花見酒
ネットワークは増えつづける。
それはもう、数十年前は名前を覚えられるほどのネットワークしか無かったものが、2000年ではまさに『蜘蛛の巣』のように増えてしまったように。20XX年の今では、国が管理できているネットワークを数える方が速い。そしてそのネットワークを破壊する事を生業とするハッカーも増えた。
安全なネットワークなど存在しないと世界に噂が広まった頃、それをさらに増長させる存在が現れた。『月の災厄』と呼ばれるハッカーの登場だ。ある日、世界中、全てのパソコンに同じ月の画像が現れ、消えた。その画像は個人はもちろん、侵入不可能と言われる銀行の制御端末にさえ流れた。防衛省どころか、アメリカ国防総省の端末にさえ流れたと言われるが、真実はわからない。
そしてその映像を見た人々は実感する。
――『月の災厄』に監視できないコンピュータは存在しない――と。
だが、その天災も時の流れには逆らえなかった。『月の災厄』として恐れられたハッカーが、初めて侵入する事が出来ないネットワークが現れたのだ。
ネットワークの経路自体が無い銀行などのコンピュータにすらアクセスできる彼が、そのネットワークだけは侵入できないと断言した。
そして「桜が舞った」こうも『月の災厄』は友人のハッカーにもらしたと言う。「桜が舞って、私のネットワークを破壊していった」と。
やがてそのセキュリティを作り上げた存在の噂はまことしやかに囁かれた。
大金を払えば最強のセキュリティを提供してくれる個人だと。それは軍の頭脳集団だと。その存在はインターネットで『クスリ屋』と名乗っているらしいと。
人を殺すことすら躊躇わない、狂人だと。
夜の闇を色とりどりの明かりで照らす場所で、灰色のスーツに身を包んだ女性は、明るい店を出てため息をついた。
短めの髪の毛をいじりながら、彼女は背後の店の状況をうかがう。目に飛び込むのは、酔いつぶれた友人と、それを支えながらやっとこ会計を終える友人の彼氏だった。
背の高い二人のカップルと、標準的な身長の女性の組み合わせの原因は、全て酔いつぶれた女性によるものだ。
「ごめんな、絵梨ちゃん。亜紗美のヤツ、弱いのにはしゃぎすぎだっての」
「あきと~、だいすき~」
「バカ! 恥ずかしいから止めろ!」
首にからみつく亜紗美を、彰人が顔を赤くしながら離そうとする。それをすぐ近くで見ながら、絵梨は困ったように笑った。
「本当に、亜紗美は水無月さんが大好きなんだよね」
「えり、わかってる~」
「ほら、帰るぞ」
「う~ん、バイバ~イ、えり~」
「うん、バイバイ」
ブンブンと音がしそうなほど手を振る亜紗美。それを引きずる彰人。二人の背中を見送りながら、絵梨は遠くを見ていた。
置き去りにされている――そんな感慨が彼女の心を埋め尽くす。
桐島絵梨はまじめな人間だ。
親に言われるがまま過ごした訳でもなく、親に逆らいつづけて生きてきた訳でもない。高校卒業後短大で学び、大手のコンピュータソフト会社に勤務していた。それはひとえに、目の前に与えられた使命を果たすのに一生懸命になると言う事が起因している。それが彼女の長所であり、人から好かれる部分だった。
一生懸命やれば結果は後からついてくる――そう思っていたのは人生の半分にも満たない期間で、少し成長すればそれだけではないという壁に彼女はぶちあたった。
時の運。最近の彼女はとにかくこれに恵まれない。
週に一回、何故か通勤に使う自転車がパンクしたり、自分が作ったデータが消されている。
――悪意のある仲間がやった
そうは彼女は思わない――いや、思えない。仕事で自分が恨まれる理由が無いのだ。
少人数の仕事仲間で、敵を作る機会などなく。今までの仕事で大成功、もしくは大失敗をした覚えもない。
だからと言って、セキュリティが甘いなどということはソフト会社なのだからありえない。その手のエキスパートも、知っている中で三人ほどいる。
本当に心当たりがなく、自覚の無いまま彼女はノイローゼになっていた。
――帰ろ。
彼女は知り合いなど誰もいない方向を見るのを止め、踵を返した。だが、
「った」
ぶち当たった何かに、絵梨はよろめく。
「す、すみません――って、桐島先輩?」
その言葉は彼女にとっては真上から降っていた。
だらしないパーカーとズボン、着飾るものが全く無いのでさらにだらしなく思える。ボサボサの黒髪をポリポリかいて、茫洋とした眼鏡の青年は絵梨を見下ろしていた。
「あ、桜井さん」
驚いて絵梨は身を引く。彼女とたいして年が変わらなそうな青年は、最近雇われた彼女の仕事場の後輩だった。ただし、絵梨が正社員なのに対して桜井はアルバイトだ。
「桜井じゃなくて、夜斗の方で良いですよ。それに、一応仕事では僕が後輩なんですから『さん』付けじゃなくて良いです」
気さくに笑いながら話す桜井に、絵梨は笑う。
「珍しいね、こんな居酒屋の前で会うなんて。夜斗君はお酒が苦手じゃなかった?」
「苦手なんですけど……ちょっと別のバイトの人と打ち合わせがあって」
「フリーターって大変ね」
「慣れれば平気ですし、責任が軽いですからね」
「そうね……」
そう言って絵梨は顔を伏せた。
――責任か……。
彼女の脳裏に仕事の状況が映し出される。
――私と同じぐらいの知識と技術がある人間があと一人いれば何とかなるだろうけど、私一人で処理できるだろうか。でも、今の忙しい状況で手があいている人なんていないし……。
「途中まで送りますよ。家はどっちですか?」
微笑みながら桜井が絵梨の身長に合わせるように覗き込む。しかし、考え込んでいる絵梨は何の反応も返せなかった。それに桜井がいぶかしむ様に眉をひそめてもう一度呼ぶ。
「桐島先輩? 家はどっちですか?」
「え? えっ!?」
慌てながら絵梨は顔を上げた。そして自分が完全に考え事に没頭していた事に気付く。
「ご、ごめんなさい。ありがとう、向こうよ」
彼女は大通りの方を指して苦笑した。
「はい、行きましょうか」
そう言って桜井がリードするように歩き出す。絵梨もそれに合わせて歩き始めた。そして、絵梨の体が後方に倒れ始めるのと、彼女が歩き出すのはほぼ同時だった。
絵梨は眠りの中ですら仕事場の風景が現れる。
パソコンのディスプレイを前に時には考え込み、時には恐ろしいスピードで打ち出しながらの仕事だ。
休憩中に、彼女は一度桜井のディスプレイを覗いた事があった。その映像が、今は夢の中で現れている。
その時は、チラリと見るだけで何も気付かなかった。だが夢を見ている中で気付く、あのディスプレイに出ていたプログラムソースは絵梨ですら理解するのに時間がかかるものだと。
それは彼女の分野ではないプログラムだ。しかし、その存在自体は知らされているプログラム――他者のデータを破壊するプログラムだった。
目覚めた絵梨を出迎えたのは、少し黄ばんだ白い天井と、お粥と味噌汁の湯気。そして、だらしない雰囲気に似合うような似合わないような、エプロン姿の桜井だった。
「おや、気付きましたか?」
