離縁予定の奥様が、夜行性旦那様に嫁いだ理由(後)
そしてエレナちゃんがんばる
王城の大広間で催される建国祭の夜会は、国王陛下も出席なさるそれは煌びやかで美しいものです。
16歳で成人するまでは夜会に出席できませんので、この時間の催しに招待客として正式に参加するのは初めてです。
それが、旦那様のとなりで。
イングレイス辺境伯夫人として。
手をつないで入場するなんて思ってもいませんでした。
旦那様の手は大きくて、あったかくて、とても安心します。
しますけど。
「……あの、旦那様?」
「ん?」
「ここへ来る前に『食事』されました……?」
旦那様はにこりと笑っていつものように指をきゅっきゅと握ってくれましたが、されましたよね、だって私の髪がピカピカ光ってますからね。こ、これから入場なのに、恥ずかしい……
「喰ったというか、王城なんて場所は瘴気溜まりみたいなものだからな。ここにいるだけで取り込んでしまうが、そんなのは自分の魔力で消化できる範囲だ」
だけど私と手をつないでいるので、私が勝手に吸って勝手にピカピカしてることになります。ますます恥ずかしい……
でも、この手を離すことはできなくて。
旦那様がエスコートもできない方だと思われてしまいます。そうです。紳士に恥をかかせてはいけません。
「エレナ」
背の高い旦那様が、わざわざ腰を折って顔を近づけてくれたのでとっても近い位置で声が響きました。低くて、落ち着いていて、つないだ手と同じだけ温かい声なのに背中がぞくぞくしました。どうしてでしょう。
「会場内はシャンデリアも皆が身につけている宝飾品もギラギラしているから、誰も気にしない。ただ君が輝いて見えるだけだ。それに君の髪が光っていて、それで循環の魔力のせいだなんてわかりはしない」
言い聞かせるような優しい声と言葉は、私を気遣ってくださるのがわかります。
旦那様は、優しいです。押しつけられた亡霊にとても良くしてくださいます。
ヴァレンティン家で働く皆さんも優しくて、砦の兵士さんたちも領民の皆さんも私を見つけると笑顔で挨拶をしてくれます。
「ぜひ、卿から紹介してくれ」
「御意に」
与えられた分は充分に貢献するようにと、教えられてきました。
だから、がんばらないと、そう思っていましたが。
「ーーー私の妻、エレナにございます」
旦那様の言葉が、とても、嬉しいのです。
白い結婚を証明する期限まであと二年もありませんが、今そう呼ばれるのは私なのです。旦那様にしっかりお仕えして、商談もまとめて、それからイングレイス領の人たちを蛮族なんて呼ぶ人にちゃんと言ってあげないといけませんね。
よし。私がんばりますよ。
「辺境伯夫人。いいえ、……エレナ」
陛下へのご挨拶の後で、なんと王妃殿下がこちらまで下りてきてくださいました。
手に触れてくださり、華やかでお美しいご尊顔でたおやかに微笑まれました。女性の私でもくらくらしそうな艶やかさです。
事実上の妃教育を受ける中で、直接お話しする機会はありました。いつでもお美しい方でしたが、今のように悩殺してくるような勢いはなかったはずです。
がんばりますと思った矢先ですが、舞い上がってさっそく挫けそうです。
「結局はあなたに辛い思いをさせただけになりました、申し訳なく思っています」
「そんな、妃殿下。私はたくさんのことを教えて頂きました、感謝しております、どうかそのような事は仰いませんよう」
「愚息の行いは陛下にも度々申し上げましたが、あの方は、若くして王の座についた重責を負ってきました。せめて子供達にはと甘やかしていたのは事実です。ええ、それでもエステバンは真っ当に育ったのだから資質と言ってしまえばそれまですが…」
「お気に病むことはございません。妃殿下はいつも、そして最後にも良くしてくださいました」
