とある男の物語
2013年頃に当時二つ折りケータイをポチポチしながら書いた作品です。
暫くPixivに掲載していました。
「ツギクル」様にも掲載しています。
ジムニー・ヴォルティスの楽しみは狩猟であった。
小さな会社に勤める彼には、それが唯一の楽しみであった。
妻のシーザは「動物を撃つなんて野蛮な行為」と、久しぶりの休日の度に猟銃片手に出掛ける夫を罵り、二人の子供たちは滅多に家にいることのない父親より、金切り声で毎日騒ぎ立てる母親の味方だった。彼らは自分の子供ではないのだろう。ジムニーにはそう思うことが幾度となくあった。
事実、その考えは間違っていない。
昔から仕事でなかなか家にいないうえ、狩猟というスポーツを愛好する夫に、妻はひどく愛想を尽かしていた。「愛されている」と感じない女のやることは大抵決まっている。
彼女にはビリーという親子ほども年が離れた若い恋人がいた。そして彼女は、信じられないことにその父、ハロルドとも関係を持っていた。彼はシーザの昔からの浮気相手であると同時にジムニーの昔からの同僚でもある。現在の彼らの立場は上司と部下になってしまったが。
おそらく、子供たちの父親は口角がよく上がる友人気取りのこの男だろう、とジムニーは考えていた。そうでなければ、吝嗇で有名なハロルドが気前よく誰かを持て成すはずがない。
二人は親友だから当然だ、とハロルドは笑顔だったが、その笑顔は完璧なほどに爽やかで、妙に胡散臭かった。
とにかくジムニーは、妻と子供たちと自称一番の親友を信用していなかった。
彼の真実は狩猟だけだった。
ひとつの影が声を掛けたのは、そんな男が麗らかな空気に誘われて地中から出てきた兎を、スコープ越しに狙っていたときだった。
「……いい銃だな」
突然、背後から話し掛けられたジムニーは驚いて引き金を引いてしまった。銃口から飛び出した弾は兎ではなく、雑草の根元に潜った。
「な、何だっていうんだっ!」
兎が逃げちまったじゃないか。
そう怒鳴るつもりで振り向いた男は、そのままで硬直した。
それは黒い影だった。
右手にはすらりと細長い銃を持ち、左手は腰に当てられていた。
ごく普通の男の影であったはずなのに、コートが風にはためいた時、ジムニーは悪魔だと思った。
不意に影が銃を構えた。男は恐怖を感じて、固く目を閉じる。
一発の銃声がした。
「なんだ、太陽に目が眩んだか」
ジムニーが目を見開くと、先程の影が一人の男になっていた。その銃口は遥か遠くに向けられていて、煙がうっすらと立ち上っていた。
「あんた、ジムニー・ヴォルティスだろ? 俺はあんたを知っている」
男は人好きのする笑みを浮かべ、手を差し出した。ジムニーはそれを無視した。
「ハンティングの時にいきなり声を掛けるのはマナー違反だぞ。それに、自ら名乗りもしないで、いきなり『あんたを知っている』と言うのもマナー違反だ」
教師のように早口でまくしたてたジムニーを、男は新しいおもちゃを見つけたように凝視した。ジムニーは顔をしかめた。彼にゲイの気はない。
「悪かったよ、Mr.ヴォルティス。俺はランディだ。ランディ・ハートン」
「アメリカンのしゃべり方じゃないな。イギリス人か?」
そこでやっとランディ・ハートンと名乗る男は目を丸くした。
「これでも隠しているつもりだったが、やはり分かったか! あんたはすごいよ、Mr.ヴォルティス」
ジムニーは自分の祖父がスコットランド人であったことをハートンに聞かせた。ジムニーの祖父とハートンの出身地は驚くほど近かった。
「まさかあんたの猟銃がお祖父さんのだったとはね」
道理で、とハートンは初めて少年のような笑みを浮かべた。
「俺があんたを知ってる理由は、その銃が珍しかったからだよ。独特の形が忘れられなかったんだ」
ようやくジムニーは破顔した。古びた銃を他人から褒められたのは初めてだったのだ。
この一件以来、二人はたびたび共に狩猟を楽しむようになる。
―――――