おっとり笑う桜井を見て、絵梨は自分の現状がわからないらしく、目を白黒させた。そして勢いよく起き上がる。自分の部屋ではない場所で、自分のベッドじゃないベッドを使って彼女は寝ていた。
「突然倒れちゃうんですもん、ビックリしましたよ。働きすぎじゃないですか、桐島先輩?」
そう言って桜井は味噌汁とお粥がのったお盆を絵梨の膝の上に乗せた。絵梨はビックリして固まる。
「食欲があったら食べてください」
「あ、え~と、ごめん。今はあんまり……」
「そうですか、じゃあこれ、僕の晩御飯と言うことで」
桜井はお盆を床において座り込んだ。しばらくすると食器同士が音を鳴らし始める。
「えっと……ここは?」
「僕の家ですよ。あぁ、別に取って喰いやしませんから安心してください」
「はぁ……」
呆然と桜井を目で追って、絵梨は呟く。しばらくして頭がもとの機能を取り戻すと、絵梨は慌てて桜井に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 今すぐ帰るね」
言うだけ言って、ベッドを飛び出そうとする絵梨。だが体の調子は戻っていなかったらしく、
「えぁっ!?」
彼女は再びベッドに突っ伏す姿勢になる。
それを桜井は声を殺して笑っている。
「まだ本調子じゃないみたいですから、しばらく休んで下さい。僕は買物に行ってくるので、家のものは好きに使って良いですよ」
そう言って、いつの間にか食べ終わったらしい桜井は笑って去った。
一人残された絵梨は、しばらく放心していた。だが、このままここに居座る訳にもいかない、と考えたらしく、彼女はとりあえず桜井の部屋を歩き回った。
一人暮らしだと聞いていたが、台所にしろ居間にしろ整理されており、ゴミもほとんどない。男の一人暮らしらしく、物が無くて閑散としているアパートの一室だった。
少し小さい部屋に入ると、仕事で使っているのか、はたまた趣味で使っているのかパソコンが一台ぽつんと置かれている。その周りには蛇のようにのた打ち回るLANケーブルがあり、その内の一本はルータらしい機器に繋がっていた。つまり、インターネットが使用できるパソコンだ。
それを見た絵梨はほとんど反射的に仕事の続きを頭の中で進める。しばらくパソコンを眺めていた絵梨だが、彼女はパソコンの電源をつけて、椅子に座った。
「ちょっと、お借りします」
本人がいないのに言っても意味が無いが、とりあえず良心の呵責をかるく済ませるために絵梨が呟く。
立ち上げたパソコンの画面を見て、絵梨はまずうめいた。次々と英語で書かれた情報が黒いバックに表示されていく。
「うぇ!? UNIX!? 個人で使うなんて、なんて面倒な……」
絵梨は本体部分に目を移して、嘆息する。切り換えスイッチがあることから、このパソコンはパソコンと言うよりは『端末』と言うべきもので、Windowsのサーバも別にあることが解かる。ここまで手の込んだ事をするのは会社、あるいはそういう趣味の人間ぐらいだ。
とりあえず、ベッドの付近から自分のバッグを持ってくると、彼女は中に入っていたフラシュメモリを取り出して差し込む。フラッシュメモリの内容を読み込む、懸命な機械音が一瞬部屋に響いた。
ふと、絵梨はウィンドウを開いて桜井のファイルの中身を見たくなった。場合によってはプライバシーに関わるとは解かっていても、言うことを聞かない絵梨の手は、勝手にキーボードにファイルの一覧を見る命令を打っていた。
いくつかの区画の中の一つに入り込み、適当なファイルを開く。そこまでして、絵梨の動きが止まった。
「これ……?」
それは、一見すれば何の変哲も無いテキストを開く為のプログラムソースだった。素人が使うようなソフトではなく、玄人向けのソフトのプログラム。しかし、そこに記されている命令文は、絵梨から見ればおかしな物だった。
――イレギュラーの処理に飛んでる。
使用回数が一定を超えた場合に作動する処理を見て、絵梨の表情が凍りついた。
――パソコンの基本設定の書き換え処理?
「ウソ……ネットワークセキュリティ、全部落としてる」
極稀に、レジストリの書き換えを行なわなければならないプログラムが存在する為、その書き換え方法自体は彼女も知っている。しかし、書き換える場合は『最低限の部分だけ』と言うのが鉄則だ。もし、間違った設定に書き換えでもしたら、二度と機械が動かなくなる可能性がある。しかし、機械が動かない事など実はさほど重要ではない。最悪なのは、全ての情報が外部に漏洩してしまう事だ。
そして、彼女は震える手で口元を押さえる。
「トロイの木馬……? 夜斗君が作った……?」
焦りながらも絵梨は他のファイルを開く。次々と現れるファイルの内容は、ほとんどがコンピュータウィルスと思われる物。そして、別のディレクトリの中のファイルを覗いて、絵梨は声すら出なくなった。
『ID』と書かれたテキストファイルには、絵梨の会社のものらしい、スーパーユーザのIDとパスワード。そして、絵梨自身のIDとパスワードどころか、全ての社員のアカウント情報があった。
さらに別のファイルを開けば、絵梨が会社で開発中のソフトまで見る事ができる。しかし、その情報は完成前なので機密情報扱いのはずのものだ。アルバイトが閲覧許可をもらえる物ではない。
「あらら、言い忘れたんで帰ってきてみたら……」
突然掛けられた声に、絵梨は心臓を鷲掴みにされる気分だった。声の調子は変わらない、相変わらずのほほんとしたテノールだ。なのに、雰囲気が一変、鋭利な刃物のようになっている。別人のような人影を、絵梨は座った状態で振り返った。
普段、笑う形に作られている桜井の表情が、今は無い。まるで別人のように冷たい人物が、絵梨を見ていた。
「そのファイルの意味――わかっちゃいますよね、桐島先輩には」
絵梨の背に、冷たい汗が流れる。やっと開けた彼女の口から発せられた声は、喉に物が詰まるように涸れていた。
「貴方……うちの会社の――私の仕事のデータを消していたの?」
桜井はいつもの穏やかな――これではいっそ皮肉げな――笑顔で首を振った。
「そんな個人的な攻撃しませんよ、僕は。やるんだったらもっと大きな所――軍のスパコンとか――にアクセスしますから」
大した事ないと言いたげに桜井がサラッと言う。
その様子を見て、絵梨は今までの認識を改めざるをえない。
桜井は親切な普通の青年? ――違う、彼は擬態を持つ異分子、しかも攻撃性の強い異分子だ。
「さて、勘違いしているようですから言いますけど、僕を雇ったのは会社の上の人間ですよ。桐島先輩にはお目にかかれないような、ね」
「侵入の?」
「セキュリティの、ですよ」
「そのトロイの木馬やクレズみたいなのを使って? 馬鹿言わないで、ネットワークに疎い私でもそれぐらいは解かるわよ」
「そうですね、これらのウィルスはハッキングの為に使うものですし、桐島先輩が覗き見たプログラムは破壊のためのプログラムですからね」
その言葉に、絵梨は目を見開いた。
――気付いていたの?
