有翼人(9月14日 渋谷 芽依) ④
みそ汁の匂い。いつもの、芽依の舌にはちょっと濃い、母の地元の赤味噌。それから、たんたん、とまな板を叩く音。葱を切っているようだ。
芽依がリビングに入っていくと、キッチンから「おはよう、」としずかな声が飛んでくる。目線は、やはりまな板に落としたまま。
母は、いつもこちらを見ない。
「おはよぉ」
あくびまじりに答えて、ソファに座る。それから、卵のことをいいかけて、ためらう。なんと伝えたものか。
うーん、とかるく唸って、とりあえずテレビを見る。朝のニュースで動物園が映っている。カピバラが、暑さで体調を悪くしたとか。
まだ頭がぼんやりしている。たぶん、寝起きのせいだ。
腹痛はすっかり治った。ぐるる、と小さく腸が動く。とりあえず立ち上がって、リビングを出る。卵は、テーブルのうえに置いておく。
ぱたん、と静かに戸をしめる。
*
10分して、トイレを出る。
ぎゅう、とのびをして、テーブルに目をやる。
何もない。
白いテーブルクロスの上に、ソースと醤油の瓶があるだけ。
「ねえ、」
ちらりと、母の背中をみる。とんたんとん、とまだ包丁を動かしている。まな板でひびく野菜の音は、さっきよりすこし硬い。
「……なあに、」 と返事。包丁はとまらない。
芽依は、ちょっと黙りこんで、それから、
「なんでもない、」
と首をふる。
流しのすみに、白にちょっとまだらのかかった、卵の殻のかけらが見えた。




