プロローグ:失恋と崩壊(中編)
スマートフォンの画面が、暗闇の中で青白く光っている。
田中沙織は布団の中で丸くなり、震える指でSNSをスクロールしていた。午前三時。また眠れない。もう何日目だろう。
画面に映し出されるのは、木村拓也の笑顔。そして、彼の隣で幸せそうに微笑む見知らぬ女性——横手桜。
「いいね!」の数が、また増えている。
沙織は息を詰めて、二人のツーショット写真を見つめた。水族館。イルミネーション。カフェ。デート。デート。デート。
つい二週間前まで、その隣にいたのは私だったのに。
沙織はスマホを握りしめ、目を閉じた。涙が頬を伝う。
二年間。二年間も付き合って、私たちは結婚の話までしていたのに。
『ごめん。他に好きな人ができた』
あの日、拓也はいつもの爽やかな笑顔のまま、そう告げた。まるで天気の話でもするように。
二年間の思い出が、たった五分の会話で終わった。
沙織は布団を被り、小さく身を震わせた。部屋は散らかっている。洗濯物が床に散乱し、コンビニ弁当の空き容器がテーブルに積み重なっている。
大学も、もう一週間休んでいた。友達からのLINEも、全て未読のまま放置している。
何もしたくない。何も考えたくない。でも、頭の中は拓也のことでいっぱいだった。
幸せだった日々が、フラッシュバックのように蘇る。
初めて手を繋いだ日。初めてキスをした日。初めて「好きだ」と言われた日。海に行った夏。二人で作った料理。何気ない会話。笑い声。
それが全部、嘘だったの?
違う。嘘じゃなかったはず。あの笑顔は本物だったはず。でも、それなら——なんで?
沙織は再びスマホを見る。拓也と桜のツーショット。
桜は、スポーツ系の健康的な美人だった。明るくて、活発で、笑顔が眩しい。
私とは、正反対。
沙織はカメラアプリを開き、自分の顔を映した。
映っているのは、やつれた女。目の下には深いクマ。頬はこけ、唇は血の気を失っている。髪はボサボサで、目は虚ろだ。
——こんな顔、拓也は愛せるわけない。
沙織は自嘲的に笑い、スマホを投げ出した。
胃が痛い。何も食べていないのに、吐き気がする。
最後にまともな食事をしたのは、いつだっただろう。カップラーメンを一口食べて、残りは捨てた。味がしなかった。
目を閉じると、また拓也の顔が浮かぶ。
でも今度は、あの日——最後の日の顔じゃない。
桜と笑っている顔。
二人でキスをしている姿。
ベッドで——
「やめて…!」
沙織は頭を抱えて叫んだ。でも誰も聞いていない。一人暮らしのワンルーム。誰も助けに来ない。
また涙が溢れる。もう涙も枯れたと思っていたのに、まだ出てくる。
どうして。どうして。どうして。
私の何が悪かったの?
私が、もっと可愛ければ? もっと明るければ? もっと——
思考がぐるぐると回る。出口のない迷路。
眠らなきゃ。明日は——明日こそ大学に行かなきゃ。
でも眠れない。目を閉じると、拓也と桜の姿が浮かぶ。心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。
沙織は枕を抱きしめた。
このまま、消えてしまいたい。
いっそ、何もかも忘れてしまいたい。
拓也のことも、二年間のことも、全部。
でも、忘れられない。
忘れたくない。
忘れたい。
矛盾した感情が、胸を引き裂く。
スマホが震えた。LINEの通知。
友達からだ。「沙織、大丈夫? 心配してるよ」
沙織は通知を無視して、再びSNSを開いた。
拓也のアカウント。
新しい投稿。一時間前。
『桜と夜景見てきた。最高の夜✨』
写真には、夜景をバックに抱き合う二人。
沙織の手が震えた。
憎い。
憎い。
憎い。
心の奥底から、黒い感情が湧き上がる。
拓也が憎い。桜が憎い。幸せそうな二人が憎い。
そして——何より、こんなに惨めな自分が憎い。
沙織はスマホを握りしめた。画面にヒビが入りそうなほど、強く。
消えろ。
二人とも、消えてしまえ。
そう思った瞬間、沙織は我に返った。
何を考えてるの、私。
沙織は頭を振り、スマホを枕元に置いた。
深呼吸。一つ、二つ、三つ。
でも、心臓の鼓動は収まらない。
また眠れない夜が始まる。
窓の外では、街灯が寂しく光っている。
沙織は天井を見つめながら、呟いた。
「誰か…助けて…」
でも、答える者は誰もいない。
ただ、静寂だけが部屋を満たしていた。