彼女の疑問は恐怖に書き換えられる。桜井はそんな絵梨に底知れない笑みで返す。
「先輩、ハッキング対策のワクチンなんかを作っているのは、昔そういうハッカーだった人間が多い――って言うのは知ってますか? つまり、蛇の道は蛇って事です。そういう事の研究者は、一度はウィルスに触れているんですよ」
桜井はそこまで言うと、息を一つこぼした。そして座った状態で硬直している絵梨を無視するように、コンピュータをシャットダウンしていく。
「さて、先輩。見られちゃったからには僕は会社から出て行かなきゃいけない。でも、あと少しで僕のセキュリティがOKかどうかわかるんです。それまでの間、この事は他言無用でお願いします」
「もし、言ったら……?」
カチャリと、音がした。
恐る恐る絵梨は桜井を見ようと頭を元に戻すと、額に冷たい何かを当てられた。黒光りする桜井の手の中にあるソレに気付いて、彼女は動けなくなった。
「頭に風穴が開いちゃいますね」
絵梨は銃口を押し当てる桜井に頷くしかなかった。
「おはようございます」
「……おはよう……」
「何ですか、元気ないですね。心配事でも?」
――アンタの持ってる拳銃で、まともに眠れなかったのよ。
心中で毒づいているのが表に出てしまっている絵梨の表情に、桜井は微笑みながら食パンを差し出す。その光景はまるでエサをもらう小鳥だ。
もう食事を終えたらしい彼は、すでに出発のための用意をしている。それを見ていた絵梨は、なんとなく呟いていた。
「早いんだね」
「同時に出社して、いらぬ嫌疑があるのは勘弁してもらいたいですからね」
「そう……」
答えに、あきれた顔で返してしまう彼女に、桜井が笑う。
「素直なのは良い事です。でも、その素直さが僕の害になる場合は――」
そう言って彼はパーカーのポケットに手をいれた。それに絵梨が目を見開いて首を振る。
「そう、そうやって素直なのが一番ですよ」
笑って、桜井は家から出た。絵梨は手元のテーブルの上にある鍵をじっと見る。
会社の仲間――人質とは言え、他人に自宅の鍵を預けていいものなのか、と彼女は考える。桜井も案外抜けているのか、それすらどうでも良い事なのか。
――夜斗君がいない間に、ここのコンピュータの中身を壊そうか。
そう言う考えが、わずかでもよぎったのは否めない。だが、彼女は頭を振った。
――それじゃ完璧に私がクラッカーじゃない。通報するべきなのかしら。
しかし、彼女の携帯は現在桜井が所持。ここの電話を使おうにも、奇跡的なまでに通話回線が無いのは調査済みだ。だからと言って外に出ても、何故か用意された彼女用の服に盗聴器でも仕込まれていそうで気が気ではない。
――それに、本当にクラッカーじゃないみたいだし……。
絵梨は冷蔵庫からバターを取り出すと、それを塗ってパンを口に運んだ。
『桐島先輩のコンピュータに、不法にアクセスした人間がいるのなら、それは僕じゃありません。僕は他の人のコンピュータを繋ぐスイッチは馬鹿になっていないのを毎日確認してるので』
リビングを移動しながら、リビングの中央で座り込む絵梨に桜井は笑った。風呂にでも入るのだろう、その両手にはタオルや着換えがある。
『クラッキングするようなハッカーでも、自分のデータを壊されるのは困る?』
揶揄をこめた絵梨の言葉に、桜井は顔をわずかにしかめた。だがそれ以前の脅し文句のためか、その動きや表情はどこか芝居じみている。
『ハッカー、ハッカーって、その言葉はもともと“コンピュータの扱いに長けている人間”という意味ですよ。ほとんど褒め言葉じゃないですか。それに、僕はそんなよく知らない人間に対してクラッキングするような事はしませんよ。先輩のコンピュータをクラッキングした犯人は、ちゃんと捕まえてあげますので、これぐらいにしてください』
『すねに傷持つ人間の言うこととは思えないわね』
『結構、僕は例え警察に突き出されようとも決して捕まえられない人間なんでね』
意味深な笑顔を浮かべ、桜井はバスルームへと姿を消した。そんな時でも拳銃を離さず、全てのドアや窓に暗証番号付きのロックをかける徹底ぶりだ。
『だからって、家に帰してくれても良いじゃない』
『信用なりませんので、特に女性は』
もうバスルームの中らしく、桜井はくぐもった声で返してきた。
「……あぁ! 腹たつ!」
しばし三分の一になった食パンを見つめた絵梨は、次の瞬間残り全てを口に頬張った。
「おはよ、絵梨」
パソコンのディスプレイを前に考え込んでいた絵梨は、その声で現実に引き戻された。スクリーンセーバーが起動している画面を慌てて隠しながら、後ろを振り返る。声の主は迷路のスクリーンセーバーが起動した画面を見て呆けながら、絵梨に目を向けていた。
茶色がかったストレートの髪を軽くまとめ上げた髪型、黒に白の縦ラインのはいったスーツと合わせてあるのは同じ柄のパンツで『やる女』印象付けさせる。その見た目どおり、男が寄り付かず、男を寄り付かせない整った顔立ちの女性は、絵梨の友人の中では社内で名の通る友人だ。しかも、それは天性の何かがあるからであって努力の賜物ではない。彼女の名を橘 紫苑、唯一にして最大のコンプレックスはその珍しい名前だと言う。
「どうしたのよ、アンタ」
「な……なにが?」
「何がって――……ま、いいや。少しは自重しなさいよ、それがアンタの悪い所だわ」
そう言って紫苑は絵梨の頭を小突いた。絵梨の顔色自体があまりよくない事に気付いたらしい紫苑は、それだけ言って詮索はしない。絵梨もこの友人のこういう所はありがたいと思っている。
「亜紗美と飲みに行ってね」
苦笑しながらそれだけ言うと、紫苑は目を丸くした。
「アサミ……森下亜紗美? どうりで、あのコ遅刻していたわけだ。……アンタ、まだあのコと付き合いがあるの? 止めときなよ、アレはアンタと馬が合う人間じゃない」
「そんな事無いよ」
「アンタは人をちゃんと見ないから言えるんだよ、ワーカーホリック」
「うっ」
先日倒れた事から絵梨もワーカーホリックの部分については否定できない。倒れさえしなければ桜井の本性も見る必要が無かったのだ。
「あのコはあれでいてどこか歪んだ感がある、純粋すぎる感のあるアンタじゃ上手く扱えないよ」
「物じゃないんだから……」
「それにほら、良い例がある。桜井の事もどうせアンタの事だから気の良い男だと思ってるだろ」
――全然。
笑顔で取り繕いながらも絵梨は心中で叫んでいる。
確かに、十時間ぐらい前まではそういう認識だったが、それは見事なまでに払拭されている。
紫苑は桜井の方を見ると目を細めた。
「人の事言えないけど、アイツは仮面が厚いタイプだな。私以上に仮面を外してないだろうに、普通に見ている人間には仮面の存在を気付かせない。私だって話してみて気付いたからな、あの優しさは完全な見せ掛けだけだと」
「そ……それはそれだけど、亜紗美は違うよ……」
それを聞いて、紫苑は大きくため息をついた。
「アンタがそれで良いなら良いよ。ただ、私はあまりあのコと付き合う事を勧められないね」
それだけ言うと、おどけたように片手を振りながら紫苑は自分のデスクに戻っていった。彼女の休憩は終わりらしい。
紫苑の姿が陰に隠れたのを見計らって、絵梨はため息をついた。それと同時にメールが送られてきた事を知らせる電子音が鳴る。
マウスを動かしてディスプレイを元の状態にすると、メールサーバを開いて届いたメールを覗く。送信元を見て、彼女は顔をしかめた。『桜井』という名前がついていて、しかも『無題』。
ゴミ箱に入れようかと右クリックしてから、絵梨は少し考え込んでメールを開いた。
予想外にメールはウィルスではなく、一見、普通のメッセージになっていた。
『お疲れ様です。』
と、だけにしか見えない。だが、わざわざテキスト形式ではなくHTML形式にしているあたりで何も気付かないのは、この会社では他の部署のジジイ連中だけだ。
呆れながら絵梨はマウスの左ボタンを押したまま矢印を下に下げる。すると青地に白い文字が浮かび上がった。
これぐらい、わかりますよね。わからなかったら、わからなかったでお笑いですが。
さて、私の事情を知っている桐島先輩にお願いがあります。お昼頃、金髪グラサン、黒いロングコートの怪しい男が会社玄関に来ますので、屋上まで案内してください。
もちろん、これも他言無用です。
あと、どうやら外からの侵入は今のところ無いようです。内側のネットワークのハッキングについてはまだ手を出していないので、社内の誰かの可能性が高いですね。
それでは、あとはよろしく。
割合短いメッセージに目を通して、絵梨はメールを閉じる。何となく桜井のほうに目をやると、彼と視線が合う。桜井はニッコリ笑って再びディスプレイを見つめていた。
ため息をついて再び見たディスプレイの変化に、絵梨は目をむく。
ディスプレイに桜が舞うと、彼女宛に送られた桜井のメールは消去されていた。
桜井はキーボードを打ちつづける。C言語のプログラムソースが流れつづけるディスプレイに見入っている彼に、突然メールの報せが鳴った。
画面を切り換えると『true moon』と言う人物が彼に宛てたメールがあった。ただし、『桜井 夜斗』の名ではなく、――ハンドルだろう――『夜桜』と言う人物宛てになっている。タイトルは『game start』と言う本文無しのメールだった。
「のぞむところだ」
彼にしては珍しい、不敵な笑みをたたえて、桜井は画面を切り換えた。
現在の社内と社外を繋ぐネットワークを視覚的にマッピングする、彼お手製のソフトを見ながら、彼は普段の微笑を取り戻した。
ランチタイム。コンビニのおにぎりで昼食を済ませた絵梨は口をあんぐりと開けていた。
やや騒々しい周囲も、彼女の顔を笑いながら彼女が見ているほうを見て立ち止まる。
サングラスに黒コート、短めの金髪はストレートだが、前髪は長いためサングラスをかけなくても顔は見えないだろう。そして、何故か大きなマスク。
――怪しいだろ。
絵梨を含めた、周囲の社員全員の感想だ。当然ながら、あの格好のため警備員に囲まれている。
絵梨は周囲を見て逃げ出そうとした。だが、
――うげっ!?
