離縁予定の奥様が、夜行性旦那様に嫁いだ理由(中)
旦那様のターン
「旦那様。今年の建国祭に参加したいです」
彼女の言葉に私が瞬いたのは、内容に驚いたからではない。少しだけ意気込んだ様子で、ソファに腰掛けたまま上体を前のめりに倒した姿勢にだ。
エレナは小さい。腰掛けていても小さい。可愛い。だから私の目を見ようと上目遣いだった。
自分の右側を見ると家令のセサルが背を伸ばしたままうんうんと頷いていて、左側を見ると副官であるアーロンが「あー…」と言いそうになった口を手で押さえていた。
つまりこれはおねだ、
「実は、セサルさんが連絡を取ってくださった商会が建国祭の折、王都にいらっしゃるんです。何度かお手紙をやり取りして、もし直接お話をできれば即決もしてくださると。建国祭の時期に決められるなら真夏の前に船に乗せられます。セサルさんとアーロンさんに確認したら、予定的には王都に出向いても問題なさそうなので、旦那様にご一緒してもらいたいのです」
……わかっている。彼女が優秀で有能なのは充分にわかっている。
仕事の話だ。そうだな。それも彼女が私に話を持ってくる時点ですでに整えられていて、許可を求めるだけになっている。
右側を見るとセサルは澄ました顔で正面を向いていて、左側を見るとアーロンは「なに期待してたんだよ」と吹き出しそうなのを、まったく堪えられていなかった。口許を押さえてはいるが笑いが漏れていた。
後で軽く焼いておこう。
似た者親子のことは放っておき正面に腰掛けるエレナを改めて見ると、上目遣いに両手を握ったお願いポーズが追加されていた。
内容は色気がないが、おねだりには違いないか。
「あの、やっぱり王都はお嫌ですか?」
「いや行こう。父の跡を継いでから、本当に一度くらいしか顔を出していないしな」
「ありがとうございます!」
エレナはいつも、蕾がほころぶようにやわらかく笑う。
輝くように、とか。艶やかな華が咲くように、とか。そういった形容ではなく。やわらかくて、あたたかくて、優しい。微睡んでいる時にそっと頬を撫でていった春風のように笑う。
建国祭の準備に取り掛かる季節。
彼女がこのイングレイス領に来てから一年近くが経つ。
彼女自身が持ってきた手紙の前に、ほぼ私的な扱いで王妃殿下から知らせは来ていた。それでもお断りすると返信したのだが、妃殿下から次の知らせがある前にエレナはやって来た。
小さく、華奢で、聞いていた年齢より幼く見える顔立ちでありながら、指先まで綺麗に躾けられた所作。
妃殿下渾身の「作品」だ。
それとも噂に聞く馬鹿王子はこれほどまででないとフォローできないのか。
どちらにせよ、荒野と隣り合わせた土地にいて好いご令嬢ではなかった。
瘴気を取り込んで消化してしまう魔力特性も、絶対ではない。いつか瘴気に負けて魔者になるかもわからない、そんな男に嫁ぐ必要はない。
だが王妃殿下からの正式な手紙と王都教会の婚姻届だ。
拒否はできないが無効にはできる。白い結婚だった証明がされれば、離縁ではなく結婚無効も可能なはずだ。
三年という不自由をさせるが彼女はまだ若い。結婚歴もないとなれば、愛らしい令嬢の貰い手など数多あるだろうと。
思っていた。
「エレナ。おいで」
呼ぶと素直に席を立って近づいてくる。彼女がそばに置いている番犬たちのようで、いや素直ではあるがあれらの十倍は愛らしい。
そうしてエレナは、腰掛けた私の足元に、ためらいなく両膝をついて見上げてきた。
「はい、旦那様。眠いですか?」
エレナはとても有能だ、軍での言い方をすれば指揮官に相応しい。自身が多岐にわたって優れているのは元より、周囲を把握して采配するという事をよく学んでいる。
もちろん軍でなく邸を切り盛りする女主人にも必要だろう、それは突き詰めれば、王のとなりに立つ妃に求められる能力という事だ。
王妃殿下渾身の作、早朝に帰ってくる私に挨拶をする姿を見て、なるほどと思っていた。
だがエレナは、こうして時々、使用人のような行動をする。
無意識なのだろう。低い位置から小首を傾げて見上げられるのは可愛らしいので嬉しくないわけでは、いやそうじゃない、あれだけ妃教育を飲み込んでいながら「無意識に出るのは」こういった仕草なのだ。
「手を」
左手をさし出すと、小さな右手が乗せられた。
すると、ふわりと明かりが灯る。
エレナの髪は常に自身の魔力を発散していて、日中ではわからないほど淡くだが確かに発光している。
そしてこうして触れると、相手の魔力まで吸い上げて発散するのだ。
瘴気を喰った私の魔力さえ。
常に発散している自身の魔力では微弱だが、私の魔力を吸い上げて循環させると発光が強くなる。淡い灯火から美しい輝きに変わる。