そう言うと、妃殿下は「まあ」と小さく微笑まれました。先ほどの圧倒するような笑い方ではなく。
なので思わず旦那様を見てしまいました。
心配そうなお顔をしています、こういう時の旦那様は、ロペとルナが鼻を押しつけてくる時に似ています。
「教えて頂いたことで、ライムンド様のお役に立てています。私の方こそ感謝を。妃殿下、本当にありがとうございました」
「エレナ。いつも素直で可愛らしい子でしたが、……美しくなりましたね。よかったわ」
これほどの美貌をお持ちの方に世辞を送られるのは、さすがに照れます。ぼんやりした亡霊も旦那様のおかげでピカピカしてますし、リサたちのおかげで綺麗にしてもらいましたから。
旦那様に、教えてくださった妃殿下に、恥じない礼ができたと思います。
王妃殿下は、マッサーナ家の出身です。
王城にいる時は知りませんでしたが、旦那様のお父様、先代辺境伯は当時マッサーナ家の三男だったそうです。公爵位をお持ちの家柄とはいえ、三男だからと本当に訓練兵から入り国軍に身を置いてらっしゃいました。
妃殿下は現マッサーナ家当主の娘で、そのご当主は先代辺境伯のお兄様です。
つまり妃殿下と旦那様は従姉弟なんですね。
そうすると殿下は旦那様の従甥になるのですが、なんだか不思議な感じです。
熊のように大きなバニュエラス公爵閣下にも、初めてお会いしました。
国軍の要職にある方で王城にいても関わりはありませんでしたが、この方も旦那様のお父様と親しくされていたそうです。知りませんでした。
旦那様が辺境伯を継いだ十年前は、私はまだモンテス家でぼーっと過ごしていたので、色々世間知らずなのです。
そして私は、旦那様のことをあまり知りません。
お優しい方だな、声が低くて気持ちいいな、手が温かいなと知っていますが。
幼い頃にどんな少年だったのか、星詠みの魔力のせいでどんなお気持ちで過ごされていたのか、突然お父様を亡くされてどんなに大変だったか。
イングレイス領の皆さんはきっと旦那様を支えてくれたでしょう、それでも、本来なら一緒に悩んでお傍にいるべき奥様をいらないと。旦那様は仰いました。
ひとりでいいって。
言われたようです。実際そうなのかもしれません。
私のように呑気な人ばかりではないでしょう、今日のようにひどい言葉を投げる方も多くいるでしょう、それは悲しいことだなと思いました。
いつか、お傍にいても旦那様が安らげるような方が、ヴァレンティン家に来てくれたらいいです。
いつか。そんな方が。
(私ではない誰かが)
旦那様に優しく呼ばれて、おとなりに腰掛けて、穏やかに笑う日が。
(今は、……今はまだ、私が「奥様」なのだから)
ダメです。しっかりしないと。こんなたくさんの人がいる場所で旦那様にご迷惑はかけられません。
これでもマナーや所作は妃殿下にも褒められたことがあります、素敵な旦那様をもっと素敵に引き立てるのが夫人の務めです。うん、大丈夫です。
「ーーーエレナ!」
その方に、名前を呼ばれたのはいつ以来でしょうか。
最後にお会いしたのは一年と、その前からお顔を見ていませんね。どれくらいでしょうか。先ほどの挨拶の時は不敬になるのでお姿をしっかり拝見していませんでした。
殿下は大股でつかつかやって来て、立ち止まる前に、礼をして頭を伏せる前に。
私の顔をつかみました。
それはもうすごい力で、顎が砕けるんじゃないか頬に爪が食い込むんじゃないかと思いました。
「は、エレナ?本当に?……これはまた、近くで見るといっそう美しいな」
感じたのは、恐怖ではなく「痛い」ということ。
力は強いです、顎というか変な噛み合わせになった歯が痛いです、けれどそうではなく。
他人から向けられる感情が、突き刺さるように痛かったのです。
