離縁予定の奥様は、離縁予定ではありません(後)
「だいたい、兄上があんな騒ぎを起こさなければ、エレナは王太子妃候補のままだったわけで。でも僕が立太子したら求婚するって言ったのを、母上に聞かれたんだよね。それは僕の落ち度だけど、だけどさ、まさかその前に輿入れさせるとは思わないでしょう。そう、結婚歴があると正妃にはできないから。さすがに諦めようと思ったよ、一年ぶりに君を見て、ちゃんと笑ってたし。綺麗になったな、良かったなって、確かめに来たらーーーまさかだ。婚姻無効なら正妃として迎えられる。ねえ、エレナ。後二年くらい待つからさ、そうしたら僕のところへおいで」
目が、チカチカします。
近くにある可愛いピンクの花に焦点が合わず、エステバン殿下の翡翠の目に圧倒されて。
仰ってる言葉の意味は理解できます。だけど頭の中がぐるぐる空回りして考えがまとまりません。
王太子妃、候補?え、私が?
いいえ、そのつもりでいなさいと妃殿下に言われてきましたが。それは殿下にお仕えするつもりで、その意味だと思っていて、殿下は公務がお嫌いだから大変だなって。
あまりな思考なので、はっきりと「エステバン殿下の方が相応しいのに」と思ったことは。ない、とは言い切れません。
でも「王太子になる方」に嫁ぐという発想はありませんでした。
あのまま王城にいたら、エステバン殿下の正妃に?私がなっていた?
そして旦那様に離縁されたら、いいえ、婚姻無効が成立されたら王太子となった彼に嫁ぐ?
いかに無効が成立しようと口で言うほど容易くはありません。私は不貞の疑惑で城を離れた身ですし、経歴はそうとしても辺境伯夫人として先日の夜会にも正式に出席しています。
王太子の正妃に相応しいかと言われれば、否です。
けれどエステバン殿下の手腕で取り繕うことはできるのでしょう。そして、それだけの労力を私にしてくださるというのです。
ずっと力の入っていた私を笑わせようと、陽気で軽快な色をしていた翡翠の目が、とても真摯にそう言っていました。
初めていただいたこの可愛い花を、エステバン殿下の手からもう一度受け取ったら承諾になるのでしょうか。
私は、この身を引き受けてくださっている間に、旦那様のお役に立てればと。
離縁されたら今度こそ修道女になってひっそり暮らそうと。
考えていたんです。それがまさかの王太子妃です。
旦那様が、どんなお顔をされているのか、見れませんでした。
「エステバン殿下。今の私は、花を、受け取れません」
「そうだね。今はね」
「書類上であっても、今の私はイングレイス辺境伯夫人でございます。私の決定権は、…旦那様にあります」
「だそうだよ辺境伯。あなたの妻は大変従順だ。それはそうだ、あの兄上にも従ってけれど臆することなく進言して遠ざけられてもその距離から充分に補佐していた優秀な人材だ。僕としてはぜひ、そんな彼女を王室に迎えたい」
だから、証明してくれ。と。
何を、と明言しなかった殿下の言葉を受けて、旦那様は立ち上がりました。
驚いて見上げましたが、片手で顔をおおっていたので表情を見ることはできませんでした。エステバン殿下は背筋を伸ばして手に持った花をくるくる弄ぶようにして、眩しい美貌に笑顔を浮かべます。
「彼女ほど母上の期待通りに妃教育を終えた令嬢は他にいなくてね、その点が大いに関係しているのは認めるよ。僕は国に貢献できる人物でありたいと思っているから、善人でもないし。だけどそれだけだと思われるのは悲しいなあ。辺境伯が証明できるまで毎日花を贈ろうか」
「ーーー…頭を冷やしてくる」
声をかける隙もなく、旦那様はサロンから庭に出るためのガラス戸から出て行ってしまいました。早いです。背が高いから脚も長いんですね、本当にサッと素早く出て行かれました。
ここで、殿下と二人になるのは大変気まずいです。
それに旦那様のお顔が見れませんでした。見たいです。
何も言葉では示してくださらなかったので。
いえ、いいえ、わかっていますけど。白い結婚を証明するまでの期間だけだと、ライムンド様の妻でいられるのはそれまでだと、わかっています。
