夜行性な旦那様は、もう夜行性ではありません(1)
王都の建国祭から戻ってきてしばらく。
一羽の雛鳥を見つけました。
初めに見つけたのは一緒に庭をお散歩中だったロペとルナ。
二頭が何やら一箇所ですんすん鼻を鳴らしているので何かなと思ってのぞいたら、産毛がようやく生えた雛鳥がころんと転がっていました。
大変です。ロペもルナも食事はきちんとしていますし庭の物を口に含むことはありませんが、彼らが遊ぶ感覚でも雛鳥にとっては生命の危機です。
慌てて雛鳥をすくい上げて頭上の樹を見上げましたが、ただでさえ小さい私では戻してあげることができませんでした。
仕方ないので邸に連れ帰り、どうにか助けたいとみんなで頭を寄せ合って考えました。
胸元に入れてお湯を詰めた皮袋で包んで、とにかく暖かくしてあげるとどうにかピィと鳴いてくれました。
餌は、虫ですよね知ってます。私は平気ですがメイドたちは顔を青くして悲鳴を上げていました。
でも私の胸の中にいますし、人肌だけでは足りないので皮袋を持ったままの私は自分でできません。庭師にあげてもらおうかと言ったら、「ウチの庭師を殺させる気ですか!」と怒られました。……誰にでしょう。
「本来はこれ旦那様の役目なんですけどいらっしゃいませんから!むむむむ虫くらい、奥様のお胸に手を入れられるご褒美に比べたら!!」
リサの言葉には首を傾げましたが、がんばってくれました。小さなミミズを選んであげると雛鳥は食べてくれました。
一昼夜で雛鳥はよく鳴くようになってくれて、これならお湯の近くで大丈夫とセサルさんに早々に取り上げられてしまいました。いえその後も丁寧に面倒みてくださってましたけど、連れて行く時に何だか不穏な空気でしたので…
野鳥に触れた私は隅々まで洗われて、ばしゃばしゃと消毒液をかけられて、着ていた服などは処分されました。お医者様もやってきて診てくださり、念のためにと色々お薬をくれました。
自分で責任が取れる以上のことに手を出すと、大きな損害になります。できる範囲を増やすためにいろいろな事を学びます。時には他の人の手も借りて。
そう弁えるべきなのに。私の手でなんとかしてあげたくて。
ロペとルナを連れてきた時もそうですが、私は、自分で思っているより我儘なんですね。
だけど雛鳥。人の手に触れた子は巣に返せないと言われてしまい。
ひとりでがんばって生きていくしかないなら、ちゃんと飛べるようになるまでは私が助けてあげたかったんです。王妃殿下が私を守ってくださったように。
飛べるようになったら庭に放しましょう。好きなところへ行けるように。
部屋の窓は開けておいて。
いつでも出て行けるように。
部屋のリネン類もすべて取り替えることになり、私はロペとルナと一緒に温室にいることになりました。
床に直接座るのははしたないとされますが、ソファにこの子たちを上げると掃除が大変なので私が床に座ります。毛足の長いラグとふかふかクッションを敷けば、寝台のように快適です。
黒毛のロペは私の膝に頭を乗せてくうくう寝息を立てています。栗毛のルナは背中をぴったりと私にくっつけてラグに寝そべります。
ロペは男の子ですが垂れ耳の愛らしい顔立ちで、大きな体に反してとっても甘えん坊です。
ルナは女の子で、立ち耳のキリッと凛々しい顔をしています。格好良く私の前を歩いてくれる立派な護衛ですが、くるんと巻いた尻尾が千切れそうなほど振ってくれるのが可愛いです。
温室へ来る前に旦那様の書庫からいくつか本をお借りしようとしたら、リサに止められてしまいました。
「奥様。本日の読書はこちら、こちらで決まりです」
「ええと?」
「恋愛小説の中でも、わたしいえメイド達が選び抜いたちょっと刺激的でも初心者向けだから安心してね!なコチラを」
「恋愛小説。読んだことがありません。今日は時間がありますのでクルスス理論の前後編を読めるかなって思って」