本人は「ピカピカ光って目立ちます恥ずかしいです」と顔を伏せるが、とても綺麗なのでかぶろうとした布を奪ってやった。隠れようとするので隣に座らせた。美しいが目が眩むような輝きではない、夏の夜に見る満天の星空のようだと何度も言い聞かせて。
ようやく顔を上げてくれるようになった。
なので、重ねたその手を引いて床から持ち上げてやった。
「え?えぇ?」
小さいだけでなく軽い。ちゃんと食べているようだが、循環する魔力のように代謝もいいのだろうか。
膝に乗せても、まるで仔猫のような重さしかない。
「旦那様あの、これは」
「リサ、聞いていたな。王都の建国祭に相応しい、エレナに似合う、最高のドレスを仕立てるように手配するんだ。おい聞いているか?」
「もちろんです旦那様。ただ、この話の流れで真っ先に奥様のドレスとか、ちょっと旦那様を見直していただけです」
どうしてウチの邸の連中はこうも正直なのか……
メイドのリサは(というか結構な人数が)私の行いについてまだ根に持っている様子だ。事あるごとに最初から奥様として扱っていればこんな拗れなかったのに、と言われる。
仕方ないだろう。こんな仔猫みたいな、可愛らしいが小さくてか弱い令嬢を妻にするなんて酷い話じゃないか。
これでも若い頃はそれなりに縁談はあったんだ。
だが二十歳になる前に父が事故で亡くなり、それどころではなかった。
それに、持ちかけられた縁談は家からの打診で、当のご令嬢方は「瘴気喰い」の嫁になるなんて恐ろしい無理だ嫌だと言っていたのを知っている。それが普通だ。
『気味が悪いだろう?』
『いいえ』
亡霊の方がよっぽど不気味だとエレナは言っていた。
おいでと言ったら飛び込んできてくれた。
軽くて片腕でも持ち上げられそうで、私の不快も眠気も全部吸い上げてキラキラ輝いていた。
「あ、あの、旦那様……」
この体勢はさすがに嫌なのか、私の大腿からそうっと降りようとするので腕を回して座わり直させた。本当に片腕で持ち上げられるな。
「ひゃ、ひゃあああ、旦那様っもう眠くないですよねっ?」
「私の礼服も、……いつ作ったかな」
「六年前でございますね。旦那様も採寸からいたしましょう」
「面倒だが仕方ない。ああ、宝飾品も一揃い必要だな。リサ、候補があれば遠慮なくセサルに言うといい」
「はい!奥様付きの醍醐味!特権!お任せください!!」
違う。妻を着飾らせるのは夫の特権だ。
エレナは自分の容姿をぼんやりだとかはっきりしないとか言うが、淡くやわらかい雰囲気なだけだ。顔の造形でいうなら精巧な人形のように整っている。
小さく愛らしく、華奢で可憐だが、折れてしまいそうな儚げな印象はない。
しなやかで柔軟でだから、強い。
「旦那様…心臓が口から出ます…」
「それは大変だ。ふさごうか」
「なにでですか?!」
「奥様。それ聞き返しちゃいけないヤツね。ライムンドもいい加減セクハラやめろな。もう可憐なお嬢さんに悪戯するおっさんにしか見えないから」
アーロンは、軽く焼いておこうと思ったが後でじっくり炙っておこう。
私の副官であるこの男は、口が悪い。
あのセサルの養子として教育を受けたとは思えない。だが明朗で親しみやすい気質は悪ノリしやすい兵士たちをまとめるのに有用なので、まあそれはいい。
『お前は昔から顔もガタイもいいし剣の腕も魔力もすげえのに、こう、残念なんだよ』
もう一度言う。この男は口が悪い。
『だってなあ、小さくて可愛いお嬢さんが自分の嫁になるのは可哀相だ?けど有能だとわかった?おまけにお前の魔力を怖がらない上に消化してくれた?そんなの、今更どの面下げて夫だと主張するつもりだったんだ。魔力循環が狙いだと思われるぞ、いや思われてるな確実に』
だが、ぐうの音も出ない。
今でこそエレナ自身の健気で素直で可愛らしい気質を好ましいと、大変好ましいと思っているが、そのきっかけが彼女の循環させる魔力特性だったのは確かだ。
恥じらいながらも触れ合ってくれるのは、私の中の瘴気が目に見えて消化されるという結果があるから。自分が役立っていると実感できるから。その事を喜んでいるのだ。
わかっている。
決して私自身に触れたいとか、どうこう感情を抱いているとかでないのは、理解している。
『けどな、あんなお嬢さんは後にも先にもいないぞ。情けなくても縋っても何でもいいから、手放すべきじゃない。土下座しても愛を乞うて来い。……やばいその絵面を想像したらすげえ面白い。土下座の際は呼べ。もしくは盛大に振られるとかでも可、くくっ、ライムンドが平手とか喰らったら俺しばらく生きていくの楽しいわ。でもお嬢さん泣かすのはなしな、俺が親父に殺されるから』
正論を説かれたはずなのに、後半が失礼すぎて腹が立った。
とりあえずアーロンは焼いておいた。
「エレナ」
「はい。旦那様」
膝の上に座らせるとどうにか頑張って抜け出そうとするので、隣に下ろしてやるとホッと息をついていた。