でも、それを言葉にしてくださらないと。
期待してしまいます。
それは、ダメです。
「ね。エレナ」
立ち上がって足を踏み出した私を、行先をピンクの花と腕がさえぎりました。
「また僕の冗談だと思われてる?」
「思っていません。王室の意思であれば断れるはずもありません。ですが、エステバン殿下個人のお言葉と受け取りましたので、……お返事はできません」
「エレナは真面目だなあ。さっきも言ったけど、僕は善人でもなんでもないからさ。わざと君たちを煽ろうとか思ってないよ、むしろ険悪になってこのまま清い関係を貫いて欲しいね」
「エステバン殿下は、以前から、今も優しいです」
本当に私を気にかけてくださったのだと思います。来ない方をぼーっと待っている私を、流されるまま辺境に向かった私を、心配してくださいました。
「心配かあ。うーん、エレナに伝えるのって難しいなあ」
庭に向かった私は殿下をサロンに残してしまいましたので、彼が何を思ったのかはわかりませんが。
公爵邸の庭は、正面に続く整えられた低木の観賞庭と、子どもは迷子になりそうな深い木立の庭があります。サロンから続くのは公爵邸の森の方です。
鳥たちが多く巣を作る庭は、お客様を案内することはほとんどないバニュエラス公爵閣下のお気に入りの場所。戦場の大砲に耳馴れたお方には、鳥のさえずりが遠く優しく聞こえるのが良いのだそうです。
王城の薔薇園にある四阿のような優美な造りではない、まるで雨除けの小屋のような場所で旦那様を見つけました。
二日酔いで唸っていた旦那様と私に閣下が教えてくださった場所。静かでこの森の一等地だと。
あてがなかったので、ここにいてくれて良かったです。
小屋と言っても壁はなく、造りは四阿です。切り出した幹の形のままの柱に屋根、木製のベンチ、そこで体を折るように腰掛けている旦那様を見つけて。
近づいて、あの、と声を掛けようとしたら。
「ーーー来るな」
低い声に拒まれて、私はぴたりと足を止めました。
四阿の軒先あたりで、私と旦那様の間には私が二人分くらいの距離があって。
その言葉に、声の低さに、冷たさに、全身の血が足元に落ちていく感覚に眩暈がして動けなくなりました。
でも、言わないと。
言ってお叱りを受けたらと思うとまた目の前が揺れますが。言わないと。
そう決めたのに、旦那様が深く落とした溜息にすくんでしまいました。
「……違う。言い方を間違えた。…すまない、まだ、冷静でないんだ。……だから来ないでくれ」
いいえ。いいえ。すくんで声の出なかった私は首を横に振りました。旦那様はこちらを見ていないのに。だから声を出さなければと、スカートの布をぎゅっと握りました。
「だ、旦那様。その、……申し訳ございません」
「何を謝る?君は何も悪くない、ただ私が不甲斐ないだけだ」
「いいえ。私、忘れていたんです」
イングレイス領の皆さんが、ヴァレンティン家の皆さんが、旦那様が、優しくしてくれて浮かれていたんです。
役立たずな魔力とか、容姿とか、私ではどうにもならないことは仕方ありません。でも与えられたものにはきちんとお返ししなければいけない、当たり前のことを忘れそうになっていました。
お役に立てていると自惚れていました。
私は、
「私は、今はライムンド様のものでございます。今まで差し出がましい真似を申し訳ございませんでした。ご指示に、従いますので。どうかお許しくださいませんでしょうか」
従順であるようにと、あれほど言われてきたのに。
後二年あるとか、来年の建国祭とか、それは私が決めることではありません。なのにまるで、旦那様が、ずっと手をつないで下さるような気になっていました。
ああ、商談ばかりしていて、受け入れてくれる修道院を探すのも怠っていました。
今すぐ離縁だと言われたら王都から近い場所になるでしょうか、でもこの近くは孤児院を兼ねている場所も多くて受け入れてくれる余裕のある所は。
「エレナ」
下げていた頭のつむじに声がぶつけられました。
