猫又になりたかった猫
山の上に円恩寺という寺があった。
そこの宝雷和尚はちょっとやそっとじゃ動じない豪胆なお人だった。
円恩寺は大きな寺で、何人もの小坊主を抱えていた。小坊主たちは各地の寺社から集まってくるので、少しくらい知らない顔が居ても誰も気にしない。
その日は珍しくあちらこちらで法事がある日で、寺には留守居の宝雷だけだった。
「まいったまいった。楓寿に酒を届けるのを忘れていた。皆、出払っているし、困った困った」
山を二つ越えた所にある徳福寺の楓寿和尚に、初仕込みの酒を届けるのが恒例になっていた。
「おしょ、わし、行く」
「おや、見慣れぬ小坊主だな。お前、名はなんと言う?」
「ふく」
「ふく、お前が行ってくれるのか?山を二つも越えないと行けないぞ?」
「かまわん。ふじゅおしょ、わし、好きじゃ」
「ほう!会ったことがあるのか?」
「ある。ふじゅおしょ、にぼし」
「楓寿は煮干しが好きだからなぁ」
「あれ、うまい」
「なるほどなぁ。ちょっと待っておれ。手紙を書いてくるからな」
「わかた。わし、ここ、掃く」
「そうかそうか、殊勝なことだな」
宝雷は急いで手紙を書いた。酒の瓶と手紙を風呂敷で包んでふくのところに戻ると、ふくはまだ掃き掃除をしていた。お尻から伸びる尻尾が揺れている。
尻尾の先が二つに割れかかっている。猫又になったばかりか。楓寿は猫が好きだったな。宝雷は荷をほどいて、手紙に文を書き足した。
「待たせたな。この酒を届けてほしい。今背中にくくり付けてやるから動くなよ?手で持っていくより、断然楽なんだ」
「わかた。わし、動かん」
宝雷は苦しくないように、でも滑り落ちないようにしっかりと肩掛けにくくりつけた。
「これでよし。重くないか?」
「おもない。わし、ちかもろち」
「ん?そうだな。力持ちだな」
宝雷はふくの頭を撫でた。
「へへ。それ、好き」
ふくは嬉しそうに撫でられていた。喉が鳴る音がする。
「あとな、これは引換券と言って、円恩寺の酒と交換できる紙だ。袖に一つずつと腹に一つ入れておくぞ。何かあったら渡せ。全部一度に出してはいかん。いいな?」
「わかた。一つ」
「そう。一つずつだぞ。では、日が沈む前に楓寿和尚の処へ届けておくれ。日が沈むと、酒の匂いに酔ってくる奴がいるからな。気をつけて行けよ?」
「わかた」
ふくはこくりと頷くと、風のように走って仁王門からの階段を下って行った。宝雷は手を合わせてふくの無事を祈った。
ふくは木々の間を走った。走って走って走って、疲れてしまった。真っ直ぐ進んだので、気付いた時には大分山を上ってしまっていた。迂回する道があったはずなのだが、走っているうちに見逃してしまったようだ。
ふくは悲しくなった。背中の酒が重い。トボトボと歩いた先に、水の匂いと音がある。途端に元気が出たふくは、水の音がする方へ走っていった。滝壺と小滝がある。
「きれじゃ」
見上げると山のゴツゴツとした岩の間を白い糸が何本も降ってくる。ふと下を見ると、
「うまそじゃ」
小さな手を滝壺に入れて水を溜めて飲んだ。冷たくて美味い。ふと水面に映った顔を見た。耳が生えた男の子がいる。
「これ、わしじゃ。出とる」
ふくはくふくふと笑ってから、「うーん」と力を込めて猫耳をしまった。
「よし」
ふくは伸びをして、また山を上り始めた。
山はなだらかだがそんなに高くはないはず。ふくはなかなか頂上に出ないので不思議に思った。もしかして、とふくは立ち止まった。ふくは小さな手で印を結んだ。
「はんてん」
術が壊れる音がして、狸が転がり落ちてきた。
「バレたか」
「わし、今おつかいじゃ。ほといてほし」
「おつかいか。宝雷和尚のか?」
「そうじゃ」
「なら仕方あるまい。お前、山は迂回せんのか?」
「うかい?」
「真っ直ぐ進んだだろ?そうすると道が険しい。迂回すると時間はかかるが、なだらかだ」