「てっ哲学書?!でしたっけ?!そんなものより今の奥様に大事なのは、恋愛指南書です!」
「れんあいしなんしょ…大事ですか?」
「大事です」
真顔でしたよリサ。
そういうわけでロペとルナに挟まれながら読み始めた恋愛小説は、なんと言いましょうか、甘いお菓子のようです。
リサが言うには、実際の貴族の慣習や身分などは気にせず物語としてお読みください!平民が夢見る優雅な暮らしなだけです!とのことでした。そうですね。お姫様が愛されて幸せになるためですから。
家のつながりだけだと思っていた王子様に、本当は愛されていて。甘い言葉を贈られて。けれど幼馴染だった騎士様の恋焦がれる気持ちを知って戸惑うお姫様。
身分違いは何の得にもなりませんね、と考えてはダメです。甘い言葉を堪能くださいとリサに言われています。恋愛指南書を読むのに指南されている私はダメな気もしますが…
優しくされて嬉しい気持ちになるのはわかります。
セサルさん、アーロンさん、リサにみんな、話をしているだけで楽しい気持ちになります。
だけどこんな。心臓をきゅっとしぼったような、狂おしい感情はわからないです。
男性の力は強くて少し怖くて、だから近くにいると緊張します。それはお姫様が感じたものと違うんだろうな、としかわかりません。
ああでも。
涙を流すほどの苦しさはわかりませんが、心地よい温かさは知っています。
旦那様の手は大きくて温かくて、とっても安心します。ずっと触れていたいです。
なのにこちらへ帰ってきてから、旦那様はぎゅっとしてくれません。
南東の区域で魔物が発生したと聞いたので、瘴気はすでに動物に取り憑いてしまったのでしょう。討伐で術式を使えばそれで魔力も消化できますしね。
触れてくださるのは、私が魔力循環できるから。
必要がなければ手をつなぐ必要もありません。当たり前なのに。
ぽすん、とラグに横たわると膝にいたロペが移動してお腹に乗りました。ちょっと重いです。ルナも移動して寝心地のいい場所を探しているようでした。
クッションを引き寄せたら眠気がやってきました。雛をつぶしてしまわないようにと、昨日からほとんど寝ていないのです。
温室の暖かさとロペとルナに挟まれた温かさで、私はいつの間にか眠ってしまったようです。
『エレナは、私の妻ですので。離縁などいたしません』
夢みたいな、旦那様の言葉。
目を開けると真っ黒で、夜になってしまったかと勘違いしましたが、それは旦那様の黒い髪と辺境軍の軍服でした。
「眠ければ、まだ寝ていていい。雛鳥を拾ったって?」
「はい。また勝手をいたしました……」
「私が不在の間は、君がこの邸の主人だ。好きにしなさい」
頭を撫でられています。
本当は起き上がってきちんと挨拶しなければいけないのに、大きな手が気持ちよくて、私は犬みたいに頭を擦りつけました。
ラグとクッションに散らばっている私の髪がピカピカしていないので、旦那様はご自身の魔力でちゃんと消化できているのに。
触れてくれる。嬉しい。
「……旦那様?」
「なんだ」
「私、旦那様の奥様ですか?」
「ああ」
「ここにいていいですか?」
「もちろんだ」
「もっと撫でて欲しいです…」
私の髪に絡まっていた手の甲に、自分の手を重ねて、もっととねだると大きな溜息が落ちてきました。
寝転がったまま見上げると、眉間にシワを寄せて難しそうな顔をした旦那様がいました。
「私の我慢がどれほどだと…」
「我慢ですか?」
仰向けにされた私の上に夜空が広がります。この光景を前にも見たような。
「私に何をされたか、忘れた?」
お腹にはロペがいたはずですが、今は旦那様が乗っています。ええと。これはあれです。眠る前まで読んでいた小説によると押し倒されている状況という。
ーーー…起きました!目が覚めました!