強くはないけれど、怖くはないけれど、ぶつけられたと感じたのは。あの夜会で殿下に投げつけられた感情に、似ていたからでしょうか。
「旦那さ、」
顔を上げて良いかわからないまま、何かに強く引っ張られて、気づけば四阿のベンチに座る格好になっていました。
見上げると、真っ黒な夜に金色の星。
旦那様の広い肩から伸びた腕が私を囲うようにベンチの背もたれに置かれ、周囲の景色をさえぎって覆い被さり、金目だけが煌々とこちらを覗き込んでいました。
ちっぽけな私は、この夜に飲み込まれそうです。
「君は私の妻だったね?」
「はい。旦那様のものです」
「第二王子の噂はまったく聞かないから油断していた、まさか本当に厄介な伏兵だったとはな」
「ご不快にさせたのなら謝罪いたします」
「君は彼の妃として、いずれ王妃になる者としてありたいか?」
「旦那様の、ご指示の通りに」
「そうか。……君は、あの馬鹿王子の奔放っぷりを見てきただろう?」
そこでどうして殿下の話なのか、と考えていたら夜の帳が降りてきました。旦那様のお顔が、近づいて、鼻先が触れるんじゃないかと思って反射的にうつむいてしまいました。
「男はとても即物的なんだよ。エレナ」
名前を呼ばれて、ぞくぞくしました。背中が落ち着きません。
だって息がこんな近くに。
声が。
耳の中に直接流し込まれるみたいで。
「君が、『私の妻』になるなら、手放さなくていいと。そう短絡的に考える」
旦那様の仰る意味が、わからないとは言いません。実技こそありませんでしたが、簡単な閨教育は受けました。王家にとって後継問題は重要事項です。
ライムンド様の妻になる、白い結婚ではなくなる、そうすれば私に王太子妃の資格はなくなります。
旦那様が何をお考えなのか正しくはわかりませんが、私がエステバン殿下に嫁ぐ可能性もお嫌だというなら、それに従うのが私の役目です。
「旦那様が、お望みであれば」
ただここで、今、と言われてしまうとそれは。……無理な気がします。身体の支度どころか、心の準備なんてこれっぽっちもできていません。
旦那様の声が耳に触れるだけで、こんな、全身が心臓になったみたいなのに。
本当の心臓は馬で駈歩をした時の衝撃のようにどっどっと脈打って、飛び跳ねて口から出ていきそうです。顔なんて火が出そうです。
そこに、少し冷えた旦那様の黒髪が触れて、腰がぞくっと震えました。
「男にそんな事を言うものじゃない」
「ひゃ…」
声が近いなんてものじゃありません。さわさわ触れるのは、く、唇ですか?ゆっくりとした言葉と同じ動きで耳に触れて、くすぐったいのに、じんと痺れて。
どう、どうしましょうと慌てていたら食べられてしまいました。
ぱくりと。耳を。
「…………っ」
「真っ赤だ。熱い。可愛い、エレナ、…かわいい」
熱いのは、旦那様の声です。唇も、口の中も、いつもの安心する温かさよりずっとずっと熱くて、火傷しそう。
「…ぅん」
首筋を食べられて、変な声が出て、ああ辺境の吸血鬼の話って思ったところで。
限界でした。
ベンチに腰掛けているにもかかわらず、へにゃんと全身の力が抜けました。
「ライムンド様…」
体のどこもかしこもまったく力が入りません、ベンチからも落ちてしまいそうだったので思わず旦那様に助けを求めてしまいました。
なのにその指にも力が入っていなくて、掴めなくて、混乱していた私は旦那様を見上げるしかありません。
火が出そうに熱い私と、同じだけ熱くて蕩けそうな金色の目が、殿下にぶつけられた時とは違って全然痛くないなと思っていたら。
旦那様は、ぎゅううっと眉間にシワを寄せました。
そして直後に、私のすぐ横でごん!と乾いた大きな音がしました。
旦那様がベンチの背もたれに額をぶつけた音です。唐突だったのでとても驚いてしまいました。
以前は眠くてまっすぐ歩いていられない旦那様が、壁や扉にぶつかったり行き倒れるように床に倒れたりしていたので、時々聞いていた音ではありますが。
今のは、ご自身で思いっきりぶつけましたよね?