「わし、あし、つよい。山、好きじゃ」
「そうか、ならいい。おつかいが終わったら俺と遊ぼう。それなら山の頂上まで連れてってやる」
「すまん。わし、遊ぶ、ない。これ、やる」
ふくは袖から引換券を出して見せた。
「お!円恩寺の酒の引換券はないか!重畳だ。ありがとな。じゃあ、行くぞ!」
「ん」
狸はふくをおんぶした。片手でふくの尻を支えて、もう片方の手で近くの木から葉っぱをちぎり取った。
「ほいっ」
かけ声と一緒に葉っぱを頭の上に乗せると、狸は人の形になった。
「しっかり掴まってろよ?」
狸はすごい速さで走り出した。山の木々をひょいひょいと避けながら流れるように走る。ふくは楽しくなってきた。
「はや」
「もっと速くできるぞ?」
狸はもっと速く走った。木をギリギリで避けるのでふくはワクワクした。ひょい、ひょい。ひょいひょい。楽しい時間はあっという間に終わり、頂上に着いた。
「はー、楽し」
「なんだ。怖がらせてやろうと思ったのに。おどかしがいのないやつだな」
「あんがと」
「ふん。良いってことよ。気が向いたらまた遊びにこいよ」
「わし……」
「またな!」
狸は引換券をヒラヒラさせて走って行ってしまった。
「言えんだ」
ふくは独りごちて、山の頂上からこれから下る方を見た。
「まず」
視線の先にぼんやりと光が見える。
「きつねんよめりじゃ」
長い長い行列が見える。どこが始めでどこが終わりか分からない。
「うーん。行く」
ふくは今できる精一杯で走り出した。さっきの狸みたいに木々をひょいひょいと避ける。
「へへへ。楽し」
灯が近くなってきた。無数の提灯が揺れる。綿帽子を被った白無垢姿の花よめさんと、留袖姿の付き添いが何組も歩いている。
よく見ると花よめさんの顔は狐だ。いや、人の顔の者もいる。花よめさんの衣装も少しずつ違っている。
「すご」
ふくはしばらく行列に見とれていた。袖に手を入れると引換券があった。ふくは引換券を狐の行列の方に向けた。
途端に行列がシュルシュルと短くなって、一匹の狐になった。
「お前!それくれるのか?宝雷の引換券じゃないか!」
「わし、ふじゅおしょ、おつか。ここ、通る」
「ふじゅ?ああ、楓寿か。お前ももの好きだな。まあ、いい。その引換券をくれるなら、ここ、通してやるぞ。俺はそのまま宝雷の処へ行くからな」
「わかた。ん」
ふくは狐に引換券を渡した。
「じゃあな。うわばみと楓寿には気をつけろよ?」
狐はきれいな町娘に変化して、町娘とは思えない速さで走り去った。
「ほらおしょ、酒、すご」
ふくは二つ目の山を上り始めた。先の山よりも低いので、もう直ぐ福徳寺だ。楓寿和尚に会える。ふくの足取りは軽くなった。
夕焼けが山を赤く染めてきれいだった。
「きれ」
ふくが夕焼けに見とれていると、ふくの後ろはもう暗くなっていた。
「あ」
ふくが気づいた時にはもう遅かった。
「おい!そこの小坊主ちょっと待て!なんだ、お前猫又のなりそこないか?はははっ、尻尾が出たぞ」
急に低いしゃがれた声で凄まれて、ふくは驚いた。驚いた拍子に尻尾が出てしまった。
「だれ」
「何だ。ちょっとは喋れるのか。惜しかったな。お前!宝雷の酒、持ってるだろ!寄越せ!蟒蛇の俺様がお前よりも上手く酒を味わってやる」
「これ、ふじゅおしょ、酒」
「ふじゅ?ああ、楓寿か。宝雷ももの好きよの」
ふくは懐から引換券を出した。
「これ」
「お!お前、引換券を持っておるのか?仕方ない。それで勘弁してやらあ」
「酒、とる?」
「楓寿のものだってんなら仕方あるまい。あいつやばいからな。この辺の嫌われ者だ。物の怪にすら関わらんほうが良いと言われとるぞ。それに引換券が貰えるならそっちの方がいいからな」
「そか。ん」
「よしよし、素直だな。悪い事は言わんから、楓寿には関わらん方がいいぞ?無知蒙昧、傲岸不遜、その上乱暴者だからな」
