異界児
小さな命を必死に守る。
しかし、世間は非情で他人のトラブルに対して無関心だ。
差別すら許されぬ綺麗事の多い世の中で、助けてくれるのは警察でもセーフネットでも先生でもない。
「それでね、あの女優さんの弟がやってたらしいよ」
「何を」
「末期不倫 !!」
流行りと一緒に、新しい言葉も開発される。
不倫ばかりの若手俳優が、さらに別の不倫報道があったらしく、下品な週刊誌や話題に飢えた知識人達が2人の会食の模様を取り上げ、その俳優の金で物を言わせた自堕落でセンセーショナルな私生活を、どこぞの”専門家”が『末期不倫』と名付けたのだった。
またいつもの時間の井戸端会議。
しかし世奈はいつしか“たくき君”の事でいっぱいだった。
「ねえ加奈子」
「うん」
加奈子が首を傾げる。
「あの“たくき”の事なんだけど・・」
「たくき??」
「ホラ、あったじゃない??帰りに居るって言う・・」
「ああーーーハイハイ!怖い話ね!」
「どうしたの??」
加奈子と世奈の会話に朋恵が入る。
「へっ??」
「何かあったの??」
朋恵が丸い目をして世奈を見つめる。
身近なゴシップに飢えた目。
もしも潤の話をしたら立ち所に他のママさんコミュニティーの格好の餌食になるだろう。
「う!ううん。なんでもない」
「あ、わかった!潤君ママも怖い話とかオカルトがすきなのね??」
「そうそう!あはははは!」
「じゃあ、それなら」
それから世奈はコンシェルジュAIが導き出した受け売りの怖い話を散々聞かされるハメになった。
───────
怖い話はネットで昔からある有名な物が多かったので、それなりに怖く。
朋恵のベストセレクションだけあって世奈の不安を倍増させた・・。
世奈はパート中も“たくき君”しか考えられなくなり、こどもが熱を出したと適当に理由をつけて早退する事にした。
「潤君ママさん!こんにちはーー!今日は早くいらっしゃったんですねー!」
「こんにちは!・・潤は!?」
「複担が見てますよ。呼んできますねー」
「あああっ。そうだ!先生!」
先生が複教員を呼ぼうとした時、世奈はエプロンを掴んで呼び止めた。
「へ??」
「先生、少しご相談なんですけど。“たくき君”ってご存知ですか??」
「たくき君?別の組の子ですかね??」
「潤はどこの組の子と仲良くしていたのです!?」
「あーー。えーーーっと。それは潤君が言っていた事ですので・・」
「見たこと無いんですか!?!?」
世奈の強い口調に他の子供達が驚いた顔をする。
少し反省をし、落ち着いた口調で言った。
「ご・・ごめんなさい。得体の知れない子と仲良くするのが怖くて・・」
先生は女神のように優しく微笑むと
「こちらも至らなくてすいません。すぐに調べますね」
と、返してくれた。
「でも、このくらいの歳の子はイマジナリーフレンドと言う架空の友達も創る事もあるのでご期待に添えるかどうか・・なんですけど」
「・・・そうなんですね・・」
「私達は子供たちの意見を尊重し、なるべく否定しないように勤めます。たとえ“たくき君”が架空の存在だとしても、子供が考え構築したものの否定はしないようにしています」
「・・そうですか」
世奈は少し考え、靴を脱いで教室に上がらせてもらうことにした。
教室を抜け、人気のない配膳室の前を通る。
正面のエントランスにつき、2階にのびる大きな吹き抜けと、夕陽の取り入れた丸いステンドグラス風の窓があった。
階段には同じ組の楓が座っており、侵入禁止の子ども用の柵が開いた僅かなスペースで、絵本を捲っている。
「楓ちゃん!こんにちは!」
「こんにちは」
「楓ママさんは??」
「あっち」
楓が教員室を指差す。
しかし不思議と人の気配はせず、廊下の前の水槽のポンプが一際うるさく空気を送っていた。
「潤はどこにいるかわかるかな??」
楓が顔をあげ、黒くて丸い目で私を見る。
「たくき君と一緒」
ゲェア!
カカカカカカカカカカ!!
カカカカカカカカカカ!!
