プロローグ
この小説を読んでいただき、ありがとうございます。
私は日本語を勉強中のため、至らない点があるかもしれませんが、楽しんでいただければ幸いです。
日本語についてアドバイスやご指摘があれば、ぜひ教えてください。今後の勉強の参考にさせていただきます。
※注意※
本作には性的描写、暴力、流血、虐待などのダークなテーマが含まれています。苦手な方は閲覧をお控えください。
目を開けると、深淵が彼女を包み込んでいた。
状況を理解できず、辺りを見回す。足元には端が崩れかけたアスファルトの台。左手には「STOP」と書かれた標識。その前には赤黒い飛び散りが残っている。そして正面には、枠だけに取り付けられた閉ざされた扉。ほかはすべて、脈打つようにうごめく漆黒の虚無だった。
ここはどこ? 死んだの? それとも夢?
思い出そうとしても、何も浮かばない。名前も、過去も、人の顔も——すべてが空白だった。
彼女は扉を開けようとしたが、びくともしない。ただ無気力に歩き回るしかなかった。やることもなく、行くあてもなく。頭は霞み、視界はぼやけていく。
どれほどの時間が過ぎただろうか。永遠にも思える沈黙のあと、耳を裂くような騒音が押し寄せた。叫び声、ざわめき、理解できない言葉。音の出どころはなく、まるで頭の内側から鳴り響いているかのようだった。
そのとき、扉が開き、鋭い光が虚無を切り裂いた。続いて、声が響く。
「こっちへ……もっと近くに。私のもとへおいで」
声に引かれるように、彼女は近づく。見えない冷たい手が頬を撫でた気がした。
「扉をくぐりなさい。こっちへ——」
蛾が炎に惹かれるように、彼女は扉の中へ足を踏み入れた。直後、すべてが闇に飲み込まれていく。
それは——彼女が煉獄へと堕ち、この失われた領域の運命が動き出す始まりだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
冷たい風が頬を撫で、草の葉が素肌に触れる。
彼女はゆっくりと目を開け、右手で太陽の光を遮った。起き上がると、茶色く擦り切れたローブが動きに合わせて揺れる。周囲には一面の草原が広がり、ところどころに木々が立っていた。
立ち上がり、伸びをするのに少し時間を要した。見渡す景色に覚えはない。しかし、不思議と肩の荷が下りたような感覚があった。
だが、今一番の問題は——ここがどこなのかを知ること。
後ろを振り返ると、小さな木立が目に入った。森と呼ぶには足りないが、木陰を作るには十分な規模だ。彼女はその木立へとゆっくり歩き、静寂に包まれた環境を心に刻み込んだ。
中へ入ると、木々に囲まれた小さな池と一軒の小屋があった。もし誰かが住んでいるのなら、この状況を知っているだろうか。
彼女は小屋の扉に近づき、拳で軽くノックした。
「……こんにちは?」と彼女は声をかけた。
数瞬の沈黙。返事はない。
そっと小屋の扉を開けると、中はがらんとしており、藁を敷いた寝床があるだけだった。
誰かが戻ってくるかもしれないと思い、とりあえず腰を下ろす。だが、いくら思い出そうとしても、何ひとつ浮かばない。
頭の中に浮かぶのは、コンクリートの建物、道路、車、電子機器……。けれど、自分が誰なのか、この場所に来る前に何をしていたのか、その記憶はどこにもなかった。
彼女は深く息を吐き、藁の寝床に頭を沈める。つい先ほど目覚めたばかりなのに、身体はだるさに包まれていた。
瞼を閉じながら、目を覚ましたときに行動を考えよう——そう心に決めた。
「起きて……シベルの樹を探して。そこで、樹に埋め込まれたペンダントを見つけて。」
「……あの声、前にも聞いたことがある」
彼女は小さく呟いた。
木々の隙間から差し込む朝日を見て、藁の寝床から立ち上がり、池へと向かう。
ローブを脱ぎ、水の冷たさに震えながら身を沈める。できる限り身体を洗い流しながら、ふと考えた。
——なぜ、自分は恐怖を感じないのだろう。
記憶が何もなく、ここに来た理由もわからないのに。
なぜ、自分の名前さえ思い出せないのに。
小さくため息をつき、池から上がる。濡れたローブで身体を拭き、そのまま羽織り直した。
「シベルの樹……なぜあの声は、それを探せと言ったんだろう」
持ち物もない彼女は、そのまま木立を後にした。
どうしてここにいるのか。自分の存在意義は何なのか。
考えを巡らせながら、以前見た道を思い出し、その方向へ歩き出す。
ほどなくして土の道に辿り着き、進むべき方角を決めなければならなかった。片方は森へと続き、もう片方は荒れた平原が広がっている。
——樹を探すのなら、森に向かうしかない。
答えはすぐに出た。
歩きながら周囲を観察する。動物はあまり見かけない。長い尾羽を持つ青い鳥が頭上を横切り、耳の代わりに角の生えたウサギのような生き物が遠くを跳ねていた。
涼しい風が頬を撫でる中、背後から足音が聞こえる。振り返ると、剣を下げた革鎧姿の大柄な男たちが二人、同じ道を歩いてきていた。
「あの……すみません、わ、私は——」
声をかけようとした瞬間、一人の男が乱暴に彼女を突き飛ばす。鋭い視線を向けられ、彼女は地面に倒れ込み、掌の皮を土の上で擦りむいた。
痛みに顔をしかめ、涙がにじむ。
「気をつけろ」
男は鼻で笑い、目を細めた。
「今日は見逃してやるが、世の中そんなに甘くねぇぞ」
突き飛ばした男が笑い声を上げ、二人はそのまま立ち去っていく。
彼女は恐ろしくてすぐに歩き出せず、その場に座り込み、傷ついた掌を見つめた。
やがて別の足音が近づいてくる。革鎧に鉄の胸当てを着けた男が現れ、彼女に手を差し伸べた。
「気にするな」
男は穏やかな声で言った。
「それより、大丈夫か?」
「あ、はい……大丈夫です。ありがとうございます」
さきほどの出来事にまだ怯えながらも、彼女は小さく答えた。
「あの……シベルの樹って、どこにあるか知ってますか?」
恐る恐る尋ねると、男は怪訝そうに眉をひそめた。
「知らないのか? ……この辺の者じゃないな?」
「えっと……はい。違います」
男は頷き、彼女に微笑んだ。
「なら、俺が案内してやろう。あんた一人じゃ危ない。攫われるかもしれないからな」
そう言って続けた。
「俺はギーエル。あんたは?」
彼女は視線を落とし、しばし黙り込む。
やがて、小さな声で答えた。
「……名前が、思い出せないんです。昨日以前のことも、何ひとつ……」