平凡で退屈な一日の始まり
俺は目を覚ました。
(彼の名前は木野塚無人。20歳の大学生。大学への進学を機に上京し、現在はアパートで一人暮らしをしている)
起きたばかりで、早くも二度寝の誘惑にかられる。しかし俺は我慢し、大きく伸びをした。意識を覚醒させるためトイレへ向かう。
(彼はワンルームのアパートに住んでいる。しかし、ユニットバスではなくトイレと浴室が別になっている。彼は比較的大雑把な性格だが、ユニットバスだけはどうしても苦手であるらしい)
トイレから戻ると、枕元の時計がピピピと、くぐもった音で鳴動していた。7時に目覚ましのアラームをセットしていたのだ。俺は枕元のぬいぐるみをどけて、ぬいぐるみの下敷きになっていた小型時計を救い出し、上部にあるボタンを押してアラーム音を止めた。
(彼の部屋に壁掛け時計はなく、枕元の時計がこの部屋にある唯一の時計である。それは小型のデジタル時計でアラーム機能付き。部屋を借りた当初は壁掛けのアナログ時計もあったのだが、就寝の際に秒針の音が気になって外してしまった。少々勿体無い気もするが、代わりに買ってきたアナログ時計も彼は気にいっているらしい。彼は早起きな性質で、いつもアラームが鳴る前に起床する為、アラームをセットする必要はないのだが、甲高いアラーム音『ピピピ』が彼の好みで、毎朝7時にアラームをセットしている)
朝食を摂るために洗面台の下の棚を開け、食パンの入った袋を取り出した。
(彼の朝食は食パンが定番になっている。一人暮らしをする前は母親が毎朝ご飯を炊いてくれていたらしい。そのため彼も一人暮らしを始めた当初はご飯を食べていたようだが、現在は食パンと牛乳に代わってしまった。おそらく、飯を炊くのが面倒なのだろう)
袋から2枚の食パンを取り出してオーブントースターへ並べて2分間焼く。
(彼の買う食パンは6枚切り100円の某スーパーオリジナルブランドと決まっている。他の有名メーカーの食パンの方がおいしいのだが、彼は根がケチなのだ)
オーブントースターが食パンを焼いている間、冷蔵庫から牛乳パックを取り出してグラスへ注ぐ。
(朝食の飲み物は牛乳と決まっている。朝食の定番といえばコーヒーであり、彼もコーヒーは嫌いではないはずだが、どうも猫舌らしく、食パンと共に勢いよく飲める牛乳の方が、彼の好みに合うのだろう)
牛乳パックを冷蔵庫へ戻すのと同時に、ビンのジャムとマーガリンを取り出し、スプーンを準備して、パンが焼けるまでしばらく待つ。
(ここで取り出したスプーンは当然、ジャムとマーガリンを食パンに塗る際に使用する。スプーンは一つである。一つのスプーンでジャムとマーガリンを塗るのはやや不潔である。例えばマーガリンを塗ってからジャムを塗ろうとすると、ビンに入ったジャムにマーガリンが付着してしまうからだ。だから彼は、マーガリンを塗った後、シンクでスプーンを水洗いしてからジャムを塗るようにしている。二つスプーンを用意すれば一々洗う必要はないが、彼はスプーンを一つしか持っていなかった。なぜスプーンが一つしかないのか?勿論、彼が一人暮らしだからであり、またケチだからでもある)
日記でも読み返すかと枕元のサイドテーブルに放り出されたそれへ手を伸ばそうとしたところで「チーン」とオーブントースターが鳴った。
(彼は日記を毎日欠かさず書いている。日記は彼の数少ない趣味である)
俺はオーブントースターを開けて食パンを観察する。まだ焦げ目が足りないと感じた。そのままオーブントースターを閉めて再び食パンを焼く。後1分くらいで充分に焼けるだろう。
(彼は毎朝、食パンを二度焼く。2分間焼いて一度取り出し、もう一度1分間弱焼く。最初から3分間焼けば二度焼く必要はないように思える。しかし、彼は一度パンを焦がしたことがあり、それを用心して2回に分けて焼く習慣を続けている。その為、2回目はオーブントースターの前で食パンが丁度よく焼けるのを見守っている)