休日になるたびに彼らは二人で猟銃片手に出掛けた。時にジムニーはハートンを夕食に招いたりもした。ハロルドやビリーには食事に誘おうとも思いつかなかった彼だから、新しい友人への待遇は格別といえた。
シーザは最初こそ夫の狩猟仲間を歓迎しなかったが、今では次はいつ来るのかと夫に聞いている。ジムニーはハートンのことになると機嫌が良かったから、妻の思いを気にすることはなかった。
「君のワイフから聞いているよ。最近狩猟仲間と仲がいいんだってな」
ハロルドが親しげにやってきたことに、ジムニーは無性に吐き気がしてきた。
昨夜、シーザは美しく着飾り、ハイスクール時代の友人と夕食に行くと言っていた。そんな彼女の背中に、夫は一体夫婦生活を何年過ごしてきたんだと心の中で嫌味を言った。彼女の母校は彼女にとっては最悪なところで、病的に細い体躯のせいかそれとも性格の問題か、彼女には「学生時代の友人」と呼べるような人間がいない事実を彼は知っている。初夜のベッドに滑り込む前に本人から直接聞いたのだから、間違いないだろう。二人とも酔っていたが、何故かその話だけは覚えていた。
「君のワイフは、君の新しい友人をえらく気に入っていたよ?」
「あぁ、そのようだ。今じゃ『今度はいつ来るかしら。粗末なお持て成しは出来ないわ』なんて言ってるよ」
ハロルドは実に愉快そうに笑ったが、その目は無表情だ。それがジムニーには愉快だった。
笑い出しそうになったとき、スーツのポケットにある端末が自己主張をした。画面には最近登録したばかりの名前。
「悪いな、ハロルド。私の『大切な親友』からだ」
珍しく半日で退社したジムニーは、隣町の湖畔に近いレストランにいた。時々時間を気にしてみる。
それほど長い付き合いではないが、だからと言って短い付き合いでもない彼とこのような場所で待ち合わせるのは、思えば初めてだった。
「あ、」
今日も彼の黒いコートは風に煽られてカラスがはばたくように見える。遠くて顔が良く見えなくても、コートだけで誰だかすぐに分かった。
「すまない、待たせた」
「まったくだ、渋滞にでも付き合わされたのかい? それとも上司の無駄話?」
ジムニーは軽快なジョークを放って、はたと思った。彼は目の前の友人、ランディの仕事をよく知らない。探偵のような仕事だ、とは以前言っていた。
「ランディ、君はどこに行っても女性たちの注目の的だろう。うらやましいな」
どことなく貴族的で気品溢れる顔立ち。そう評したのはジムニーの妻だ。
言われてみれば、確かにランディ・ハートンを構成する全てのものがなんとも言えない風格を漂わせている。ジムニーはそれが好きだった。少し意地の悪い言葉の言い回しも、ウェイターを呼んでカフェを注文する姿も、何気ない会話の内容も。そして何より、狩りをしているときの腕前の確かさも。私生活や仕事は全く垣間見ることができないが、ジムニーはランディ・ハートンという男がとても気に入っていた。
「……また、我が家に食事に来ないか?」
「本当かい? 実は男の一人暮らしは食事が味気なくてね。そういってもらえると嬉しいよ」
「あぁ、もちろんだとも。君ならいつでも大歓迎だよ」
この男前に何故恋人ができないのかは以前からジムニーの疑問だったが、その男前が歯を見せて笑う姿に、小さな疑問はどこかに消えてしまった。
二人は食事をしながら次の猟場の相談と少々の雑談をしては笑った。シカ肉のステーキがことさら美味しく感じられた。
彼がやってくる日はいつも、シーザが美しい。
自分のいない間に彼から連絡があったなと気付いたが、ジムニーは自分の気を急降下させたくないがために何も聞かなかった。聞けば必ず、彼の妻はその背に羽が生えたように軽やかに家の中を舞いながら、電話の内容を語りだすだろう。彼女の口から愛すべき友人の名前が繰り返し発せられることにジムニーはいい気がしなかった。剰え彼の名が汚されていくような気さえした。
だから毎回、玄関のチャイムが鳴らされた瞬間、誰よりも早く駆けつけ、真っ先に彼の名を口にしなければならない。
「ランディ! 待っていたよ、我が友!」