バニュエラス公の庭であった、その、あああああの事を思い出した私は一気に顔に熱が集まります。そのおかげで目が覚めました。
「忘れて、ません!申し訳ございません…っ!」
「怖がらせたいわけじゃない。君を大事にしたいんだ。嫌ならしない、けれど。……どこを撫でて欲しい?」
旦那様の声だけで蕩けてしまいそうなのに、そんな事を言われたら…いえ謝って、誠心誠意謝罪すればお許しくださるかも。
口を開こうとして、夜空を見上げたら金色の目。
さっきまで難しい顔をされていた旦那様が、薄く笑ってらして、どうしてか私は「食べられてしまう」と思って。
「じゃあ、全部だ。エレナ」
私は、その声だけで蕩けてしまいました。
「ライムンドお前いきなり消えるなーいるんだろー……」
呼吸の仕方を忘れていても耳はちゃんと音を拾うようで、アーロンさんの声が温室内によく聞こえました。人の気配を察したロペがわん!と吠えました。
「あー…………想像はしてたけど、奥様相手だと犯罪臭がすげえな」
「想像するな。燃やされたいか」
「あっつ! いちおう昼間だからな?!明るいからな?!さくっと消耗した分と追加分の装備確認と申請書の許可くれれば終わるから!そうしたらこんな所じゃなくて夜のベッドでゆっく熱っっ!」
息、息しましょう。蕩けて輪郭がなくなってしまった感覚だったので、自分の頬を叩いて確認しました。
大丈夫です。顔はありそうです。
重い息を私の横に落として旦那様が身を起こされたので、私はルナを呼んでぎゅーっとさせてもらいました。無邪気に喜んでくれてる子に、なんだかとっても罪悪感です。
「エレナ」
ルナの栗毛に顔を埋めたまま「はい」と返事をしました。
大変失礼なのは理解してますが、どうしても、どうしても今は顔をお見せできませんので。
「私は書斎にいるが、まだ眠るか?リサたちを呼んでくるか?」
そのままリサを呼んでくださいとお願いしました。淑女の所作も礼儀もまるで無視した子供のような私の態度を叱ることなく、旦那様は最後にぽんぽんと頭を撫でてくれました。
泣きそうです。
「耳が真っ赤だ。…私の奥さんは可愛いね」
……泣きそうです。
旦那様と入れ違いで来てくれたリサは、私を見るなり「いきなり実践しなくてもいいんですよおおぉぉ」と崩れ落ちそうになってました。実践してません、してませんよ。
お昼寝してしまったので乱れてしまった髪や服を整えてくれながら、恋愛小説の方はどうでしたかと聞かれましたが目が泳いでしまいました。
王子様の美しく飾られた言葉より、旦那様のお声の方が刺激的すぎて。内容がぽんと飛んでます。
「……これは。今夜こそ『奥様磨き隊』を招集?」
メイドたちの中に不思議な部隊が発足してます。ぶんぶん首を横に振っておきましたけど、髪を梳いてくれているリサには耳から首まで真っ赤になっているのが見えていたようです。
「かしこまりました奥様!わたしたちにお任せください!」
「違う。違うんです」
「いいえ今日です。今夜です。わたしだってこんな可愛らしい奥様を食べられちゃうなんて我慢なりませんが、旦那様はいちおう旦那様ですから。奥様との仲が良いのはとってもいいことです」
「食べ…っ」
食べられてしまう、と。先ほど感じたあの感覚を。
もう一度と言われるだけで羞恥で泣けますが、後継問題は国境に面したイングレイス領には大事な話です。何より旦那様がお望みなら従うのが私の役目です。
そこで何故か、すっと冷静になりました。
お望み、くださるでしょうか。
小さくて痩せぽっちで子供みたいな反応しかできない私を。
術師でありながら剣も扱い、星詠みの魔力を持つ旦那様は討伐でも先陣にいらっしゃるそうです。バニュエラス公爵閣下にほんの少し聞いた話では、辺境伯を継いだばかりの頃、小さくも隣国との争いがあった時にも最前線にいたと。
いくつも武勲を持ち、広い領地を治められる、立派な大人の方が。
私を女性として望まれるとは、思えません。
「奥様?」
「お昼寝してぼうっとしてしまって。……散歩してから戻りますね」
「はい。ではロペとルナは連れて行ってくださいね。私はセサルさんに相談してきます、旦那様のご予定聞きませんと」
お願いと口を動かしながら、胸の中では聞かないで欲しいと。そんな言葉が浮かびます。
温室から出て目的もなくとぼとぼ歩いていると、珍しくロペとルナが私の足元にまとわりつくように歩きます。いつもはルナが私の前を歩いて、ロペが隣を守ってくれるのに。
ふたりに心配されているようです。大丈夫だと言ってあげたいのに、できそうもありません。
ぼんやりとした、灰をかぶったようなくすんだ容姿がもっと華やかだったら殿下のご期待に沿えたのかもしれないと、考えたことはあります。けれど仕方ないと。諦めていたのに。
旦那様はここにいていいと言ってくださいました。でも、旦那様に後継をつくれるのは私ではない、他のもっとたおやかで美しい女性ではないかと。
考えれば考えるほど息苦しくなります。
私は美しくないばかりか、こんなに我儘で卑屈だったでしょうか。
離縁される期限があるならそれまではお役に立てるよう、がんばると決めた自分はどこに行ってしまったんでしょうか。
せめてそれくらいは取り戻さないと、本当に旦那様に合わせる顔がありません。
庭のどこかに落ちていないかと思った時に、私にくっついていたロペとルナが揃って前に出ました。
人の声ですが、大きくて、言い争っているように聞こえます。考えながら歩いていたのでいつの間にか正門近くにいました。
不意に飛びかかったりしないようふたりを抑えながら進むと、門衛二名が声をあげていて、それを庭師たちが遠目に伺っている様子でした。
「どうしたんですか?」
「え、あ、奥様?!」
「いえ大丈夫です!約束もないのに通せという輩が」
「領民からの用件は一度は私どもに伝えるようにと、取り決めているはずですが」
「はい理解しています。でもこれがオルテガ子爵家の者だと」
オルテガ子爵家?
