第1章:理沙と「魔法」(前編)
「沙織! いるんでしょ! 開けてよ!」
聞き慣れた声。理沙だ。
沙織は迷ったが、理沙は諦めないタイプだ。無視しても、ドアを叩き続けるだろう。
重い体を引きずって、沙織は玄関に向かった。
ドアを開けると、そこには心配そうな顔をした伊藤理沙が立っていた。
少しギャルっぽいメイク、明るい茶色の髪、派手めのネイル。でも、その瞳には純粋な心配の色が浮かんでいる。
「沙織…」
理沙は沙織の姿を見て、息を呑んだ。
「ちょっと…あんた、いつから風呂入ってないの…?」
沙織は答えられなかった。
理沙は無言で部屋に入り、散らかった部屋を見回した。
「…最悪」
理沙は沙織の手を取り、ソファに座らせた。
「ねえ沙織、このままじゃダメだよ」
沙織は俯いたまま、何も言えなかった。
理沙は優しく沙織の肩を抱いた。
「大丈夫。私がいるから」
その言葉に、沙織の目から涙がこぼれた。
「理沙…私…もう…どうしたらいいか…」
「大丈夫」理沙は繰り返した。「絶対、大丈夫だから」
そして、理沙はスマホを取り出した。
「ねえ沙織、これ見て」
画面には、名前の知らないSNSの投稿が映し出されていた。
ハッシュタグ『#失恋を断ち切る魔法』
沙織は涙で滲んだ目で、その画面を見つめた。
「これ…何…?」
理沙は微笑んだ。
「沙織を、救う方法だよ」
理沙はソファに座り直し、スマホの画面を沙織に見せた。
「ほら、見て。今、恋愛系SNSですごく話題になってるの」
画面には、数え切れないほどの投稿が並んでいる。
『#失恋を断ち切る魔法、本当に効いた!三ヶ月苦しんだのが嘘みたい』
『毎晩やってたら、だんだん心が軽くなってきた。今日で一週間目』
『最初は怖かったけど、今はスッキリ。もう元カレのこと、どうでもよくなった』
沙織は画面を見つめた。頭が働かない。文字は読めるのに、意味が入ってこない。
「失恋を…断ち切る…?」
「そう」理沙は頷いた。「簡単な方法なんだけどね」
理沙は投稿の一つをタップした。そこには、詳しい説明が書かれていた。
『やり方は簡単。毎晩寝る前に、元恋人を「殺す」イメージをするだけ。頭の中で、ね。どんな方法でもいい。できるだけ詳しく、リアルに想像する。そうすると、不思議と未練が消えていく。心理学的にも理にかなってるらしい。執着を断ち切る儀式みたいなもの』
沙織は目を見開いた。
「殺す…って…」
「イメージだけだよ、もちろん」理沙は慌てて付け加えた。「実際に何かするわけじゃない。ただ、頭の中で想像するだけ」
沙織は首を横に振った。
「でも…そんなの…」
「私も最初は『怖い』って思った」理沙は沙織の手を握った。「でもね、これ、本当にたくさんの人が効果あったって言ってるの。ほら」
理沙は次々と投稿をスクロールした。
『詳細にイメージするのがコツ。どこで、どうやって、何を使って…って考えれば考えるほど、なぜか心がスッキリする』
『これ、一種のセラピーだと思う。抑圧された感情を解放する方法』
『騙されたと思ってやってみて!本当に楽になるから!』
何百、何千という「いいね」とコメント。みんな、効果があったと言っている。
沙織は混乱していた。
「でも…人を殺すなんて想像…」
「沙織」理沙は真剣な目で沙織を見つめた。「今のあんた、見てられないよ。もう一週間も大学休んでるんでしょ? ご飯も食べてない。寝てもいない」
「…うん」
「このままじゃ、あんた壊れちゃうよ。本当に」
理沙の声には、本気の心配が滲んでいた。
「あのクソ男のせいで、あんたの人生がめちゃくちゃになるなんて、私、許せない。だから、どんな方法でもいいから、あんたに元気になってほしいの」
沙織は唇を噛んだ。
確かに、このままじゃダメだ。でも——
「騙されたと思って、一回だけでいいから試してみて」理沙は懇願するように言った。「ね? 効果なかったら、やめればいいんだから」
沙織は画面を見つめた。
失恋を断ち切る魔法。
殺すイメージ。
本当に、そんなもので楽になれるのだろうか。
でも——もし本当に効果があるなら。
この地獄のような日々から、抜け出せるなら。
「…わかった」沙織は小さく頷いた。「やってみる」
理沙の顔がぱっと明るくなった。
「本当!? よかった!」
理沙は沙織を抱きしめた。温かい体温が、沙織の冷え切った体に染み込む。
「大丈夫。きっと楽になるから。私、あんたのこと、ずっと見守ってるから」
沙織は理沙の背中に手を回した。
理沙だけだ。今、私の味方は。
「ありがとう、理沙」
「何言ってるの。友達でしょ」
理沙は離れて、にっこりと笑った。
「じゃあ、今夜から試してみて。私、明日また様子見に来るから」
「うん」
理沙は立ち上がり、散らかった部屋を見回した。
「あ、その前に、ちょっとだけ片付けよ。このままじゃ、あんた、心まで荒れちゃうよ」
そう言って、理沙は洗濯物を拾い始めた。
沙織は、その姿を見て、また涙が出そうになった。
理沙は、いつもこうだった。高校のときから。私が困ってるとき、いつも助けてくれた。
本当に、いい友達に恵まれた。
沙織は立ち上がり、理沙と一緒に部屋を片付け始めた。