階段からニコニコ顔で彼女を見ているのはボサボサ頭の桜井だ。眼鏡が光の加減で光っているように見えるのが余計に恐怖をあおる。
『行くんだろ?』
言外に桜井はそう言っていて、それがわからないほど絵梨も馬鹿ではない。
背中に嫌な汗をかきながら、絵梨は異様な男を囲む警備員に話しかける。
「すみません、私のお客です」
社員証を見せると若干不審げに絵梨は警備員に見られたが、社員証を見た警備員が手を振ると男の周りに居た警備員達が散っていく。そして眉をひそめた警備員が彼女に一言だけ告げていく。
「あんな変なお客と取引しない方が良いと思うけどね」
――全くもって仰るとおり。
そう言いたいのを堪えて、絵梨は苦く笑った。
そんな警備員を避けて、絵梨は不審者の方へと歩み寄る。不審者はなかなかの長身で、そこまで低くない絵梨の身長でも、見上げるような高さに顔があった。
不審者は絵梨に気づくと、身を屈めて西洋風の礼の形を取る。
「ああ、Little Lady.助かりました」
一応感謝はされているらしい言葉に、絵梨は苦笑した。
「そんな風に呼ばれるほど子供じゃないんですけど……」
そう絵梨が小さく呟くと、不審者は驚いたように黒い皮の手袋に包まれた右手を顎に持っていく。
「Sorry,お若く見えたので。ところで、『夜桜』を知りませんか?」
言われて、『夜桜』と呼ばれているのであろう桜井の事を思い出し、絵梨はエレベーターの方を手で示した。
「桜井さんに案内を頼まれてます。こっちに来てください」
「OK」
そう言って二人はエレベーターへと足を運ぶ。絵梨は階段の方をちらりと見たが、あの光る眼鏡はどこにもなかった。
「ご苦労さま」
重い屋上のドアを開けた絵梨を待っていたのは、白い鉄柵に寄りかかる桜井だった。何故か周囲に人の気配はない。
「おぉ! 夜桜!」
そう言ってマスクとサングラスを取った男の顔を見て、絵梨は目を見開いた。
均整の取れた顔立ちで、繊細と言うよりも精悍さを感じる顔。そしてキリッとした眉の下にある翠の瞳は少しだけ潤み、それを隠すように長い前髪が金をふりまく。先ほどまで怪しさをふりまいていた人物と同じようには見えなくなっている。
そんな人物に対して、桜井は丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです、大佐」
桜井の言葉に男が立ち止まり、顔をしかめる。
「止めたまえ、それは嫌味としか受け取れないよ、夜桜。わたしはもう軍人ではない」
「では、夜桜と呼ぶのはひかえて頂きましょう、私は『桜井』ですので。そしたらちゃんと呼びますよ、ルートヴィッヒ」
「おぉ、すまない。メールのやりとりの癖でな。……それで、彼女は?」
「暫定的な協力者です」
そう言って桜井は今度は絵梨を見据える。
「彼はルートヴィッヒ・ライト・ハンプティ、元・ペンタゴンの方」
「ペンタゴン……?」
そう呟いて絵梨の頭に浮かんだのは五角形。確かにそれもペンタゴンだ。
「アメリカ国防総省の呼び名の方がわかりやすいですか?」
そう言われて絵梨は固まった。国防総省といえば、アメリカの軍事力を支える要、アメリカの軍といえば世界最強ということになっている。つまり、目の前の男は軍人。そして絵梨の知識の中で、『大佐』という位はかなり高い位置にあったはずだと記憶されている。
そんな彼女の様子を気にせず、桜井は追い討ちをかけた。
「そして、初代『月の災厄』のお一人です」
「月の……――!?」
『月の災厄』――誰一人として正体をつかめず、誰一人として『月の災厄』の監視から逃れる術はない――その筋ではそう言われるほどのハッカーだ。ネットワークの情報に疎い彼女とて知っている――いや、一般常識だ。
「ハッハッハ、そう言う桜井はその『月の災厄』まいた初めてのハッカー、だろ?」
「そのあと、綺麗に逆探知されちゃいましたけどね、二代目に」
「Moonはテンサイだからな」
「そのムーンに用があったみたいですが」
「もちろん済ませてあるさ。君に会えるのも、わたしはすごく楽しみにしていたんだ」
そう一笑してからルートヴィッヒは喜色を消して桜井を見据えた。
「それで、そこのLadyにはどこまで話している?」
「クラッキング経験があるハッカーとまでしか明かしてませんので、結構まずい事を言ってますよ」
ニコリと返されて、ルートヴィッヒは額に手を打った。
「あちゃ~、それはすまない。でも、私としてはキミが自分の正体を同類にしか話さないのが惜しい気がするのだが……」
「あの、何のお話ですか? 私、いない方が良いんでしょうか?」
状況に困り果てながら絵梨が割ってはいる。それに苦笑しながら、桜井は首を振った。
「別に、聞かれてまずい事は話しませんよ、僕は」
「……それは私への嫌味かい?」
「いいえ、単なる別にお荷物つれてきた事へのあてつけですよ」
そう言って桜井は右手をパーカーのポケットへとしのばせる。それと同時にルートヴィッヒもコートの内ポケットへと手をやった。
「ライフルじゃなくて良かったですね。一方的にやられなくて済む」
「日本は武器の持ち込み厳しいからね。平和な事は良い事だ」
会話をしながら桜井はルートヴィッヒに押し付けるように絵梨の背を押す。
「慣れてないので桐島先輩をよろしくお願いします」
「OK.Lady,しばらく私に付き合っておくれ」
「は?」