「ふじゅおしょ、やさし」
「そりゃあ、別人じゃないのか?まあいい。徳福寺はもうすぐだしな。俺はこのまま円恩寺へ行く。達者でな」
「ん」
ふくは蟒蛇がいなくなって、ふうっと息を吐いた。
「こわかた」
ふくが顔を上げると、山門に続く階段が見えた。
「なつかし」
はやる気持ちを抑えて、一段一段階段を上る。掃除がされていない。門が壊れている。ふくはちゃんと楓寿和尚がいるのか不安になってきた。
「こばわ!酒」
門のところで大きな声を出してみた。誰も来ない。来ないのならこちらから行けばいい。ふくは楓寿和尚がよく寝ていた部屋を見つけた。
「ふじゅおしょ!酒!」
障子越しに楓寿和尚に声を掛けた。
「さけ?初仕込みの酒か!待ってました!」
「パーン!」
勢いよく障子を開けて出てきたのは熊のような男だった。伸びた髪はボサボサ、袷が開いて痩せた腹が見えている。
「ふじゅおしょ?」
「おぉー!小坊主!さっさと酒を渡せ!」
「わかた」
ふくは風呂敷を解こうとしたが、上手くできない。焦れた楓寿は、
「とろくさいな。貸せ!」
と言い放ってグイグイと風呂敷をほどこうとする。ふくは体がグラグラと揺れた。
「よし!やっとほどけた。あんなにキツく縛らなくても良いだろうに……」
ブツブツ言いながら酒を風呂敷から出す。ひらりと宝雷からの手紙が落ちた。
「なんだ?宝雷のやつ、手紙なんて珍しいな」
宝雷と楓寿は小坊主の頃一緒に修行した仲で、他にもたくさん小坊主はいたが、妙に気の合った二人だった。
宝雷が楓寿を妙に気に入っている、という方が正しいかもしれない。楓寿は今でこそすっかり怠け者になったが、宝雷と一緒に切磋琢磨していた頃もあった。
手紙を読んでいた楓寿の顔色が変わった。
「お前!ふくか?」
「わし、ふく。ふじゅおしょ、会う、きた」
「ふく、お前なんで急に居なくなったんだ?わしが、どれだけお前を探したか……」
楓寿の目に涙が浮かぶ。蟒蛇が見たら「鬼の目にも涙だ」と言いそうだ。
「わし、ふじゅおしょ、酒、のむ。ねこまた、なろおもた」
「なんと!わしの酒が飲みたくて猫又修行に行っとたんか」
「でも、わし、足らん。ねこまた、むりじゃた」
「ほう。そんなことがあるんか」
「そう。ししょ、わし、きのどく、ねが、きく」
「ほう。ふくの師匠が猫又になれず気の毒だから願いを聞いてくれたんじゃな?」
「そう。ふじゅおしょ、すご」
嬉しくなったふくのお尻から尻尾が出てきて、真っ直ぐにビビビと揺れた。
「で、その願いとは何じゃ?」
「わし、ふじゅおしょ、あんがと」
「わしにありがとう?」
「ふじゅおしょ、酒、好き。わし、酒、どじょ、ふじゅおしょ、うれし」
「わしが酒に目がないから、酒を運んだら喜ぶと思ってくれたんか。ありがとうなぁ。この小さい体で大変だったじゃろ」
楓寿は目を細めてふくの頭を撫でた。
「ふじゅおしょ、わし、命、あんがと」
「お前の命を救ったことか?育てたことか?どちらもわしが感謝したい程、ふくとの時間は幸せじゃった。ありがとうなぁ」
「わし、ねむ。ふじゅおしょ、わし、おしょ、ねんねん、ほし。わし、好きじゃ」
「そうかそうか、散らかってるからちょっと片付けるな」
「おしょ、わし、時間ない。懐、ねんねん、ほし」
「そうかそうか。そんなに眠いんか。ふく、おいで」
楓寿和尚は小坊主姿のふくを抱き上げた。するとふくはシュルシュルと縮まって、猫の姿になった。
尻尾の先が二つに割れかかっている。楓寿和尚は猫の姿に戻ったふくを懐の中に入れて、部屋を片付け始めた。
「わしな、お前が居なくなってからやる気が失せてな。近隣の物の怪に八つ当たりして回ったんじゃ。酒も作るのを辞めてしまった。今も作っとったらふくに飲ませてやれたに、すまんな」
「わし、ふじゅおしょ、会えた。ねんねん、うれし」