やはりドアの前には、思った通りの人物がいた。ハートンは小さな箱と花束を持ち、髪を丁寧に撫で付け、まるでどこかのセレブのパーティーに招待されたようである。
「ジムニー、あんたと俺が出会ってそろそろ一年だ。簡単に祝いたいと思ってね」
あの日撃ちそびれた兎を思い出す。悪魔だ、と一瞬でも思ってしまった男と、今ではすっかり親友だ。
「もしや……その箱の中身はあの時の兎の代わり?」
「ハハッ、ならもう少し大きな箱に入れてこないとな」
結局、あの兎はジムニーの邪魔をした男が仕留めたのだ。もっとも、あの時はハートンに突然声を掛けられたことに苛立っていて、その腕の良さにまで気が回らなかったのだが。
家の静かさに、招かれた紳士は首をかしげた。
「……静かだな。まるでゴーストハウスだ」
「ははっ、そうだろう。子供たちは今日友達の家で泊まるんだとさ。散々夜更かしするだろうな」
それが外泊の特権だ、と父親は付け加えた。
ジムニーはハートンを家に招き入れ、今度の予定を語らいながらテーブルに案内した。シーザはそんな二人の会話を、なんて荒々しい内容なのなどと言いながらも、上機嫌に料理を振る舞った。並ぶメニューの半数が実はデリバリーなことなど気にならないくらいに二人の男の会話は弾む。
彼らは飲んで食べて談笑して。生真面目な壁掛け時計が日付が変わったことを告げるまで、小悪魔たちのいない愉快な晩餐はなかなか終わらなかった。
―――――
夏が終わろうとする頃の狩りは早朝が気持ちいい。程よい生暖かさが、ジムニーのお気に入りだ。今朝は珍しく単独行動だった。足元に気を付けながらジムニーは数十分前のことを思い出す。
彼が出掛けようとした時、また行くのと妻に声を掛けられた。それは今までにないことだった。
「午後には戻る」
そう、と答える女の声は寝起きのためか掠れていた。
「彼も一緒なの?」
「いや、仕事だそうだ」
「そう……」
痩せた女の顔にはあからさまに残念だと書いてある。それを無視しつつ猟銃を手にすると、気を付けて、と小さな声がその背中に届いた。
狩猟を忌み嫌うシーザに会わないよう早起きをしたのに、彼女も起きだして見送りまでしてくれた。今までにない行動にどんな意味があるのか。木々の間に獲物が居ないか探しながら、ジムニーは薄気味悪さを感じていた。
物思いに耽っていた男の耳に、獣が下草を揺らす音が聞こえ、木立の陰に何か見えた。素早く構えの態勢に移り、引き金を引こうとして、やめた。
「ふぅ……」
いつの間にか、彼は一人での狩りは楽しめなくなっていたらしい。弾丸を慎重に取り出すと帰り支度を始めた。綺麗に銃身を磨いてケースに入れる。
さて帰ろうと立ち上がろうとした時、背後に気配を感じた。
「……ジム」
振り向いたジムニーは驚いた。なぜ、その人物がそこにいるのか分からなかった。
「仕事が案外早く終わったから、立ち寄ってみた」
それはハートンだった。
ジムニーが、なぜ彼がここにいるのか理解するのに少し時間を必要とした。その様子を黒いコートがクスクスと笑う。笑われている恥ずかしさと友人に会えた嬉しさに、どういう顔をすればいいのか分からなくなって男は俯いた。
「こんなに驚くとは思わなかった!」
「そりゃ驚くさ! 今日は仕事だと言っていた男が目の前にいるんだから! ……ところでランディ、その手はどうした?」
よく見ればハートンの利き手が包帯で巻かれていた。
「早く帰れたのはこいつのせいだ。少々厄介なトラブルに巻き込まれてな、骨は折れていないが暫く安静にしろと言われた」
片手では不便だと大袈裟にうなだれる姿はその男にしては珍しく、ジムニーは友人の子供のような一面を目にした気分になった。そして、ならば食事は我が家で簡単につまめるものにしようと提案した彼は携帯電話で、妻の金切り声をなるべく聞かないようにしながら注文をつけた。
「きっとワイフが心配して悲鳴をあげるだろう。覚悟しておいてくれ」
「ならば目立たないようにする。……ちょうどいい、あんたに頼みがあるんだが聞いてくれるか?」