絵梨が口を半開きにした状態で、ルートヴィッヒは彼女の体を抱えて跳躍した。桜井もそれと同時に逆方向へと跳ぶと、鉛球が屋上のコンクリートに突き刺さった。絵梨はルートヴィッヒの腕にしがみつきながら顔をこわばらせる。
二人が着地するとそれぞれが黒光りする拳銃を取り出した。
瞬時に体勢を立て直した桜井は銃弾が飛んできた方向へ銃口を向け、両手で銃を押さえながらトリガーをひく。人の目ではとても捉えきれない速度の鉛は、まっすぐ向かいのビルの屋上へと飛んだ。そこにある人影がわずかに動く。
連続して打ち込んだ四発は、どれも致命傷を負わせるほどの狙いではない。屋上の三人を狙った人物はもう一度三人――否、桜井に狙いをつけた。
だが、負傷しているその人物を、容赦なく狙いを定める体勢に入ったルートヴィッヒが撃つ。狙いは――脳天。ルートヴィッヒに狙われた人物は血を噴出させながら後方へと倒れた。それを仲間らしき人物が引きずって撤退する。
そこで止まらずに桜井はドアの方へと銃口を向けた。
「止まれ。どっちに用だ? 返答によっては消すぞ」
桜井の目に静かな炎が宿る。彼が見ている先の人物は黒の目だし帽のため、表情がわからない。ただ、ルートヴィッヒと違って動きや服装はまったく怪しくない。男性が着用する紺のスーツだ。ただし、やはり手には拳銃を持っていて桜井に狙いを定めている。
しばらくにらみ合う二人の元へ、ルートヴィッヒが駆け寄る。
「……クスリ屋、私たちの用はそちらのハンプティ氏だ。邪魔しないでくれ」
「事情が見えません。これでも一応友人なので僕としては理不尽な理由の場合は助けたいのだが」
「ハンプティは私たちの組織のデータを流して金を手に入れていた。見逃すわけにはいかない」
男の手に力が入る。目出し帽で隠し切れなかった男の首に、汗が伝っていた。
桜井は無言で睨んでいると、ニコリと突然笑った。そして銃をおろしてルートヴィッヒに向ける。その行動に絵梨も、そして当然ルートヴィッヒを目を見開いた。
「ちょっと待ってくれ夜桜!」
「待たん! お前、ムーンと約束していながらまだ足洗ってなかったのか!?」
「いや、誤解だ夜桜。これはちょっとした小遣い稼ぎで……――」
「どこが小遣い稼ぎだ! 毎日ウチの情報を億単位で売りさばいておいて!」
「ほぅ?」
ピクリと桜井の眉が動いた。桜井はクルリと方向転換すると男の方へと近づいた。男の方もすでに銃口はルートヴィッヒのみに向けている。
「そちらさんはどうしたいんです?」
「こちらとしては、全部吐いてもらった上で殺るか、吐いてもらってから誓約書でも書いてもらって監視をつけたい」
「できたらここじゃなくて、もっと機密性のあるところで殺って欲しいんだが?」
「もちろん、そのつもりだ」
それだけ聞くと、ルートヴィッヒの方へと手を振りながら桜井は近づいた。ルートヴィッヒもつられて笑いながら手をふる。
そして至近距離まで来ると桜井はルートヴィッヒの後ろに回り、羽交い絞めにした。
「夜桜!」
「黙れ、バカ! どおりでムーンに根回ししてもらってなくても人がこないわけだ! ……そこの、あけわたしてやる、来い」
「感謝する」
「なっ! 親友を売るのか?」
「お前は頭冷やして来い」
ある程度まで男が近づくと桜井はルートヴィッヒを突き放した。ルートヴィッヒは連行されながら涙を流して桜井に訴えたが、桜井はそれを完全に無視。男の方は頭を何度も下げながら、二人は去っていった。
「……で、これってどういう解釈をすれば良いのかな、夜斗君」
「日常風景ですよ、桐島先輩」
「日常……ね……」
桜井の日常に唖然とさせられながら、絵梨はその日も桜井の家に泊まる事となった。理由はもちろん、『あと二日の我慢ですので』とニッコリ笑った桜井がポケットに手を入れながら言ってきたからだ。
そこは広い部屋だった。
いくつものディスプレイとキーボード、得体の知れないディスクが散乱している場所。そこに青年がいる。
少し癖のついた茶髪を手でグシャグシャにして、彼はディスプレイを睨む。
「くそぅ、確かにオレが侵入できないぐらいのセキュリティにしろ、とは言ったが……難しいぞ、夜桜」
彼は次に手近にあったメモ帳を取り出してそこに次々と何かを記していく。
ディスプレイを睨みながら書いているので文字が重なる部分もあるが、彼は気にしない。文字を書く事で整理をつけているのだ。
だが、ある所まで来て彼の手は止まった。頬に汗が伝う。
もう我慢がきかなくなったかのように、青年はメモ帳を床に叩きつけた。
「へっ、絶対侵入してやる。『月の災厄』の名に賭けて!」
そう言ってキーボードを恐ろしいスピードで彼は打ち込んでいく。だが、やはり途中で止まった。
「やっぱ前言撤回」
そう呟いて彼は再びメモ帳を拾った。
絵梨はデスクの脇から見える桜井の姿をじっと見ていた。彼女はずっと追われていた仕事にも、まともに手がつけられないでいる。脅されつづける生活が続けば、当然と言えば当然だが。
「いい加減、出て行けっての」
誰にも聞こえないように呟く。
唐突に、桜井が絵梨の方をに目を向けた。それに彼女は驚いて背筋を伸ばす。
その様子を軽く笑って、桜井は再びディスプレイに目を移した。絵梨はガクッと肩を落としてデスクに突っ伏す。
――何で私だけ……。
突っ伏していると誰も自分の表情を見ない安心感からか、彼女の瞳から涙が溢れる。
――あんな危ないヤツを野放しにしているなんて、警察もアイツに依頼したらしい誰だか知らない上司も……サイアク!
