人魚族(9月8日 伊藤明日香) ⑩
「ア……ァ、」
水面下で、大きく、その生き物の体がうねるのが見えた。とぐろをまくように体をおりまげて、プール全体に大きくひろがって。
明日香は、へそより下をすっぽりと魚の口のなかに入れて、上半身を大きく乗り出すようにして、こちらを見ている。
両手を、こちらに向けて。
(……人魚、)
そんな言葉が浮かぶ。あまりにも場違いな。
裸の腹に、魚の小さな歯が喰いこんで、血がにじんでいるのが見えた。
「……だいじょうぶ。」
明日香は、はねるような高い声で、……しずかに言った。
「こわくないよ。……いっしょに泳がない?」
その言葉が聞こえたように、……魚は、ぐいと体を動かして、明日香をプールサイドに突き出すようにした。すぐ間近に、明日香の大きな目が。
白い肌が。
ぬるりと濡れた髪が。
塩素と、なまぐさい魚のにおいと、それから……
「たのしい、よ」
ぴとりと、明日香の濡れた指が、亮の右手にふれた。
そうして、
亮は、なにも考えられなくなった。
*
「……ねえねえ、聞いた?」
ぐい、と肘をおして、うわさをする。何しろビッグニュースだ。
「水泳部、活動中止だって」
いいながら、未希はちょっと眉をしかめる。いきおいで話しかけたが、この子、なんという名前だっただろうか。たしかに、同じクラスにいたはずだが。
「……どうして?」
赤い髪留めをした少女は、ちょっと低い声で聞き返してくる。ほんとうに誰だっただろう。喋ったことだって多分何回もあるはずだが。
「なんかね、よくわかんないけど。……いま、警察が来たみたい」
「なあにそれ」
少女は、きょとんと目を丸くして、ちいさく笑った。……それから、ため息。
廊下の窓から、遠くに見えるプールの、うっすら紅く染まった水面を眺めながら。
(人魚族 了)




