ディアナ様」
光の戻ったヘイゼルの瞳に明るい未来を予感しながら、ディアナはナーシャの手を握り、〝この先〟へ思いを馳せるのであった。
リディルさん周りで意味深に立ってたフラグの数々を、ようやく回収できました……出てきた当初から、〝シェイラともディアナとも実は繋がりがある〟ことは教えられていたのですが、一年目はぶっちゃけリディルさんを掘り下げるどころじゃなくて、ここまで引っ張ってしまったという。
風呂敷、上手に畳めるようになりたいですね。




