プロローグ:失恋と崩壊
涙って、味があるんだな、と沙織は思った。
しょっぱいのに、どこか甘い。甘いのに、喉の奥がひりひりする。泣くのは体力を使うって、誰かが言っていた。ほんとだ。泣けば泣くほど、身体の中の水分だけじゃなくて、気力まで乾いていく。
――これが、終わりなんだ。
そう思った瞬間から、世界の色が薄くなった。
部屋の壁紙も、カーテンの柄も、テーブルの上のリモコンも、全部「ただの物」になる。意味が抜け落ちる。自分の手足だけが、やけに重い。心は軽くなったんじゃない。心がどこかに落ちて、拾いに行けないだけだ。
スマホの画面が光っている。
画面の上で、拓也の名前が震えるみたいに揺れている。実際は揺れていないのに、沙織の視界が勝手に揺れる。
部屋は、ひとり暮らしの匂いがした。洗濯が間に合ってない、布団が干せてない、コンビニの袋がまだ片づいてない。シンクに小さなコップが一つだけ置かれていて、水滴が底に残っている。冷蔵庫の扉には、大学のプリントが磁石で雑に留められていた。法学部っぽい、固い文字が並ぶ紙。期限の赤字。提出の矢印。いつもなら「やらなきゃ」で動けたものが、今日はただの紙だった。
窓の外は、東京の夜だった。
遠くの道路の音が薄い膜みたいに重なって、救急車のサイレンがたまに混ざる。駅の方から、終電のアナウンスがかすれて流れてきて、妙に現実を突きつける。世界は回っている。沙織が止まっているだけ。
ピロン、と通知が鳴った。
「今、駅前のカフェ。来れる?」
拓也からのメッセージ。
普段なら、心臓が跳ねて、鏡を見て、髪を直して、リップを塗って――その流れが自動で動くはずだった。けれど今日は、指が動かない。画面の上で、文字だけが先に生きているみたいだ。
それでも、沙織は外に出た。
——行かないと、終わらない気がしたから。
行けば、やり直せるかもしれない、なんて、どこかで思っていたから。自分の中の一番みじめな部分が、まだ期待していたから。
◇ ◇ ◇
駅前のカフェは、夜でも明るかった。
ガラス張りの店内に、白い照明。カップルの笑い声。受験生っぽい子の参考書。ビジネスマンのパソコン。甘い焼き菓子の匂いと、コーヒーの苦味が混ざっている。
拓也は、奥の席にいた。
背が高くて、髪は整えられていて、白いシャツが似合っている。ぱっと見は、いつもの「感じのいい拓也」だ。店員に「ありがとうございます」と言う声も、ちゃんと優しい。隣の席の人が椅子を引くと、軽く会釈する。そういうところが、沙織は好きだった。
でも、沙織が席に近づくと、拓也の目が一瞬だけ泳いだ。
その一瞬で、沙織の中の何かが冷えた。
「沙織。……ごめん。急に呼んで」
拓也はいつも通りに笑った。
いつも通りの笑い方で、いつも通りじゃないことを言う準備ができている顔。
沙織は椅子に座った。手元のカップに触れる。熱い。指が熱いのに、心は冷たい。
拓也が視線を落として、カップの縁を指でなぞった。
「……話がある」
「うん」
「その、さ。俺、最近……考えたんだよね」
拓也は言い訳の前置きを、丁寧に並べる。
忙しかった、とか。将来が、とか。お互いのため、とか。そういう言葉は柔らかいのに、結局、結論は一つしかない。
「ごめん。他に好きな人ができた」
沙織は、笑ってしまいそうになった。
「好きな人ができた」って、そんな、漫画みたいな理由なんだ。
笑えないのに、笑いが出そうになる。身体が壊れそうなときって、変な反応をする。
「……誰」
声が、自分のものじゃないみたいに薄かった。
拓也は一瞬だけ間を置いて、でも視線は逸らさずに言った。
「バイト先の子。……桜っていう」
桜。
名前だけで、花びらみたいなものが目の前に散って、沙織の喉に張りつく。息が詰まる。
拓也は続けた。
「ごめん。もう決めたんだ。沙織とは、ここまでにしたいお前が悪いとかじゃない。ほんとに。俺が――」
「やめて」
沙織は言った。
「優しい言い方しないで。余計、つらい」
拓也の眉が少しだけ寄る。
その表情には、ほんの少しだけ「面倒だな」が混ざっている。沙織はそれも見逃せない。いまの沙織は、拓也の小さな癖を、全部拾ってしまう。
「……でもさ、こういうのって、仕方なくない?」
拓也は、いつもの「俺は悪くない」方向に体を傾けた。
その言い方が、沙織の胸を殴った。仕方ない、って。二年って、仕方ないで終わるんだ。
沙織は頷いた。頷くしかなかった。
この場で泣いたら、負ける気がした。負ける、という言い方も変だ。でも、泣いたら、拓也が「やっぱ別れて正解だった」と思いそうで嫌だった。
「……わかった」
拓也がほっとしたように息を吐く。
その息が、沙織には刃物みたいに見えた。
沙織は立ち上がった。椅子の脚が床に擦れて、やけに大きい音がした。
「じゃあ、もういい」
拓也が慌てて言う。
「沙織、待って。……連絡は、していいよな?」
沙織は振り向かなかった。
振り向いたら、泣くから。泣いたら、拓也の顔が勝ち誇ったように見えるから。
カフェを出ると、夜風が肌を刺した。
駅の光が眩しい。人の声がうるさい。自分だけが透明になったみたいで、誰にも触れられない。
◇ ◇ ◇
帰ってからの記憶は、ところどころ穴がある。
玄関の鍵を開けた。靴を脱いだ。バッグを床に落とした。そこまでは覚えている。
次に気づいたとき、沙織はベッドの上に座っていた。服もそのまま。スマホが手の中で光っている。指が勝手に画面をスクロールしている。
拓也のSNS。
笑っている。
バイト先の写真だが、隣に、女の子がいる。髪が長くて、スポーツをやってそうな健康的な体つきで、腕に細い筋が浮いている。笑い方が明るい。カメラに向かって遠慮がない。
拓也の肩に、彼女の手が置かれていた。手のひらが、拓也を「私のもの」って言っている。
沙織の胃がきゅっと縮んで、喉が焼ける。
スマホを投げたいのに、手が離せない。
見たくないのに、見てしまう。
指が、拓也の幸せを何度もなぞる。何度も確認するみたいに。
「……うそ」
声が出た。
自分でも驚くほど、小さくて弱い声。
うそ、って言えば何かが変わる気がした。でも何も変わらない。
その夜から、沙織は眠れなくなった。




