プロローグ:失恋と崩壊(後編)
布団に入って目を閉じると、拓也の声が蘇る。
「他に好きな人ができた」
その言葉が、何度も何度も、頭の中で繰り返される。
次に、拓也と笑っていた頃の記憶が勝手に出てくる。駅のホーム。映画館。居酒屋の狭い席。雨の日に貸してくれた傘。
幸せの映像が出るほど、裏切りが深く刺さる。いまの沙織には、幸せだった記憶が、全部罠に見える。
眠れたと思っても、すぐ目が覚める。
時計を見る。午前二時。午前三時。午前四時。
冷蔵庫のモーター音が大きく聞こえる。隣の部屋の人が寝返りを打つ音が壁越しに伝わる。自分だけがずっと起きている気がして、世界から取り残される。
食べるものも減った。
冷蔵庫の中には、ヨーグルトと、ペットボトルの水と、買ったままのサラダがある。サラダは、透明な容器の中で少しだけ色が悪くなっていく。沙織の時間みたいに。
大学も休みがちになった。
机の上の教科書を開くと、文字が頭に入らない。ペンを握ると手が震える。
「頑張れ」が効かない。
「気にするな」も効かない。
自分の心の中に、ずっと冷たい水が溜まっていく。
沙織は鏡を見て、自分の顔に驚いた。
目の下に影ができている。頬が少しこけている。唇の色が薄い。
それでも、元の顔立ちは崩れていない。清楚に見える輪郭のまま、壊れていく。
「大丈夫そう」に見える人が壊れるときって、誰も気づかない。沙織はそのことが、妙に怖かった。
スマホが鳴る。
スマホを見ると、未読のLINEが二十件以上。友達、ゼミの仲間、サークルの先輩。みんな心配してくれている。
でも、返事ができない。
何て言えばいい? 「振られてボロボロです」? 「毎晩元カレのSNSを見て泣いてます」?
惨めすぎる。
でもその夜は、直接電話がかかってきた。
「理沙」
沙織は一瞬、ためらってから出た。
声が出るか不安だった。泣いてしまうのが嫌だった。
「……もしもし」
受話口の向こうで、少し明るい声がする。
「沙織? 今、起きてる? ……いや、起きてるよね。だって返事したし」
その軽い言い方が、逆に胸に刺さった。
理沙は、沙織の沈黙を待たずに続ける。
「ねえ。今から行っていい? コンビニ寄って、なんか買ってく。ゼリーとか。あと、甘いやつ。とにかく、会いたい」
沙織は言葉が出なかった。
出なかったけど、喉の奥が熱くなった。
誰かが「会いたい」と言ってくれるだけで、心の底が少しだけ浮く。
「……うん」
理沙はすぐに言った。
「待ってて。すぐ行く」
通話が切れる。
部屋にまた静けさが戻る。けれど、さっきまでの静けさとは違った。
空気の中に、誰かが近づいてくる気配が混ざった。
沙織は、ベッドの端に座ったまま、玄関の方を見た。
鍵の音を待つ自分が、情けないのに、少しだけ救われている。
そして、ふと思う。
もし理沙が、何か「眠れる方法」を持ってきてくれたら。
もし、これ以上、拓也の顔を見ずに済む方法があるなら。
その願いが、後から思えば、いちばん危なかった。
玄関の外で、エレベーターが止まる音がした。
足音が近づく。
鍵穴に鍵が入る、かすかな金属音。
沙織は息を止めた。
――ここから、何かが始まる。
いや。始まってしまう。
ドアの向こうで、理沙の声がした。
「沙織、開けて。……私、来たよ」