「私にできることなら何でも」
「俺の代筆をしてくれ」
「お安い御用さ」
「簡単につまめるものって、サンドウィッチでいいかしら?」
念入りに化粧をしたシーザは、たくさんのサンドウィッチを用意していた。中身は薄いハムとチーズとレタス、大量のトマトケチャップというアンバランスなものだったが、ジムニーは皿を受け取るとそのまま友人を自分の書斎に誘った。金切り声が、彼らを追いかける。
「ジム、ダイニングで食べないの?」
「書斎へコーヒーを人数分頼むよ」
ドアを閉めると、書斎の主は紙とペンを用意した。
「どんなことを書けばいいのかな?」
いつでもどうぞと用意する彼の手元から、ハートンは紙を引き抜くと手にした鞄から何か引き出した。
「紙は、これにしてくれ」
それは白いカードだった。裏には何か書いてある。それはジムニーにとって、ひどく懐かしい文字だった。
「なっ……!!」
直後、ジムニー・ヴォルティスの後頭部に衝撃が走った。
―――――
ジムニー・ヴィルティスの後頭部を直撃したのは、なんとハートンの負傷した利き手だった。ハートンは相手が気絶したのを確認すると素早く手の包帯を解いた。手には金属の手甲がはめられている。それも外すと、こともあろうに彼は素手で辺りを物色し始めた。指紋が付こうとお構いなし、といった態で彼は目的のものを探す。
それはすぐに見つかった。小さな可愛らしいオルゴールの蓋をあけて中を確認する。その瞬間、部屋のドアがノックされた。
「ジム、コーヒーが入ったわ」
シーザだった。ハートンはオルゴールをコートのポケットに滑り込ませると、銃を体に隠れるように隠し持ち、ドアを開けた。
「コーヒーを飲むのに、ミルクとシュガーは使うかしら?」
彼女は目の前の魅力的な男に、いっそワザとらしい微笑みを向けながら、実は手際の悪さを露呈する台詞を吐いた。
「シュガーを頼むよ。ジムは甘いコーヒーが好物だろう?」
彼女のものより、より魅力的な微笑みを浮かべながらハートンはコーヒーの乗ったトレイを片手で受け取った。シーザは一瞬その様に見とれたが、すぐに持ってくるわ、とキッチンへと緩やかに走った。その間にハートンはトレイをジムニーのデスクに置き、銃口に取り付けられた消音器の具合を確かめると、今度は黒い手袋を両手に装着した。
少しして、再びドアがノックされ、上機嫌な甲高い声が響いた。
「たっぷり持ってきたわ。たくさん入れて、甘くし……た、ゎ?」
再びドアが、今度は大きく開かれると小さな風船が破裂するような音がした。続いて、ハッとシーザの両目が大きく見開かれる。腹部に焼けた棒が突き刺されたと錯覚するほどの痛みに、彼女は呻いた。
「な、に……?」
痛みの正体を確かめようとした彼女の、それが最後の言葉だった。
黒い男は、静かに彼女を葬るとすぐにドアを閉める。彼にはまだやるべきことがあった。
ズキズキとした後頭部の鈍痛に、ジムニーは顔をしかめた。
「何が……」
手を痛む場所に当てながら男が起き上る。その手の甲に冷たい金属が触れた瞬間、彼の体は動きを止めた。
「……このオルゴールは」
俺のお袋の形見なんだ、と溜息混じりの声がジムニーの背後から聞こえてきた。情事後の甘い台詞を囁くような、ぞっとするほど色気がそれにはあった。
「……ら、ランディ?」
友人だと思っていた男のそんな声を、ジムニーは今まで知らなかった。こんな状況でなければ、男であっても聞き惚れていただろうそんな声音を、ジムニー・ヴォルティスは恐怖しながら聞いた。
「最初は、隙を見てこれを取り戻して、あんたの前から姿を眩ませるつもりだった」
ハートンは静かに語り始めた。
「珍しく俺と話の合う狩猟仲間だったよ、あんたは。俺がこんなに長く一所に留まることは少ない。それくらいあんたとの友情の真似事は楽しかった。
でも長く居過ぎた。しかも何とも間のいいことに、俺に仕事が舞い込んできた」
そしてその台詞を、黒い影は獲物の耳元で囁いた。
「ずっとあんたは俺に仕事は何だと聞かなかったな。もっと好奇心丸出しで俺に接してくれていても良かったんだぜ?」