「かっ…!わいすぎだろうまずいだろう涙目か上目遣いか落ち着けそうじゃないそうじゃないんだ大事にするとあれだけ決めただろう可愛いかクソなんだこの可愛さであの声は!いろいろマズイ!落ち着け一回り以上年下の子供に悋気など大人気ないだがエレナも同い年か可愛い大事にするがかわいい…!」
何か、何かをとても早口で唱えていらっしゃったので内容は聞き取れませんでしたが。
大丈夫でしょうか…?
ややして、ばっと顔を上げた旦那様に思わずびくっと肩を震わせてしまいました。あ、額がやっぱり赤くなってます。
私の様子を、力が入らなくて生まれたての子鹿みたいにふるふるしている私を見た旦那様は、とても辛そうな顔をされました。
怖いとか嫌だったとかではなくて、恥ずかしくて与えられた感覚が衝撃的すぎて許容を超えてしまったわけですが。
嫌だった、わけじゃないのです。
自分でそう思ったらまた顔が熱くなってしまって、旦那様はますます落ち込んでしまいました。
「……すまない」
「い、いえ……」
「とりあえず戻ろう。頭に血がのぼっていたとはいえ、殿下を残して席を外してしまった」
「はい。そうですね」
いつもなら手を貸してくださる旦那様は、私に触れないようにしているみたいでした。今までだって手をつないで、抱きしめられたこともあったのに、まるで、それらとは意味が違うと言われてるようです。
……ますます恥ずかしいです。もう本当に顔から火が出てもおかしくありません。
でも、どうしましょう。
「……立てるか?」
「…………立てません」
旦那様がとても困っています。ここまで追いかけてきて、困らせています。
情けないやら恥ずかしいやらで目頭がじわっと熱くなります、ダメです、泣きそうですがそれではますます旦那様を困らせてしまいます。
「嫌だろうが、少し我慢してくれ」
言葉のすぐ後で、役立たずだった私の体がふわっと浮き上がりました。
旦那様に持ち上げられました。横抱きです。王城の術者の方はひょろっとした研究者肌の方が多かったですが、さすが旦那様、私なんか軽々です。
というか、ここへきて密着です…!
旦那様の腕が私の背中と脚を支えていて、胸にくっついて、一息に近づいたお顔が、黒髪のかかった耳が目の前にあってさっき私はこれを食べられてしまったのだと思い出してしまい。
はい。顔から火が出ました。
旦那様、右の耳にホクロあるんですねって。見てないです。見てないですよ。
「ーー……ナニコレ。僕は何を見せられてるの?」
呆れ返ったエステバン殿下の声に返す言葉もありません。旦那様は私を抱えたままサロンに戻りました。客間に連れ帰って欲しかったです……
「気になさらず」
「気になるよ」
「わ、私が立てなくて……」
「なぁに、エレナは立てなくなるようなコトされたの?」
「…………」
「無言は肯定!ちょ、辺境伯ひどいな!僕の求婚をすぐさまなかったことにしないでくれる?!」
「そんな無体はしていない、が、求婚はぜひなかったことにしてもらいましょう」
「え、嫌だね。エレナ、エレナがちゃんと自分で考えて楽しくて笑ってるならいいよ。僕だってそれならいいんだ。でも今はなかったことにしないで、忘れないでね。ヴァレンティン家に花は贈るから」
「殿下はお忙しいようだ。皆、見送りを」
「大人気ないなこの親戚のおじさん……」
「何とでも。それと、殿下も忘れないで頂きたい」
エレナは、私の妻ですので。
離縁などいたしません。
お肌もちもちオレンジ風味のエレナちゃん相手に
ライムンド(30)も耐えた方だと思います