思いっきりデスクを蹴って、再び彼女の瞳に涙が溜まった。それは痛みからか、それとも不安からか。
「えり!」
呼びかけは突然、絵梨の後ろからあった。驚きながら涙をふき、彼女は振り返る。
「亜紗美……」
ほっとしたように絵梨は肩をなでおろし、親友を見る。
その様子に、亜紗美は首を傾げた。
「どしたの? 泣いちゃって」
「え!?」
慌てて絵梨は顔をゴシゴシとこすり、作り笑いを浮かべる。
それに不審そうに亜紗美は絵梨に顔を近づけた。
「……何かあったの? 何かあったんなら、ちゃんと言ってよ。トモダチ、でしょ?」
ニッコリ、亜紗美は笑った。それに絵梨は救われる気がして、涙が出そうになる。
――話そうかしら。
そう思って彼女は桜井をわずかに見た。そして固まる。
眼鏡の奥に、初めて本性を見たときの冷ややかさがある。あの絶対零度の目だ。
ただし、それは一瞬だけ絵梨に向けられたもので、絵梨の視線を追って桜井を見た亜紗美は気付かなかった。
「もしかして、えり、桜井さんが好きなの?」
「は!? そんな――!」
そこまで言って絵梨は口をつぐんだ。
――このまま勢いで悪口連発したらどうなるかわからないわ。
そう思っての行動だが、亜紗美は綺麗に絵梨の思惑とは違う方向へと考えを進めていく。
「確かに優しいけど……まあ、えりが良いんなら応援するわよ!」
「いや、ちょ――」
「じゃ、ガンバレ!」
それだけ残して、彼女は嵐のように去っていった。亜紗美のデスクは絵梨の斜め前なのでおそらくトイレだろう。
そこへ、いつのまにやら近づいてきていた桜井が絵梨の耳元に囁く。
「今日の夜、一緒にここに残りましょうね、桐島先輩」
それに絵梨は亜紗美を追う事も出来なくなっていた。
「え~と、夜斗君、聞いても良い?」
「まだ人が来ていないので良いですよ」
「何故にこんな所に隠れる必要があるの?」
絵梨の声は何故かわずかに震えている。
「犯人に気付かれないためですね。いやぁ、残念ですね、コートを取りにいけなくて」
「そう言う夜斗君はものすごく用意周到だね」
「ありがとうございます。それが売りなんで」
周囲にある強風がその会話を余計に寒いものにしていた。
二人が現在いる場所はオフィスの窓の外。足元は文字通り地獄を見るような景色だ。美しい地獄もあったものだが、この場合落ちたら確実に昇天する。
絵梨の足元を強風がすくおうとするのをこらえ、彼女は寒さから肩を震わせて座り込んでいた。桜井も座っているがコートと隠し持っているカイロで暖をとっている。もちろん、カイロの存在は絵梨に知らせていない。
「でも、何でこんな夜中に犯人が来るのよ」
「僕がハブをちょくちょく直したおかげです」
その答えに絵梨は首を捻る。
「いやぁ、綺麗に壊れてましたよ、桐島先輩のところだけ」
ニコニコ顔の裏に青い炎が見えて、絵梨は息を飲んだ。
「私怨だか、面白半分だか知りませんが、僕がいる場所でのハッキングは許せないものでね」
普段の丁寧口調がやや崩れている。
――キ、キレかかってる?
前日のキレっぷりを見ている絵梨は声に出さずに怯える。何とか別の話題をふろうと絵梨はしどろもどろ話し始めた。
「えっと……夜斗君、『夜桜』とか『クスリ屋』って……何?」
そう聞いて桜井を覗き込んだ彼女は固まった。
――地雷だ!
絵梨は泣きそうだ。何せ桜井の顔から表情というものが掻き消えている。
新たな話題を探そうと絵梨は顔をそらしたが、桜井は勝手に口を開いていた。
「ネットワークは増えつづける。それはもう、数十年前は名前を覚えられるほどのネットワークしか無かったものが、2000年ではまさに『蜘蛛の巣』のように増えてしまったように」
その言葉に絵梨は思考の中で年下の甥っ子の教科書を思い出していた。確か、そんな一説があったような気がする。
そして桜井は続ける。
「202X年の今では、国が管理できているネットワークを数える方が速い。そしてそのネットワークを破壊する事を生業とするハッカーも増えた」
「その代表的、伝説的なハッカーとして『月の災厄』があげられる」
彼女が桜井を見ながらそう続けると、彼はわずかに笑った。普通の笑顔に絵梨がわずかに驚く。
――こんなに綺麗に笑う事が出来たの?
皮肉めいた笑顔ばかり見せられていた分、絵梨は恥ずかしくなって下を見た。
「そう、ある日、世界中、全てのパソコンに同じ月の画像が現れ、消えた。その画像は個人はもちろん、侵入不可能と言われる銀行の制御端末にさえ流れた。防衛庁どころか、アメリカ国防総省の端末にさえ流れたと言われるが、真実はわからない。そしてその映像を見た人々は実感する」
「『月の災厄』に監視できないコンピュータは存在しない」
「だが、その“天才”も時の流れには逆らえなかった」
その言葉に絵梨は止まった。
「『月の災厄』として恐れられたハッカーが、初めて侵入する事が出来ないネットワークが現れた。ネットワークの経路自体が無い銀行などのコンピュータにすらアクセスできる彼が、そのネットワークだけは侵入できないと断言したんだ」
「ちょっと待って、それ、知らないわ」
「知らなくて当たり前です。『月の災厄』はアメリカの特別チーム――軍部であるペンタゴンとCIAやFBIを含めた情報機関がエリートを集めて作ったチームです。簡単にもみ消せる。でも、噂って言うのは簡単にネットワーク上に流れてしまうんですよ、どんな機密事項でもね」
それだけ言って彼は笑う。
「そして“桜が舞った”こうも『月の災厄』は友人のハッカーにもらしたと言う。“桜が舞って、私のネットワークを破壊していった”と」
そこまで言われて絵梨は気付いた。『桜が舞った』まさしくそれと同じ現象を自分は見ているではないか。
「だから、夜桜?」
「最初はヤッコさんが月なら僕は桜、ぐらいにしか考えてなかったんですけどね。桜が誰か気付いた連中に僕はひっぱりだこ。だからそういう店をネット上で経営しています『クスリ屋』ってね」
苦笑しながら彼は言ってのける。だが絵梨は固まる。
今、彼女の目の前にいるこの茫洋とした青年は、確かに世界最強のハッカーなのだとわかったのだ。
「僕は必要とあらば警察にも、逆にテロ組織にも手を貸します。もちろん、コレがはずむ場所だけですが」
そう言って彼は手でマルを作る。つまり、カネだ。
「でも、どちらにしても僕は僕です。大悪党でも、正義の味方でもない。そして貴方の前に現れるのも明日まで。それまでお互い協力しましょ、桐島先輩」
そう言って彼は右手を出した。苦笑しながら、絵梨もそれを握った。
「さて、来ましたよ、裏に回りますよ」
「どこに行くの?」
「普通の出入り口から入ってやりましょう」
そう言って桜井は楽しそうに隣のオフィスの窓を開けて侵入した。
――最初っから中で待ち伏せろよ。
怒りを向けかけて止めた絵梨だが、それも桜井の嫌がらせだと彼女は気付かない。
暗い部屋の中、人影が動く。
ライトで照らした先にある工具を取り出し、手元にあるスイッチングハブをそのライトで照らす。光が外に漏れないよう、ついたての陰で作業をする用意周到さだ。
そしてスイッチングハブを取り外し、バッグからスイッチングハブを同じぐらいの大きさの機器を取り出す。マルチポートリピーターらしいそれを、スイッチングハブのあった場所へと置き、代わりに接続させていく。そこまで作業が終わった時だった。
「はい、残業はここまでですよ、ねぇ?」
部屋の明かりが次々と灯る。桜井は怯える事無くその人物の前に姿をあらわした。コート姿の彼は、普段の茫洋さを感じさせない。