そう、影は笑った。
冷たい汗が噴き出すのを感じながらジムニーは、音を立てて唾を飲みこむ。彼の頭の中では危険を知らせる赤信号が激しく点滅していたが、今更どうすることもできなかった。
「すまないと思っている、ジム。依頼がなければこんなことはしたくなかった」
その言葉に、恐怖で凍り付いていた男の体が反応した。
「ま、待ってくれっ! 依頼ってどういうことだ?」
あまりの恐ろしさに、目を固く閉じ震えながらもジムニーは率直すぎる質問をハートンにぶつけた。そして後悔した。プロフェッショナルがこんなことを教えてくれるはずがない。
しかしハートンはガタガタと体を震わせる男のその質問にふと笑みを零すと、あっさりと答えた。
「ハロルドさ。あんたのワイフを寝取った男だ」
そしてさらに付け加える。
「俺たちの友情に免じて、もう一つ質問に答えてやるよ」
「……さっきは『友情の真似事』と言っていたじゃないかっ!」
「聞かないのか?」
「……カードのサインは?」
銃を向けられている男は、ここでようやく薄らと瞼を持ち上げる気になった。
白いカードと、そこに書かれた文字も見える。伸びやかで流れるような文字には、いやというほど見覚えがあった。
「このサインは……私の祖父のものだ」
「いいや、違う」
「祖父のモノだ。じゃなかったら一体誰のだっていうんだ!」
暫しの沈黙は、考えていたよりも強烈な攻撃力を有していた。いっそ銃声の一つでもしてこの地獄を終わらせてくれないだろうか。ジムニーが投げやりな気持ちになりかけた頃、手に触れていた銃口が離れた。
「……そのサインを書いた男は、ろくでなしだったんだ」
やがて始まった昔話は、ジムニー・ヴォルティスが今まで聞いたことのない彼の祖父の……否、祖父だと思っていた男の物語だった。
―――――
その男は、ティーンズからギャングの手下となって銃の扱いを始めとした様々な悪事を叩き込まれ、社会の影を鼠のように駆けずり回り、何度も監獄に入れられた。人生の大部分を仕方のない生き方で染め上げた彼は、気付けば初老と言われる年齢になっていた。銃の扱いだけは人より上手かったものだから、年老いた彼には時々依頼が舞い込んだ。
白髪のジムニー。それが老人の通称だった。
白髪のジムニーはある時、依頼されて中流階級の家に忍び込んだ。
どういう経緯で標的にされたかは彼の知るところではないが、その家の夫妻、ティーンズの少女、ジュニアの少年にそれぞれ二発ずつ銃弾を撃ち込んだ。そして強盗に見えるように部屋を荒らし金目のものを適当に奪った。
さて逃げるかとした男の足を引き留めたのは、どうせ金目のものはないだろうと見逃していた部屋から聞こえてきた赤ん坊の泣き声だった。
何故、白髪のジムニーがその部屋に入ったのかは分からない。そして何故、ベビーベッドに転がる、双子にしては驚くほど似ていない二人の赤ん坊の泣いている方をあやし始めたのかも分からない。
ただ翌日発見された哀れな一家の中に、二人の赤ん坊が含まれていなかったらしい。
「つ……作り話だ、そんなの……」
そこまで聞いて、ジムニーは反論しようとしたが、ハートンはあっさりと抑えた。
「その金目のものとやらに、このオルゴールが含まれていた」
ハートンはポケットの中のオルゴールを軽く叩いた。唯一の家族の形見なのだ、と。
「待ってくれ。それならそれは違う」
「何故そう思う?」
「何故って、それは祖父から貰ったものだから……。もし、その話が本当なら、似てない双子って……」
男の疑問は、認められなかった。
「ジム、答えてやる疑問は二つだけだ。依頼人とカードのサインの二つだけ。いい子だからもう何も聞かないでくれ」
男はそう言って時計を見やった。そろそろティータイムの時間だ。
「長居したな、そろそろ子供たちが帰ってくるんじゃないか?」
「……分からない。でも、もしかしたら、そろそろ」
「どうする?」