モンテス家の亡霊、薄気味悪い、役立たず、色々な言葉はそれでも遠くからまとわりつくようなものでした。私が気にしなければ、笑い声に耳をふさげば大丈夫だったものが。
直接、とても強く投げつけられて、「痛い」と感じました。
「なるほど辺境伯にだいぶ可愛がってもらったようだ。男に媚びて事を得る性根は変わらないようだが、これなら納得もいく。それに結婚歴があるのもいい。喜べよ、俺が正妃を迎えたらお前を妾に、…っつ!」
殿下が房事に奔放なのは知っています、なぜか私もそうだと思ってらっしゃるのも感じていました、ただこの場で。旦那様の前で。さらに旦那様まで辱めるような言葉を受けるのは。
痛くて。……痛くて。
はち切れそうだと思っていたら、言葉の途中で殿下の手が離れました。
熱い鉄鍋に触れてしまったように、慌てた様子で私をつかんでいた手を引きました。その手の甲は、不自然なほど丸い形で火傷を負っていました。
「エレナ」
名前を呼ばれました。低くて落ち着いていて、安心する、ライムンド様の声です。
「聞かなくていい」
背中から回された腕がお腹を引き寄せてくれたので、私は背の高い旦那様にすっぽりおさまってしまいました。これならもう、胸がはち切れたりしません。
「熱…っ!何だこれは、お前の仕業か?!」
「さあ。術を発動する魔力は感じましたか?私はさっぱり感じませんでしたが」
「第一王子である俺に傷をつけたな?やはり辺境の蛮族は正気ではないようだ。そこにいたらすぐに喰われるぞ、エレナ、俺が可愛がってやるからこっちへ来い」
旦那様は炎の術式が得意と聞きましたが、今、とっても背中が寒いです。一瞬でしたが氷の上に寝転がったのかと思いました。
旦那様、……もしかして怒ってますか?
えっとアーロンさんは辺境軍のこと、セサルさんは邸のことをお任せしてきてるので、王都には旦那様を止められるような方がいません。ど、どうしましょう。
「骨まで燃やす」
燃やしちゃダメですいちおう王子殿下です!
「ライムンド、ひとまず落ち着け」
「兄上。いい加減になさいませ」
慌てる私は役立たずでしたが、止めてくれる方がいらっしゃいました。
旦那様の額を、子供を叱るようにぺしんと叩いたのはバニュエラス公で。殿下の正面に回って諫めてくださったのは、第二王子であるエステバン殿下でした。
「引き止めた私も悪かったな。ヴァレンティンは王都の邸は引き払ったそうだが、今はどこにいる」
「グラナダに使用人たちがいる」
「いい宿だが、私の所が近いな。馬車を用意させるから、今夜はそちらへ。いっそ王都の滞在中いてくれて構わんぞ」
バニュエラス公の邸、お恐れ多いです、でも旦那様は親戚のおじ様宅を訪れるくらいの気安い感じで了承されてます。
「エステバンどけ!この俺に傷を負わせたんだぞ?!お前も辺境伯を捕らえないか!」
「それ以上暴言が過ぎますと、穏便に済まそうという陛下の厚意も無碍にすることになります。その時、捕らえられるのは兄上かもしれませんね?」
「お前何を」
「あ、エレナ久しぶり。綺麗になっててびっくりしたよ。まだ王都にいる?使いはバニュエラス公の邸に送ったらいいかな?」
相変わらずですが、エステバン殿下のよそ行きと私対応の違いがびっくりです。えっと、閣下のところでお世話になるということは、そういうことなんですけど。ええと。
困って旦那様を見上げたら、とても複雑そうな表情をされていました。「伏兵か。馬鹿王子じゃなくてそっちか」と呟いてましたが、ここ陛下もいらっしゃる会場ですからね。
結局、治療をされるということで殿下は会場を下がられました。陛下は少々お疲れの表情で、妃殿下に励まされていました。もしかしたらお尻を叩かれているのかもしれません。あ、これはアーロンさんが教えてくれました。