あれ、と思い出そうとする隙もなく、もう一人の門衛が慌てた声を出しました。なんと、言い争っている間にその方がパタリと倒れてしまったようです。
「意識はありますか?中へ入れて構いませんので」
「しかし奥様」
「お一人なのでしょう?それで何ができるはずもありません。それより本当に体調不良であるなら手当てを惜しむ必要はありませんから。あの、旦那様に報告を」
庭師の一人が走ってくれるのを確認して、正門脇の通用口を開けます。意識のない人を運ぶのは大変で、倒れた原因もわからないようでは下手に動かせませんから。門の前にはロペとルナがキリッと立ってくれました。
仰向けの体勢で脇と膝裏を二人がかりで持ち上げられた方は、真っ白に近い顔色で血の気がなくピクリとも動かないので最悪の想像をしてしまいますが。
オルテガ子爵家、ああ、そう言っていたかもしれません。
「ホセ様!大丈夫ですか?!」
私が名前を呼んだことに門衛の二名はびっくりしたようですが、こんな、本当に死にそうな顔色ですので一刻を争います。
私は地面に膝をついて、ここへ下ろすように頼みました。一度は断った二人ですが急ぎたいとお願いすると渋々従ってくれました。後で旦那様には説明してくださいと懇願されましたが、ちゃんと説明しますよ大丈夫です。
私の大腿あたりに頭を乗せて、真っ白な顔色の頬を両手で包みます。寒い日に手を温めるように。
すると予想通り、午後の日差しの中でもはっきりわかるほど私の髪が光りました。旦那様に触れて、こんなに強く光ったことがあったかなと思うほど、ピカピカしています。
それくらい、瘴気を取り込んでしまったのでしょうか。
頬に触れて、熱を測るように額に触れると、少しは顔色が良くなった気がします。ぎゅーっとできたらいいんですけど、膝に頭を乗せてもらったので体勢的にできなそうです。
しばらく頬を温めていると、胡桃色の睫毛が動いて瞼が上がりました。
「ホセ様。気がつかれましたか?」
「あれ…?夢…?」
「夢じゃありません。しっかりしてください。怪我などされてませんか?」
瞳は琥珀色。ぼんやりと見上げられるので、大丈夫ですの意味を込めて笑ってみせると、なぜか琥珀の瞳が泣きそうに揺らぎました。
「ああ、それなら僕はやっぱり死んだのか……エレナ様似の天使がお迎えとか、真面目に生きてきた甲斐があった……」
「死んでませんよ。お気を確かに」
「エレナ様ぁ!!」
大きな声と一緒にがばっと抱きつかれて、後ろに倒れそうなのを何とか堪えました。私の胸で本当にわんわん泣いているのを見ると、どうしようか困りましたが突き放す気にはなれません。
小さな子にするように、よしよしと胡桃色の髪を撫でてあげました。
「生きている内に、エレナ様にちゃんとっ、謝りたかった、のとっ」
「落ち着いてください。生きてます」
「お伝えしたい、ことが…っ」
「ーーーーそれは私にも聞かせてもらえるんだろうな?」
旦那様は炎の術式が得意だそうですが、基本的に何でも唱えられるようです。
春から季節が移ろうこの時季に、地面が凍りました。物理的に。…地面に直接座っていた私はとても冷たかったです。
「これはどういう状況だ……?」
地を這う声と冷気に涙が引っ込んだらしいホセ様は、ひっと喉の奥で悲鳴をあげていました。でも、今離れたらかえって危ない気がしたので。
「あの、旦那様。燃やしたらダメです」
私は胡桃色の髪をぎゅっと抱き込みました。
後にアーロンさんが言うには、
「あの時のライムンドは最高に情けなくて爆笑したかったけど、さすがの俺も空気読んだ」
だそうです。笑う要素はどこにあったでしょうか。