綺麗に焦げ目のついた2枚の食パンをオーブントースターから取り出す。指が火傷しないようにパンの耳を指で摘み、皿に2枚を並べる。
(その白く綺麗な皿はポイントで獲得したものだ。某パンメーカーのイベント。パンを買うと付いてくるシールを集めて指定の台紙に貼り、スーパーへ持参するとポイントに応じて食器と交換してくれる。毎年春に開催されるこのイベントを、彼は毎年楽しんでいた)
スプーンでマーガリンとイチゴジャムをそれぞれの食パンに塗っていく。
(彼はビンのイチゴジャムを使っている。最初は丸い紙パックに入った150円のジャムを購入していたが、一度ビンのイチゴジャムを買い、以後はそちらしか購入していないそうだ。おそらくビン入りの方がより甘く、甘党の彼に合っているのだろう)
塗り終えた俺は、早速朝食を開始する。
(彼は朝食を毎朝摂っている。大学に入学する前は朝食を残す場合も多かったらしいが、大学に入学してからは朝食を必ず摂るようになった。彼の胃袋が大きくなったから、という理由ではなく、昼食を摂るのが面倒だから、というのが主な理由らしい。彼は友人が少ない為か大学の学食を苦手としており、昼食を抜くことも多いそうだ。だから昼の分まで朝食をしっかり食べるのだ)
まずはマーガリンを塗ったトーストからだ。焼けたトーストを齧るとカリっと音がして心地がいい。咀嚼を続けると、トーストの楽しい食感にマーガリンの甘さと塩味が混ざり合う。それを牛乳で流し込むと、口内から喉へ爽やかな甘さが駆けていく。
(本来、トーストに塗るのはマーガリンではなくバターの方がおいしいと言われている。しかしケチな彼にとってバターは贅沢品であり、冷蔵庫にはマーガリンしか入っていない。そのマーガリンも昨今は値上がりが続き、これ以上値上がりするようならマーガリンではなくブルーベリージャムにするか、あるいは食パンを2枚ではなく1枚で済ませようかと度々考慮しているらしい)
続いてイチゴジャムを塗ったトーストに口をつける。イチゴの人口的な酸味が口に楽しい。口内が甘ったるくなった瞬間に牛乳で流す心地よさは、何事にも代えがたい。
(彼は牛乳をうすはりグラスで飲んでいる。うすはりグラスとはその名の通り薄く軽いグラスで、通常のグラスやコップ等と比べて喉越しが良いとされる。ただし値段はやや高く、彼の使用しているグラスも3000円。何の装飾もないグラスにしては高い。倹約家の彼にとって珍しい贅沢品である。このうすはりグラスは父親からの誕生日プレゼントだそうだ。20歳の誕生日、久々に実家に帰った彼は父親に「これで一緒に酒を飲もう」と言われてうすはりグラスをプレゼントされた。彼は不覚にも涙が零れそうになった。後日そのエピソードを友人に話すと「うすはりグラスにしては3000円は安い」と指摘され彼は友人と喧嘩になったのだが、ネットで調べると友人の指摘は的を射ており、少々ショックだった。…なんて苦い思い出があるそうな)
朝食を終えて2,3分休憩した後、食器をシンクへ運ぶ。
(食べ終えた食器はすぐに洗う。彼はこれを徹底していた。一般的に、食器はすぐに洗うのではなく一旦水や洗剤に浸してから洗った方が汚れが落ちやすい。彼もそれは承知していたが、彼の場合、臭いが気になるのだ。仮に水で流しても、シンクに溜めておくと臭いが漂うものだ。だから彼は、食事を終えたらすぐに洗う習慣を徹底していた。なぜこんな習慣がついたのか?きっかけは中学の時。彼が友人の家へ遊びに行った際、シンクに溜めてあった食器から腐臭が漂っている光景を目の当たりにした。その思い出がいつまでも彼の心に残っており、この習慣を続けさせている。彼は、そう日記に書き留めていた)