馬車が用意できるまで、と私はバルコニーまで避難させてもらいました。
その間、会場ではエステバン第二王子を王太子とする決定が伝えられました。建国祭の最終日に知らせる予定だったそうですが、殿下が大いに騒いでくれたので慶事で忘れてもらおう作戦に変えられたそうです。殿下はいつも大袈裟です。
変なことせずに、星詠み師さんを巻き込んだりせずに、要らないと言ってくださればよかったのに。きちんと順序立てて妃殿下に申し上げればよかったのに。
あの時ご迷惑をかけた星詠み師さんは、王室付き術師を解雇されたそうですが、元気でしょうか。
月のない夜をバルコニーから見上げると、キラキラと星が瞬いていて、私の灰色の髪がぼんやり光っているのがわかります。
「エレナすまない。…痛むか?」
「旦那様が謝ることはありません。されたのは殿下です」
ぎゅうっと顔の中心に寄ってしまうんじゃないかと思うほど眉頭に力を入れた表情を、ぼんやり光る私の髪が照らしていました。そんなお顔、しないでくださいな。
旦那様は手を伸ばして、一度やめてから、触れてもいいかと尋ねてくれました。
やさしいひと。
眠気が勝っている時はいきなりぎゅってしてきますけど、旦那様は、私が嫌がることはしません。
旦那様の指先が頬に触れて、顎のあたりと唇の横を撫でていったのは、先ほどつかまれた部位を確認してるようでした。
痛かったけれど、それより胸が痛くて、こうして温かい手に包まれるとその胸までぽかぽかしてきます。
いつもより恐々と触れる手がなんだか嬉しくて、私も自分の手で旦那様の右手を包みました。びっくりした様子だったので、ロペとルナがしてくれるみたいに大きな手の平にすりすりすると、頭の上から名前を呼ばれました。
「エレナ」
旦那様の声、好きだなって。
なぜかそう思って。そうしたら私の額で低い声がしました。まるで頭の中に直接響くみたい。
気持ちよくてまたほっぺたをすり付けると、反対の頬にも手が置かれたのでますます温かくなりました。旦那様の手が大きいから、指先が耳たぶに触れるのがくすぐったいです。
「ライムンド様」
息がかかりそう。いいえ、私の声はきっと、きれいな金色の目に吸い込まれてしまいました。
「エレナ、…目を閉じて」
だから瞼を下ろさないと。旦那様の声が聞けなくなってしまいます。
でも、あまりに温かくて気持ちよくて溶けてしまいそうで。とても、とっても近くにある金色の目はこんなに熱っぽいのに痛くありません。
むしろもっと、
「ライムンド、邪魔するが馬車の用意が、あーーー…本当に邪魔だったか」
悪いな、と言いつつもバニュエラス公は何だかとっても嬉しそうに笑ってらして、旦那様は私の肩口に顔を埋めていらっしゃいました。ちょっと頭が重いです。
でもどうしてか唸っている旦那様が可愛くて、よしよしと黒髪を撫でたら唸り声が低くなりました。やっぱりお嫌でしたか。
「ーーー閣下。少々膝を突き合わせてお話したいことがあるのですが」
「おう付き合おうとも。お前を潰すだけの酒は用意してある」
仲良しです。立場や口調は違いますが、邸での旦那様とセサルさんのやり取りを思い出します。
旦那様は私にとってはずっと大人の男性ですが、彼らからしてみれば可愛い息子みたいなものかもしれません。
この後、バニュエラス公の邸にお世話になり、旦那様と閣下は本当に朝までお酒を酌み交わされていたそうです。
朝に旦那様が眠そうな青い顔をしているのは、今では珍しいことではありますが。
二日酔いは私の魔力では消化できませんからね。
お水をたくさん飲んで横になってもらっていたのですが、宿から移動してきた使用人のみんなが、私たちの姿を見て悲鳴を上げました。
あれ? 旦那様を膝枕したらいけませんでしたか?