「ひっ!」
私はハッと階段上の吹き抜けを見た。
そこにはカラスともつかない小さな黒い鳥が、ステンドグラスの透明な部分から此方を睨みながら暴れていた。
無機質で何を考えているか分からない目、そして今まで聞いたことのないような不細工な鳴き声が園内に響く。
夕陽に染まったオレンジ色の吹き抜けに何度も影ができ、狂ったように暴れる羽音が、まるで人が拍手をしているようだった。
ゲェア!
ゲェア!!
バサバサバサ!バサバサバサバサ!!
バサバサバサ!バサバサバサバサ!!
「はぁ・・・はぁ・・」
その異様な雰囲気と不気味な鳥に、世奈の脈は早くなる。
水道の前に『大きな口で歯磨き』の誇張された大きな口のポスターが何枚も貼られ、薄暗い廊下に続いている。
奥に教室があるので、そこで他の園児といるのだろうか・・。
ドアの窓にはカーテンがかけられ、中を窺い知ることはできない。
空気が不意に重くなり。
ツーーーーーンと重い耳鳴りがして立ちくらみがした。
その、どんよりとした空気と共に教室のドアに手をかける。
教室は昼寝の時のように薄暗く、カーテンが閉められて蒸し暑かった。
「潤!!」
潤は暗闇の中で机を出し、画用紙で絵を描いていた。
首に玉のような汗をかき、前髪が湿っている。
手に握られたクレヨンが指に纏わりつき、何か乱暴な円を画用紙に書き殴っている。
「潤君!かえろ!!」
潤は首を横にふり、一生懸命何かを描いている。
その間も教室内の暗闇がズシンと迫り、渡りで蠢くような確かな視線を感じる。
世奈は隅にしまわれた机の間から誰かが覗いていないか振り返った。
その重苦しい空気の先にある視線には明らかな悪意があり、まるで自分たちが見えていない事がわかっているようだった。
「じゅんくん!!かえろう!」
潤は不意に世奈を見る。
世奈はクレヨンを乱暴にしまうと書かれている名前に悲鳴をあげた。
『た く き』
ボリッ・・・ボリボリボリ・・・。
「ひっ・・!」
何かクッキーを食べる音が暗闇から聴こえる。
世奈は息を呑み。
瞳だけで後ろを見ようとする。
潤は世奈の後ろを見て笑顔になって指を指した。
「あー!たくき君!!みいつけた!」
「ち、ちょっと!!潤君ママさん!!」
「帰ります!!帰してください!!」
世奈は潤の手を引っ張って強引に連れて帰る。
「でも、潤君泣いているし!!!」
「あなたには関係ないじゃないですか!!」
「腕が!!!腕が折れちゃいますよ!!!」
「えっ!?」
世奈は我にかえり、潤を掴む手を見た。
その隙をついて先生が指をこじ開け、引き剥がす。
潤は後ろ手に掴まれ、世奈は強引に掴んで引っ張っていたようだ・・。
他の親達がヒソヒソと話をし、世奈は下を向く。
幼稚園の窓には
『困った時の育児ダイヤル』が貼られ。
世奈は何度か園内でヒステリーになる女性を見てきたのを思い出した。
『毒親』『ヒステリー女』『ネグレト予兆軍』『育児性PTSD』『子どもオトナ』
世奈はそう言った取り乱した親たちを何度か目の当たりにし、こうした名前でレッテル貼りして『よその子』として壁を作って隔離してきたのだ。
「…潤君ママさん。さっき園長先生に聞いたのですが『たくき君』と言う園児はいませんでした。他の先生にも聞いて見ますが…」
「…ありがとうございます…。先生?」
「はい??」
先生は不意に世奈を見る。
「もしも息子が“たくき君”と遊んでる。って言ったら…すぐさま遊ばせるのを中止させてください…」
「でも、まだ…」
「それが違う組であろうとも、異歳児であろうとも仲良くさせないで下さい!!!!お願いします!!」
世奈は先生から連絡帳を引ったくると、潤を引っ張って帰った。
───────
潤の手を引っ張り帰路につく。
