赤い糸(4月21日 山崎乃愛) ③
さて、夕べのこと。
乃愛が、風呂からあがって、ベッドの上で寝転がっていると、──窓枠の隙間から、つうっと赤い糸が伸びているのがみえた。
思わず、部屋のなかを見回す。誰もいない。自分ひとりだ。
自分の糸だった。
心臓が高鳴る。たしかに、左手の薬指、第一関節に、糸が結んである。思わず、右手でぎゅっと握ってみるが、感触がない。触れないのだ。たしかに、あの糸だった。
どうしていいか、わからなかった。いろいろなことを考える。自分の糸なら、たどるのは簡単だ。でも、どうして、今までなかったものが、突然。
たぶん、見えなかっただけで、糸はあったのだ。今までずっと。
すぐに家を抜け出そうかと思ったが、もう夜だ。それに、どうしていいかわからない。糸の相手が見つかったとして、……なんと言っていいのか。
眠れない。時計の針をじっと見て、明け方まで起きていた。
翌朝。ふわふわした気持ちで登校して、教室で糸をたしかめる。糸は、外まで伸びている。少なくとも、クラスメイトとつながっているわけではない。
悶々としながら、放課後を待つ。
上の空で剣道部の練習をおえ、大急ぎで着替える。一緒に帰ろうとする真優に、「ごめんね」といいおいて、早足で校門をくぐる。
ちらちらと左手を見ながら歩くのが恥ずかしくて、サブバッグから文庫本を出す。先週買った、映画のノベライズ。もちろん、頭には入らない。
下校する生徒にぶつかりそうになる。すれちがうたび、糸に目をおとす。つながっている相手はいない。
乃愛の糸は、学校とは反対側にむかって、するりと伸びている。
*
大きな交差点をふたつ抜けて、知らない道へ入っていく。
ちいさな生活道路、それから住宅街。きれいに区画整理された、新しい住宅地。こんなところが、学校の近くにあっただろうか。
人通りは、まったくない。
文庫本に目をおとすのをやめて、じっと左手をみる。糸は、このさきの曲がり角をぬけて、塀にひっかかるようにして伸びている。
歩く。心臓がどきどきする。
しぜん、足も速くなる。誰にも見られていないと思うと、何もかも振り捨てて走りだしたくなる。震えながら、早足で地面を蹴る。
右手の文庫本を、鞄にしまう。うまくいかない。ぐいぐい押し込む。乱暴にチャックをしめる。足は止まらない。息を切らしながら、
曲がり角のむこうへ。
「ほおら」
すぐ耳元で、だれかの声。
糸は、ぷっつりと切れて落ちていた。
目の前に、背の低い、乃愛とおなじ制服をきた少女が立っていた。毛量の多いボブカットに、あざやかな赤い髪留め。同じ色のスニーカー、それから黒いタイツ。少しきつめの、きゅっとした目を細めて。唇を、かすかにまげて。
右手に、工作ばさみ。
立ちつくしている乃愛に見せつけるように、かちかちとはさみを動かす。
同級生、だったような気もする。とっさに思い出せない。
もう一度、糸を見る。地面にぷっつりと垂れている。ばかな。こんなもので。
「……だーめ、気をつけないと。危ないじゃない」
少女は、しィっと右手の人差し指を唇にあてて、角のむこうを指した。
そこには、
巨大な蜘蛛が、びっしりと赤い糸で巣をはって待ちうけていた。
(赤い糸 了)