「そうかそうか。そうだ、酒造りに使っていた水は飲めるぞ。飲んでみるか」
「わし、のむ」
「よしよし、すぐ汲んでやるからな」
小さなお猪口に水を入れた。
「ほれ、ふく。たんと飲め」
ふくは水をぺろりと舐めた。
「かんろ、かんろ。うまい」
「そうじゃろう?酒は水が良くないと話にならんからなぁ」
「ふじゅおしょ、あんがと」
「気に入ったか?来年は酒を作ってやるから一緒に飲もうな。そういや、煮干しも切らしとったわ」
楓寿は懐で眠るふくが少し軽くなったような気がした。
「ふく、お前が好きだった煮干しを買ってこんとな。今日はもう遅いから、明日一緒に行こう。鰹節も買ってやろうか?枯れ節の方が良いんかな」
楓寿はふくが動かなくなった事に気づいた。懐からふくを出して布団に寝かせる。目が覚めたら起きてきそうなふく。でももうきっと動かない。
「ふく、またわしを置いていくんか?お前がおらんくなって、まるで火が消えたようじゃった。寂しくて、寂しくて、わしは酒づくりも修行も全部やめた……」
「……ふく……」
楓寿の目から涙がポロポロと落ちた。ふくがいなくなった時あんなに泣いたのに。涙はもう枯れ果てたと思っていたのに。
「そうか。最期にわしが喜ぶと思って酒を届けてくれたんじゃな」
楓寿は宝雷の酒をドンッと畳に置いて、お猪口を二つ持ってきた。
「ふく、一緒に飲もう」
楓寿は酒をお猪口に注いだ。横たわったままのふくに向けて、お猪口を持ち上げてから、飲む。
「美味い!今年も良い酒じゃ。宝雷は真っ直ぐな良いやつじゃ」
楓寿はまた泣いた。しっかりと生きてこなかった自分を悔いて泣いた。猫又になって酒が飲みたいというふくの願いを叶えてやれなかった。
楓寿は手拭いで顔を拭いて、ふくの横に添い寝した。ふくをゆっくりと、何度も撫でる。
「ふく、頑張ったな。尻尾の先、ちょっと割れとるもんな。言葉も喋れるようになって、偉かったな。大変じゃったなぁ」
涙がポロポロ、ポロポロ。
「ふく、立派じゃった。ありがとな」
それきり楓寿和尚は黙って、流れる涙もそのままにふくを撫で続けた。
朝日が昇ってきた。円恩寺に留守居役の小坊主に頼んだ宝雷が訪ねてきた。
「ふくは無事着いたか?」
「ああ。立派じゃった。わしが喜ぶと思って酒を届けてくれたんじゃ」
「そうか。お前が好きだと言っとったぞ」
「知っとるわ」
「昔、楓寿が突然猫を飼った時は驚いた。他の動物に優しくしているところなんぞ見たことがなかったからな」
「わしもふく以外一緒に住みたいと思ったことはない。不思議とふくだけじゃった」
「最期に会いにきてくれたんだな。猫又にはなれなかったようだな。酒を貰いにきた蟒蛇が言っていた。あと一歩のところまで頑張ったと評していたよ」
「そうか」
「ふくは今どこだ?」
「布団で休んでいる」
「そうか。おい、家の中を片付けろよ。布団がひきっぱなし……そうか」
「うん。手紙でお前が知らせてくれた通りじゃった」
「墓を作ってやろう」
「手伝ってくれるか?」
「もちろんだ」
二人は境内の桜の木の下に墓穴を掘って、ふくを埋めた。仔猫の頃のふくが花びらにじゃれついていたのを思い出した。
二人は修行していた時のように並んでお経をあげた。流れる涙もそのままに、ひたすら経を読んだ。
どちらからともなく読経を終えた二人は立ち上がった。
「ではまた酒が欲しくなったら円恩寺に来いよ?」
宝雷は楓寿の肩を叩いた。
「わし、もう一度酒を仕込む」
「そうか。お前の酒は美味いから、また飲みたいと思っていた。嬉しいよ」
「生活も整える。ふくに恥じないように生きてみる」
「……そうか」
二人は軽く手を振って別れた。
納得のいく酒ができたのは、あれから数年が過ぎた頃だった。
「ほれ、ふく、初仕込みだぞ」
楓寿はふくの墓に酒をかけた。
完