ジムニーは、ハートンが何を言いたいのか理解できた瞬間、思わず後ろを振り返った。そこには、銃をこれ見よがしに弄ぶ一人の男が間違いなくいる。その男が先程と同じ言葉を口にすると、拘束された方は呻いた。
「私は、殺されるんだろう?」
「だろうな」
「……まさか子供までは殺さない、だろう?」
「さぁな」
「あの子たちはシーザを愛していたから…親のこんな姿を見たら、心の傷はどれほどだろう……。孤児院で暮らしていかなければならない……。でもそれは、可哀想だ」
「でもあんたは実の親じゃないだろう? ハロルドがいるじゃないか」
「あぁ、そうだな……。でも、」
ジムニーは泣き笑いのような表情を浮かべ、そして友人に言った。
「なぁランディ、君は私が納得しようがしまいが、私をやるんだろう? だったら、頼みがある。これでも父親だから、血の繋がりがないとはいえ多少は子供たちが愛しく感じられるんだ、こんな状況でなければそれを知ることは出来なかったけれど。だから、……せめて、あの子たちを苦しめないでくれ」
「それで?」
「私の全財産で、ハロルドは始末できるかい? 報酬が足りればいいんだけど」
「ならば白髪のジムニーの銃を。……それで十分だ」
再び消音機付きの銃口がジムニーの頭に宛がわれる。二人の視線は逸らされることはなかった。
―――――
ハロルドは自宅の玄関の前に立つ男を、怪訝な顔で見た。
「ビリーが、何か?」
その訪問客はハロルドの息子と知り合いというには今までとは雰囲気が少し異なっていた。ビリーの友人知人といえば、何も考えていない若者らしく騒がしいことが好きで、スクールにも行かずにクラブで遊ぶ、そんな人間ばかりだったが、目の前にいる人物は明らかに知的で大人の風情を醸している。だからハロルドは訝しんだ。
「今は出掛けていて、いつ帰るのかは分からないよ」
「いつ頃帰ってきますか?」
「さぁ……あいつは気紛れだから」
ハロルドが言うとおり、ビリーは遊びに出かけてしまうと何日も家に帰らない。親であろうと彼の携帯電話の番号は知らなかった。知らなくても特に不便は感じなかった。
「そうですか。……それならちょうどいい」
すると男はいきなりコートの陰から銃を取り出し、ハロルドに突き付ける。銃口が自分に向いている様に、家の主は訪問者が何者かを素早く悟った。無言で数歩下がって、家に招き入れる。
ハロルドにはこのような行為をされる覚えがなかった。少なくとも、そう思い込んでいた。まさか自分が何日もかけてインターネットで調べたメールが深く関わっているのだなどと考えもしなかった。
だからビリーを疑った。
「ビリーが何かしたのか?」
「ハロルド、残念だが俺はあんたと無駄話を交わす気になれない。親友のワイフと寝ておきながら親友だと言うだなんて、最低の親友だな」
その息子も息子だが……と薄らと嘲笑する男の言葉に、ハロルドは雷に撃たれた心地になった。誰にも知られていないはずの繊細な人間関係を何故見ず知らずの男が知っているのか、気味が悪かった。その感情の変化を見逃さなかった男はさらに述べる。
「仕事の依頼人に直接顔を見せるなんて、本当はしないぜ」
「なっ……!!」
ハロルドは数時間前のシーザのように、小さな破裂音を数回聞いた直後、わき腹と左足、そして肩に少し強めの衝撃と激しい痛みを感じて崩れ落ちるように倒れた。撃たれた個所からは脈動に合わせて血が噴き出している。彼の身体の周りに広がる池が大きくなるにつれ、彼は激しい悪寒を感じた。
「あんたの依頼がなければ、ジムは生きられたのに、な……」
「……お、お前は……」
眉間に風穴が開いたハロルドには、それ以上は何も言えなくなった。
今日だけで片手の指の本数ほどの人を殺めた男は、最後の仕上げにかかることにした。堂々と遺体の上を跨ぎ、家の階段で二階に上がる。廊下の中ほどにある扉を開けて、ベッドサイドのチェストの引き出しの中にオルゴールを隠した。そしてコートをベッドの上に投げ捨て、その下に着ていた黒いジャケットも脱ぎ、下に着ていた派手なシャツが目立つようにズボンから引き出し、さらに派手な赤毛のウィッグとサングラスも身に着けた。
