琥珀色の境界線
彼女は完全に酔っ払ってはいなかった。その気になればすっかり酔うこともできるが、ほろ酔いの心地よさのほうが気に入っている。酔っ払いの二歩手前くらいの状態が幸運を保ってくれるように思う。
金曜日の午後十時。駅ビルの喧騒から少し離れた地下のバーは、湿り気を帯びたジャズの音色に満たされていた。彼女はカウンターの隅で、二杯目のハイボールをゆっくりと傾ける。
「幸運……ですか」
聞き上手なバーテンダーが、氷を砕く手を止めて微笑んだ。彼女はグラスの縁についた雫を指先で拭い、小さく頷く。
「そう。これ以上いくと、余計なことを口走ったり、明日への不安が顔を出したりするでしょう? でも、この『二歩手前』なら、世界が少しだけ私に優しくしてくれる気がするんです」
実際、今日の彼女には小さな幸運が続いていた。
夕方の会議は予定より早く終わり、駅への階段を降りた瞬間に電車が滑り込んできた。そして、いつもは満席のこのバーに、たった一つだけ空席があった。
彼女は、バッグの中から一冊の文庫本を取り出した。
ページをめくる指先が、いつもより滑らかに動く。アルコールが思考の角を削り、物語の言葉が染み渡るような感覚。
仕事のこと、人間関係のこと、明日の予定。
それらは今、琥珀色の液体の向こう側に、淡い霧のように遠ざかっている。
「もう一杯、いきますか?」
バーテンダーの問いに、彼女は少しだけ迷い、そして首を振った。
「いえ、今日はここまで。この『幸運な予感』を持ったまま、夜風に当たりたいから」
会計を済ませて店を出ると、都会の夜はまだ明るかった。
頬を撫でる五月の風が、ほどよく熱を帯びた体に心地よい。
彼女は駅へと続く歩道橋の上で一度立ち止まり、流れる車のライトの列を眺めた。
明日になれば、また日常の歯車が回り始める。
けれど、この二歩手前の浮遊感を連れて帰る今夜は、きっといい夢が見られるはずだ。
彼女は軽やかな足取りで、光の粒の中へと歩き出した。