あの幼稚園が狂っているのか、自分が狂っているのか分からない。
ただ、今はここを離れて家に帰らなくてはと言う使命感が世奈を突き動かしていた。
「ママ!!」
「歩きなさい」
「ママ!」
「黙って歩きなさい・・!」
「…たくき君」
「・・えっ!?」
近所のスーパーに辿り着いたあたりで潤に聞いた。
「たくき君がどうしたの??」
「・・・」
潤は口を閉じて目をそらす。
ああだめ。
何か言うと怒られると潤は思っている。
世奈は深呼吸すると座り込み、潤の手を握って優しく聞いた。
「たくき君がどうしたの潤??」
潤は口を抑えて首をふった。
これは以前、大輔が世奈に内緒でお菓子を買い与えた時にする行動だ。
明らかな嘘を隠す時に行う動きなのである。
ちがうちがう。
これではだめだ。
潤が口を閉ざしては本末転倒だ。
「潤君??たくきくんは何処にいるのかな??たくき君のママはいないの??ママ、たくき君のママと話がしたいなぁー」
「わかんない。たくき君…」
「うん?」
「───いっしょにかえりたいって────」
世奈は目を見開き、背筋が凍りつくのを感じた。
「────今、ついて来てるの?」
潤は頷く。
「───どこにいるの??」
潤が口を手で隠す。
ああ、ダメな聞き方だ。
口調が強いのだ。
質問を変えないと。質問を変えないと・・。
世奈は唇に人差し指をつけて必死に冷静になると、静かに質問した。
「たくき君はどこにいるのかな??ほら、スーパーにいるでしょ??潤がお菓子買ったら・・ねえ潤??」
「うんうん」
「ね?潤?たくき君にナイショ。パパに内緒でお菓子食べよ??」
「んーーーうーーー」
潤は頷くとも何ともし難い相槌を打つと、何度も“たくき君”が居るだろう場所に目配せした。
たくき君を蔑ろにしてお菓子を買いたくないらしい。
世奈はそれを聞くと何とも言えない気持ちになり、その横を呑気に街ゆく人達を見ると、無性に悲しい気持ちになった。
例え”たくき君”が邪悪な者であっても、直向きに思いやる心を育んでいた我が子を愛おしく感じ、その悲痛さを誰も共感できない事が悲しかった。
まるで楽しそうに遊んでいる海水浴客の中で1人だけ溺れているような、なんとも言えない恐怖と寂しさだ。
・・自分の気持ちとは正反対の、嫌に軽快なテンポの店内BGMが不愉快だ。
籠をとり自動ドアを開けると、やや強い冷房が太腿を撫でる店内に入った。
買い物する気は無いのだが、潤とお菓子の話をしてしまったので、とりあえず籠を手に取る。
同じく横から入ってきたお婆さんに悟られないように極めて自然体に成果コーナーを素通りした。
ピポーーッポ ピポッポ♪
ピポーーッポ ピポッポ♫
間抜けな購買意欲をそそる電子音。
そしてラジオに吹き込まれた店長の声がリピートされる。
『いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。米国産アンガス牛ビーシチュー用スネブロックが100グラム158円!国産コウバ鳥 手羽元 500グラム…』
世奈は牛肉のブロックを手に取ると籠に入れる。
その横で育児休暇を取得したらしい若い夫婦がベビーカーを押しながら会話をしていた。
「ねぇねぇ何買う??晩御飯何食べたい?」
「徳用ソーセージ」
「えー、冷蔵庫に入んないし!」
「でもすぐに食べちゃうっしょ??」
──お婆さん集団が乳製飲料の前で何が一番良いか討論をしている。
「生きて腸まで届くのがいいらしいわよ」
「でも飲むかしらねえ・・」
「お孫さん??」
「息子なんだけど・・」
そのような日常会話を聞いているうちに、世奈もいつしか平常心を取り戻し”買い物モード“にシフトして行く。
旦那は昼に、小さな弁当だけで足りているのだろうか?