蛇口を捻り水を出し、食器を軽く濯ぐ。続いてスポンジに食器用洗剤をワンプッシュする。スポンジを握ると洗剤の泡が滲み出る。それを確認してからスポンジで食器を軽く擦り、泡立て、すぐに水で洗い落とす。うすはりグラスは丁寧に洗わなければならない。うすはりと言うだけあり、軽いから落としやすいのだ。
(食器用洗剤とスポンジはドラッグストアで購入した安物だ。洗剤は無香料を使用している。一人暮らしを始めた直後は、柑橘系の香りがする洗剤を使用していた。先述したように彼は食器の臭いが気になるタイプのため、より良い香りのする方が好ましいと考えたらしい。しかし、柑橘系の香りも、良い香りといえども『におい』であることに変わりはなく、彼のお気に召さなかったようだ。こう書くと彼は神経質で潔癖なようだが、そうとも言い切れない。その証拠に、洗い終えた食器に泡が残っていたことも多々あった)
食器洗いを嫌がる人は多い。しかし一人暮らしでは洗う食器も少なくそれほど苦にはならない。速やかに食器を洗い終える。コップに水を汲み軽く口をすすいだ後、歯磨きにかかる。
(歯磨きは丁寧に行う必要がある。が、彼は歯磨きを手早く済ませる。歯ブラシも歯磨き粉もドラッグストアで購入した最も安い品を使用している。しかしうがい薬には拘りがあり、1500円を超える薬用の物を選出している。これは彼の聞く深夜ラジオのパーソナリティーが紹介していた商品らしい。うがい薬さえ良質なら歯磨きは適当で良い。というのが彼の自論であった。それが正しいかどうかは、30代、40代にならないと分からないだろう。少し心配である)
歯磨きを終えると、出発まで時間が空く。かといって二度寝する時間はない。しばらく何をするでもなく呆けていると、大学へ登校すること自体が嫌になってくる。今日は行くのをやめようか。
(彼は大学をあまり好んでいない。彼は勉学があまり得意ではなく、また友人も僅かしかおらず、大学生活を楽しんではいなかった)
暇を持て余して、俺はサイドテーブルに広げてあった日記を読み返すことを思い付いた。暇つぶしにはなるだろう。
(彼は日記を毎日付けている。退屈な毎日に楽しみを見出すために付け始めたらしい。が、気付けば日々の愚痴や恨みが多くなり、他人には見せられないような代物へと化していた)
読み進めるうちに、暗い日記の内容につられて気分が落ち込んできた。嫌になって、また日記をサイドテーブルへ放り出す。
(彼は大概、日記を広げたままサイドテーブルに放置する。他人に読まれたくないと思いつつも、心のどこかでは、日々の鬱憤を誰かに知って欲しいと思っているのかもしれない。いずれにしても、彼のこの奇癖の為に、「私」は彼の生活や心理をより詳しく知ることが出来るわけだが)
そろそろ家を出る時間だ。通学用の鞄を覗き込み、持ち物を確認する。今日の講義に必要なテキスト、筆記用具。勿論、財布も忘れてはならない。
(持ち物を念入りに確認するのは、以前定期券を忘れて電車に乗れなかった経験があるからだろう。その時の恨みつらみも、彼の日記に書いてあった)
鞄を肩から提げる。鞄の重みに肩が若干痛み、軽く首を回すと、コキコキと音がした。
(彼は肩掛けタイプのビジネスバッグを通学に使用している。カジュアル過ぎず、真面目過ぎない。そんな彼のモットーを体現したような地味なバッグである。彼自身は気に入っているようだが、肩に掛けるバッグのため、肩への負担は大きいだろう。少々心配である)
玄関を出ようとして、ふと立ち止まる。
アレを忘れていた。
家を出る前に必ず行うアレ。
我ながら子供っぽいと思うが、習慣なのだからやめられない。習慣というか儀式のようなものか。
お出掛けの挨拶は必要だからな。
(彼は玄関で立ち止まると踵を返してベッドへ戻って来た)
「行ってきます」
言いながら、俺は枕元に鎮座するぬいぐるみを撫でた。
(撫でられて悪い気はしなかった)
―今日もまた平凡で退屈な一日が始まる。