そして彼はワラった。冷笑と言って良い。
その後についてきた絵梨は、犯人の顔に表情をこわばらせた。
「う、うそ……!?」
「悪い事はいけませんよ、森下先輩」
そこには、確かに森下亜紗美の姿があった。
亜紗美は立ち上がり、わずかに笑う。
「何の事? 私はちょっと忘れ物捜してただけよ」
「どんな?」
「指輪」
そう言って彼女は左手を出す。確かに、彼女の恋人・水無月にもらったと絵梨にもらした指輪がない。
「誰からもらった指輪ですか?」
「彰人よ」
「もう付き合っていないのに?」
その言葉に、絵梨は桜井を見る。桜井は相変わらず平然とした無表情で続ける。
「付き合っていないでしょう、水無月彰人と。彼は今別の女性と付き合ってますからね。そして、森下先輩も指輪を昨日捨てている」
「なっ、何言っているのよ! それに仮にそうだとしても、何でアンタなんかに!」
「情報って言うのはね、ゴミから一番もれやすいんですよ、森下先輩。僕の知り合いの探偵に取ってきてもらいました。これですよね、件の指輪っていうのは」
そう言って桜井は胸ポケットから銀の指輪を取り出した。それに亜紗美の顔が蒼白になる。
そして桜井は楽しむようにその指輪に刻まれた文字を朗読する。
「“Akito.Minazuki to A.M”まったく、面白いものですね、人様のゴミっていうのは」
そう言って桜井は低く笑う。侮蔑の色を含んだ瞳を歪ませて、桜井は嘲笑した。彼は馬鹿にしているのではない――挑発しているだけだ。
「ふざけんな!」
突然の叫び声は、桜井にとって予想外の所から浴びせられた。それに彼はわずかに動揺したように目を泳がせたが、すぐに元の状態になり声の方向へと目を向ける。
「何ですか、桐島先輩?」
「えり……」
叫んだのは絵梨だった。怒りで顔を赤くさせ、桜井を睨む。
「夜斗君、きみがやってるのはやっぱり悪い事だよ!」
「警察公認ですがね」
「警察なんて関係ない!」
その答えに桜井は面喰う。
「警察が……関係ない?」
「そうだよ! きみがやってる事で亜紗美が傷付いてる! 人を傷つけるのは悪い事よ!」
「詭弁ですね」
「そうよ、悪い? それでも私は亜紗美の友達だから、亜紗美を平然と傷つけるヤツは許せない!」
そう言って彼女は呆然と立ち尽くしていた亜紗美の前に立った。桜井から、亜紗美を守るように。
「えり……」
亜紗美の瞳から涙が落ちる。それを気にせずに、桜井は続けた。
「しかし、ほぼ確実に彼女が桐島先輩のコンピュータにハッキングした犯人ですよ。それはどうするんですか?」
「それは……――」
そこまで言って絵梨は言葉に詰まった。だがそれを振り払うように頭をふり、絵梨は桜井を見据えた。
「亜紗美だって事情があったに決まってる。夜斗君に『仕事』っていう事情があったように。ね、あさ――」
亜紗美を振り返った、絵梨の言葉は続かなかった。それに桜井がハッとしてコートのポケットにある携帯をある人物へと繋。
振り向いた絵梨の脇の下から、血がしたたった。赤い液体が二人の足元に徐々に水溜りを作っていく。
「あさ……み……」
絵梨の脇の下から生えた銀の光は、しっかりと亜紗美が握っていた。
亜紗美はのどで笑って顔を伏せる。
「ほんと……バカだよね、えりは。橘 紫苑のヤツはすぐに気付いたからダイッキライ、私のこういう部分に。だからその分、えりはダイスキ」
絵梨の頬に透明な雫が伝う。桜井がポケットに手を入れる動作を影で判別した、亜紗美は叫ぶ。
「動くな! 次は頚動脈をえぐるよ」
その言葉に、桜井は両手を上げて応じた。
「そう、そうしていれば良いのよ」
「早めに用を済ませて下さい。可能であれば、桐島先輩を病院に連れて行きたいので」
――うそ……。
亜紗美の裏切りと桜井が自分を助けてくれている事実に、絵梨は体が動かない。
「そう、用件ね……」
「うっ――」
銀の光が絵梨の体から引き抜かれる。ナイフで栓をしてあった傷口から、ドバドバ血が流れ出す。
大量の出血に絵梨は膝を突いてから倒れた。
桜井はわずかにそちらを気にしながらも、亜紗美を静かに見据える。
当の亜紗美は、顔を上げてワラった。
「あなた、死んでよ」
そう言って亜紗美はナイフを桜井に突きつけてワラう。
「この子を助けたいんなら、まずはあなたが死んでよ。そうすれば助ける確率もあるわ」
桜井は考え込むように眼鏡を押さえて顔をそらした。
「……サン・チルダ・ケイ・アイ・エル・エル、カナ打ちの『バカほど大きな夢を見る』……」
そう、桜井が呟いた瞬間だった。全ての明かりが消され、全てのコンピュータが起動する。コンピュータのスピーカーから大音量で流れ出すのは男の声。
『こんばんわ、皆さん。オレ様“true moon”こと、『月の災厄』。森下亜紗美! テメェの行動はぜ~んぶそこにいる桜井の隠しカメラで筒抜けだ! しかも、インターネットでオレ様が配信中』
「なっ――!」
亜紗美が動揺した所に、銃声が響いた。鉛球は綺麗な軌道でナイフに命中し、彼女からナイフを奪う。
ナイフを奪われた事で混乱した亜紗美は動けない。そこを狙って桜井は亜紗美の足をひっかけ、彼女を倒す。そこを押さえ込むと、桜井は不敵に笑った。
「ムーン、上出来です」
「ウチの不祥事だからな。感謝させてもらうのはオレの方だ」
ライターがテーブルに置かれる硬質な音が鳴る。
朦朧とする意識の中、絵梨の視界に一人の男が映った。タバコ独特の匂いを纏いながら、男は苦笑して部屋に入ってくる。
茶髪で男にしては長髪。ピアスや指輪、腕輪をジャラジャラとつけた男の顔には見覚えがある。社報でよく見る顔――自分の会社の親会社、その社長の息子で研究員・秋月真だ。
「さて、当然だが森下亜紗美、テメェはクビだ。サツに突き出さないでやるのはオレの温情だと思って、二度とこんな事をするな」
冷然と月の災厄が亜紗美に宣告する。秋月はタバコを床に落とすとその火を消した。
そして絵梨を出血を和らげるために動かして止血する。
すると、彼女は再びワラった。
「えり~、もうGame Overだよ、つまんないね~。私一人だけ不幸だ~、えりはズルイな~」
くつくつと彼女はワラう。
「えりは私より不幸でなくちゃ、それじゃなきゃつまんないよ~。ミナヅキのことダイスキなえりちゃんは~トモダチに取られても文句が言えない~」
「くだらないエゴですね」
無表情で桜井は亜紗美を見下ろす。それに亜紗美の顔が歪んだ。
「アンタに何がわかる!? 仕事では全部負ける、性格でさええりの方が良いと、あまつさえ私の前で言ってくるヤツに! 私の何がわかる!!」
そう叫ぶと、亜紗美は絵梨を見て優しく微笑んだ。絵梨はもう反応が出来ないほど衰弱していたが、その笑顔に嫌な予感を覚えて口を動かす。だが、声が出ない。
「えり~、私はえりよりも幸せになるんだ~」
言った瞬間だった。突然力を入れた亜紗美の力に、秋月の応援でわずかに気の緩んでいた桜井は手を離してしまった。そして亜紗美は手を伸ばす。
「マズイ、ムーン! ソイツを殺すな!」
桜井は叫んだが、時間は亜紗美に有利だった。彼女はそこにあるモノを口に含み、飲み込んだ。そして、絵梨に向かってワラった。
「バイバイ……」
亜紗美がのどをおさえて倒れる。そこで、絵梨の意識は途絶えた。
白い天井のある部屋で、絵梨は起きた。白で埋め尽くされた清潔感溢れる部屋と鼻につくアルコール臭でそこがどこだか見当がつく。そう、彼女は昨日脇の下の動脈を切られたのだ、当然病院にいてもおかしくない。地面の方向がギシギシと鳴るので、おそらくベッドの上だろう。