F-89乳酸菌を買ってあげようか。
世奈は乳酸飲料を籠に入れ、ついでに牛乳もきれそうだなので籠に入れた。
潤が服の端を引っ張る。
「潤??もう少し待って」
購買意欲をそそる電子音。
海苔など乾物コーナーで女子高生くらいのアルバイトの女の子が商品に値札シールを貼り付けていた。
世奈は旦那の弁当に入れるソーセージを籠に入れ、お菓子コーナーの方に歩いてゆく潤を追いかけた。
足早になる世奈を制するように服の端を潤が引っ張った。
「────えっ!?」
横には誰もおらず、鳥肌が立つ。
今、端を引っ張ったのは一体…。
そう思った瞬間、冷房とは思えない重苦しい空気が乳製品コーナーを支配してゆくのを感じた。
先ほど話していた若い夫婦が消え、喧しいほど聴こえていた電子音やラジオの音が消える。
───突然の静寂の中に確かな重苦しい空気が迫る。
さっき井戸端会議をしていたお婆さん達に混ざりたい。
しかし、棚の端にいるはずのオバサン達を確認する事が出来ないくらい重い空気がすぐそこまで来ている・・。
「潤!!」
世奈は慌てて潤の元に駆け寄る。
潤はしゃがみ込んでお菓子を取ると、呑気に『きのこ』か『たけのこ』か選び始めた。
「潤!早く選んで!ね!」
「うーーーん」
重苦しい空気と共に、照明の問題とは言い難い不気味な暗黒が迫るのを感じる。
「早く選ぼう!!?」
「・・・・」
潤はお菓子を二つ手に取ると世奈を見る。
そして世奈の後ろの気配を察して笑顔になった。
「────あ!たくき───」
「いこ!!潤!!!」
世奈は買い物かごに2つのお菓子を投げ入れると、潤の手を引っ張って駆け出した。
早くレジに行かないと!!
早くレジに!!
『ただいま休止中』の看板の先に無人レジがある。
世奈は素早く決算すると、駆けるようにスーパーを出た
「食べていい?」
「ダメ!!家で食べなさい!!」
「ちょっと痛い!」
「我慢しなさい」
ガシャ!
そこで小さな路地を滑空するようにやってきた初老の男性の自転車にぶつかってしまった。
男性の服装は夏場なのに厚着で白髪頭のボサボサの髪を野球帽に詰め込んで、視線も定まらない。
その明後日の方向を向く瞳で世奈を睨みつけ、理不尽な程に捲し立てた。
「おい!!しっかり見てろよ!!」
「す、すいません!(早く帰りたいのに!)」
「おおあ!??なんだぁ?反省してねぇだろ!!」
世奈の一瞬の顔の歪みを察したのか、男性は呂律の回らない口調で言った。
世奈は今までの出来事と、誰にも相談できない苛立ちでヒステリックに叫ぶ。
「あなたこそ何なんですか!?あなたが自転車で影から出て来たんでしょ!?ふざけんなよ!!」
苛立ちから怒号に変わり、その気迫に男性がたじろぐ。
潤が泣き、世奈も泣きたい気分だ。
しかし、ここで泣いてしまっては、この男性の思う壺だ。
世の中は思いの外冷たく、助けてくれる人は皆無だ。
このような時、一番の武器は刃物などの凶器でも、軽犯罪に対して動かない警察官でもなかった。
「ホラ!子どもも泣いちゃってるじゃないですか!!どうしてくれるんですか!?!?撮影しますよ!?」
世奈はスマホを取り出すと、社会的な弱者に捲し立てる哀れな老人を撮影した。
撮影されている事に男性は驚き、籠にあったチラシで慌てて顔を隠す。
世奈の攻撃は続く。
「これ!証拠として警察に提出しますから!!SNSにも公開しますからね!!」
「おおう!やってみろよ!!おめえには負けねぇよ!!俺が警察を呼んでやる!!」
男性はガラパゴス携帯を開くと、操作をしないで黒い画面のまま耳に当てた。
”ハッタリ“だ!と察した世奈は誰にも止められない。
「ホラ!呼んで下さいよ!!ホラ!!呼ぶんでしょ!?パトカーに乗って連行されてくださいよ!」
ついに世奈の猛攻で心が折れたのか、携帯をしまって捨て台詞を吐くと自転車を走らせる。
「逃げるな!!クソジジイ!!!」
ハァ。
ハァ。
ハァ。
宅配便の男性がギョッとした顔をして、慌てて電子決済のモニターに視線を落とす。
世奈を追い抜く人。
ランニング中の男性。
過ぎ去る車。
空間が元に戻った気がする。
潤をみると『きのこ』と『たけのこ』を抱きしめたまま、泣き腫らした顔で遠くを見ていた。
「たくき君いる?」
潤は首を横に振り。
「帰った」
とポツリと言った。