それらの特徴は全て、その家の不良息子に当てはまっていた。
―――――
ビリーに変装したランディは足取り軽く階段を駆け下りると、床に転がるさっきまでは人間だった障害物を蹴り飛ばし、スキップするように外に飛び出した。
向かい側の道を歩く老夫婦の足取りが早まるのを横目に、彼はハロルドの車に乗り乗り込む。一時間ほど車を飛ばして向かった先は、ガラの悪い人間が集まる界隈だった。車から降りたランディは、わざと鍵を掛けずに車から離れた。男がかつてホテルだった古い建物に足を踏み入れるなり、背後でエンジン音と荒々しく走り去る車の音がした。
今にも穴が開きそうな古ぼけた階段を上り、かろうじて部屋番号が読み取れるドアの前に立つ。
中にはビリーがいた。
ソファの上でぐったりと横たわる彼の周りには小さな包み紙や注射器、生理食塩水の点滴パックが転がっている。声を出す気力もない青年の靴を脱がすと、先程までランディが身に着けていたそれを履かせた。息をするだけしか能力がないように見える青年の手元に、少し重いバッグを置いた。
「金を持ってきた」
その一言にようやくビリーが反応した。目立つ赤毛がゆっくりと金の入ったバックを確かめる。
「ヤクが買える?」
「あぁ、俺の言うことを聞いたら注射を打ってやるし、売人も呼んでやる」
「あぁ……なんでもするよ」
ビリーはへへへっと不気味な笑みを浮かべると、差し出された銃を手に取った。
「さぁビリー、そいつを頭に向けて銃の引き金を引け。お前の言う『なんでも』とやらをやってもらおうじゃないか」
言いながらランディは数歩、ソファから離れる。
正常な判断などできなくなっていた青年は、その通りにした。消音機の長さだけ扱いにくくなった銃をどうにかして顎の下に当てると、瞼を閉じて引き金を引いた。
静かな発砲音が、した。
―――――
かつてホテルだった古い建物の一室に、男がいた。
彼は床に転がる少し重いバッグの中から派手なデザインのシャツを取り出すと、投げ捨てた。他のものも同じように床にばらまく。僅かな食料も封を開けたり開けなかったりしながら床にばらまいた。
一通り部屋を散らかすと、今度は両腕の袖を捲りあげ、肘のあたりから薄いゴム手袋のようなカモフラージュスキンを外した。指先の指紋は全てビリーのものである。スキンの代わりに黒い手袋を着用すると男は部屋から出て、隣の部屋に入った。そこには彼の荷物が置いてある。スーツケースを開けると、黒いコートを取り出し、袖を通す。スキンはスーツケースに投げ入れた。
ジムニー・ヴォルティスが悪魔だと一瞬でも思ってしまった姿がそこにはいた。
一年以上「ランディ・ハートン」と名乗ってきた男は静かに荷物をまとめると、最後に細長い包みを手にした。ジムニーが愛用していた古い猟銃である。その表面を手袋越しに撫でながら男は自分を親友だと受け入れてくれた男の最後を思い出した。
最後までジムニー・ヴォルティスは親友だと思っていた男を思い出すことはなかった。気づいたかもしれないが、男は思い出してほしかったのだ。
ジムニーが今まで孤独だったように、男もまた孤独であった。
ジムニーが男に出会って強烈な親しみを覚えたように、男もまたジムニーと出会ってこのままずっと共に居たいと思った。
オルゴールなど親の形見でもなんでもなかった。単に口実になるだろうと即興で考えた嘘であった。本当の形見は、もっと別の形で存在していたのだ。
翌日、警察官が大挙してその古い建物にやってきた。
そこには派手な赤毛の青年だったものが一つ、散らかる部屋に置かれたソファの上に横たわっているくらいしか、目ぼしいものは見当たらなかった。
ジムニー・ヴォルティスの数少ない友人の中に、ランディ・ハートンという謎の人物のことも「噂ではそういう友人がいたらしい」という噂の領域を出ることができずに、捜査は痴情の縺れによる事件として容疑者死亡のまま事件を解決させることにした。
こうして、とある男の物語は終わった。