「お、起きたか」
マンガ本を読んでいた茶髪の青年が笑った。
「状況、わかるか? オレが誰かは?」
「秋月……社長の……?」
「正解。話に聞いてるようだから、『月の災厄』で呼んでくれても良い。下の名前は真、な?」
「は、はい、秋月さん」
「けが人が固まるな。そこまでかたくされるのは、オレとしても不本意だからな」
ぶっきらぼうだが優しく、秋月は絵梨を諭した。それに絵梨は苦笑する。
桜井は見た目が優しく、本心はとても優しいとはいえなかった。しかし、秋月は逆のようだ。
「お前これでも重症の一歩手前だったんだから一週間入院な。その間、仕事に関しては軽くするようオレが顔をきかせる。ノイローゼにならないように」
そう言って秋月はウィンクした。それに絵梨は苦笑する。
どうやら桜井から絵梨の事情は一通り聞いているらしい。
「それで、亜紗美は……」
気になっていたことを絵梨は口に出す。すると、言いづらそうに秋月は目をそらし、ゆっくりと口を開いた。
「大丈夫だ。体の方はな」
それに、絵梨は体から力が抜けるのを感じた。
「そうですか……良かった」
絵梨はほっと目を伏せる。
「夜桜があんまり慌てるんで焦っちまったがな。タバコの致死量は確かに大人ならニ本分なんだが、タバコ自体吸収しやすい物質じゃない。食ったとしても高確率で吐く」
言いながらポケットからミントでも入っていそうなケースを取り出し、秋月はその中身を鼻でかぐ。別に非合法のクスリをキめているわけではなく、嗅ぎタバコをやっているだけだ。
そのわかりやすいほどのニコチン中毒っぷりに、絵梨は目を丸める。病院に居ようとも我慢できないほどなのか。
「水に溶かしたタバコだったら吸収されやすいからヤバイんだがな。そのまま食ってくれたおかげで、活性炭で相殺するだけで済んだみたいだ。体はな」
再度そう付け加えられて、絵梨は苦く笑った。
「心が、良くないんですね」
「見たまんま。最悪みたいだな」
「治る物なんですか?」
「さて。オレも医者じゃねぇし。心の病は不治の病じゃねぇだろ」
「そうです……ね」
かすかな希望でも、生きているのならば繋がっている――そう思う事にして、絵梨はあまり動かない体で目礼をする。
「秋月さん、ありがとうございます。助けていただいて」
「やっぱり意識はあったか」
「よくは、見えてませんでしたが。声は途中まで聞こえてました」
「そうか」
「あの時、会社のセキュリティにハッキングして操作したのは秋月さんですよね」
「ああ」
「夜斗く――桜井さんがネットワークのセキュリティ設計したのに、どうしてハッキングできたんですか?」
「ああ、あれ? あれは桜井にメインのセキュリティプログラムのIDとパスワード教えてもらったからだよ」
その答えに絵梨は首を傾げる。楽しそうに秋月は笑いながら絵梨に目線を合わせた。こういうところで笑顔を見せるのは桜井に似ている。
「サン・チルダ・ケイ・アイ・エル・エル、ってね」
「あ!」
「3~kill、そして『バカほど大きな夢を見る』は『f@t-s@66gu8/0n.』。つまり、『3~kill』がIDで『f@t-s@66gu8/0n.』がパスワード。IDとパスワードさえ突破しちまえば、以降のセキュリティなんざザルだ。俺の作業場、あのビルの地下だからな。マイク使いながら移動しておしまい。やっぱり内部からしか侵入できなかったのが悔しいけどな……」
そう歯噛みする秋月。そこにきて、はたと絵梨はあることに気付いた。
「もしかして、桜井さんにセキュリティの仕事を依頼したのは……」
「ん、オレ」
そう言って得意げに秋月は自分を指差す。
「『オレが侵入できないぐらいのセキュリティ』を頼んだにゃ頼んだが……本当に侵入できんかった」
残念そうに秋月が話す。
「それで、桜井さんは……?」
絵梨がそう問い掛けると、秋月は言いづらそうに悩みながら、口を開いた。
「もう、この街にはいない」
絵梨が目を見開いて大きく口を開いた。大声で怒鳴りそうになるのを何とか押さえて、彼女は秋月を静かに見た。
「どう言う事ですか?」
「アイツは言わなかったか? 一所に長くいることはない、あと数日で別れる――って」
『そして貴方の前に現れるのも明日まで。それまでお互い協力しましょ、桐島先輩』
はたと、彼女は気付いた。
彼はあれほどまでにタイムリミットの事を口にしていたではないか。
「私、消されないの?」
「消す? アイツがそんな事するはずはないぞ。拳銃を持っちゃいるが、アイツは腕が良いから、絶対に脳天とか心臓は狙わない。一般人だったら銃を向ける事だって稀だぞ。気に入ってるヤツならなおさら――」
「は?」
『気に入っている』の部分で絵梨は口をあんぐりと開けて、首をかしげた。その反応に驚いたらしい秋月は、「へ?」と首をかしげた。
「自覚してないのか? アイツ、人を助けるなんて事はしないぞ。オレとの関係は“互いが互いを利用する共存関係”だから、時と場合によっちゃ助けてくれるどころかトドメさしにくる。それなのに、お前は倒れた所を助けられて、あまつさえヤツの部屋に運ばれたんだろう? アイツ、お前に自分のそう言う部分を知って欲しかったんじゃないか? かなり天邪鬼だからな」
絵梨は頭の中でこの四日間を思い出す。
――確かに、色々と恐ろしい経験をしてきたが、いざとなった時は助けるように結構動いてくれていた。何だかんだ言って、この数日は自分のパソコンのデータを破壊していたクラッカーをつきとめてくれた。
そして、絵梨は気付いた。桜井が亜紗美に銃を向けたとき、彼は亜紗美ではなくナイフを狙って撃っていた。狙いやすい胴体や頭などではなく、凶器だけを。
「嬢ちゃん……」
秋月はそう言って苦笑する。
それは絵梨の頬に伝ういくつもの涙のあとのせいだろう。
「桜井にはもう会えないが、伝言ぐらいしてやるぞ」
秋月がそう囁くと、絵梨は涙をふいて顔を上げた。そして秋月を見据える。
「いつか、一緒にお酒飲んでください――そう伝えてください」
病室を出た秋月は、扉を閉めてからニタニタと自分の左にある人影を見た。
「随分と気に入って、気に入られたみたいだなぁ?」
「大きなお世話だ」
不機嫌そうにそう返したのは眼鏡をかけたボサボサ頭。
「それに、“いつか、一緒にお酒飲んでください”だってよ。大丈夫か、ゲコ」
ケラケラと笑いながら秋月が桜井の前に歩く。それを追いつかせまいと桜井も玄関を目指して歩き始めた。
「大丈夫、仮にもう一度会う事になったとしても僕は下戸じゃないから」
そう平然と返されて、秋月は目を見開いて立ち止まる。
「……マジ?」
「酒飲むとコッチの性格が表面に出るから嫌いなだけだ。別に飲んだ瞬間に吐くとかはないし、一升ぐらいなら」
そう言って酒を飲むような仕草で桜井が返す。
二人の付き合いは大学入学からなので八年ぐらい。それまで見事に騙されつづけてきた事実に、秋月は――
「夜桜ぁっ!!」
叫んで追いかけようとした彼だが、あえなく看護婦などに注意を受けた。
もちろん、桜井は綺麗に難を逃れ、駐車場で秋月を待っている。
「また、いつか……ね」
そう言って彼は絵梨の病室に向かって見えない杯を手にした。
了
長かったでしょうに、読んでいただき、まことに有難うございます。
おかしい箇所等ございましたら、ご指摘下さい。
感想もお待ちしております。