普段呼吸するように取り込んでしまう瘴気など幾ばくかで、エレナの髪もすぐに落ち着いてしまった。だがはなれ難いので手を重ねると、彼女の方から指を絡ませてくれた。
手の平が合わさって指の間に指がある、この形を私が好んでしているせいか、彼女もすっかり慣れたようだ。
「いつ見ても大きな手です。私の手、すっぽりですね」
きゅっきゅと指先で握るので、力いっぱい握ってみろと言ってみた。ぎゅ〜っと口で言いながら頑張っているようだったが、やはり仔猫が爪を立てている程度の力しかなくて、可愛らしくて笑ったら意地になったらしく両手でぎゅうぎゅう握ってくれた。
どうしよう。
私の妻が、とても、……とても可愛いんだが。
「ライムンド。顔やばい。親父に頭割られるぞ」
「いやしかしこれかわっ」
「奥様!こんなこともあろうかと、流行りのドレスブックがございます!布見本もありますから!とりあえず離れましょう!!」
「待ってリサ。もうちょっと、もうちょっとで旦那様の手をぺったんこにできるんです」
「ああダメ!奥様それ引き寄せちゃダメ!旦那様の手にそんなご褒美あげなくていいんですよ!」
「この方が力が入る気がして。うーん。どうですか旦那様、降参ですか?」
「どう、……うん、ささやかながらとてもふかふかな」
「はい?」
すぐにセサルとアーロンによって捕縛された私は、二人にずるずると書斎まで引きずられてしまった。いいじゃないか。私の手を押しつぶして楽しんでいたエレナが、自分で自分の胸に当ててぎゅーっとしたんだ。私のせいじゃない。
降参するしかないやわらかさだった。うん。
セサルの説教を片耳に聞きながら、仕方ないので真面目に仕事をした。ここは国内最南端で、王都に出向くにはそれだけで日数がかかるが日程的に問題ないようだからな。久々に顔を出すからには色々と面倒も起きるだろうし、商談の他にも片付けられる事がいくつかあるはずだ。
特に、あの馬鹿王子だ。どうしてくれよう。
奴がエレナを辺境に送ると決めたなら貴様のおかげで、とも言えようが。彼女がこちらへ来てから二度、王妃殿下から届いた手紙と、こちらで調べた内容によればただ甘やかされて享楽優先の馬鹿王子のようだからな。
何もせず放置するのがいい。本当は。エレナを関わらせないのが第一だ。
しかし、予想だと向こうから絡んできそうな気がする。
なにせエレナは美しい。
リサを始め王都に連れてきた女性使用人たちが腕によりをかけた姿で、いつものように「こんばんは、旦那様」と挨拶をされて。
目眩がした。妖精がいる。
「旦那様の、軍服じゃない正装は初めて見ます。素敵でクラクラしちゃいそうですね。……ねえ、リサ。私おかしくないですか?ちゃんとしてます?旦那様と並んだらご迷惑を」
「とても綺麗だ。エレナ。最初は深い色だと思ったが君が着ると愛らしい、星が降り注いだように輝いている」
感動していたらリサたちから蹴り飛ばされそうな殺気、いや視線をもらってようやく口を開いた。どれも事実だが、彼女は自分の容姿をまったく理解していないのだ。
ここはきちんと伝えなければならない。
「君は美しく可憐で、誰の目にもとまるだろう。だから私から離れないように。いいね?」
「はい。でも私に声をかけてくださる方なんて、いらっしゃらないと思いますが」
それは王城にいた頃の話だろう。調べはついている。第一王子の指示で、どんなドレスだろうと髪を隠すように黒いベールをかぶせていたらしい。
おそらく、エレナの顔をまともに見たことがない奴がほとんどだ。
国王陛下への挨拶のために会場を進むと、それだけで周囲がざわついた。エレナの美しさはもちろん、私自身も王都での大規模な夜会に参加するのが十年ぶりだ。若い世代など私の顔は知らないだろう。
「イングレイス辺境伯、ライムンド・ヴァレンティンがご挨拶申し上げます」
陛下へ挨拶をしている間もエレナを「紹介」する間も、それで控えているつもりなのかという耳障りな声は聞こえていた。
瘴気喰いだの野蛮人だの私への言葉はいい。だがエレナに対するそれらを聞かせたくなくて、耳をふさいで抱きしめてやれればいいのにと思っていると。
陛下に許しを得た王妃殿下が、段を下りてエレナの手を取った。
親しげに顔を寄せて何かを話す姿が他の貴族連中にどう映ったか知らないが、一度だけ、エレナが私の方を見てふわりと笑ったので変なことは吹き込まれていないだろう。
それよりあれだ、アレ。
目を見開いて呆然とした表情を浮かべた第一王子は、淡い金髪に宝石のような鮮やかな緑の目の、なるほど見目は理想の王子様みたいだがその阿呆面はどうにかならないのか。公の場で晒していい表情じゃないぞ。
その隣にいる第二王子は、兄よりも濃い金髪に同じ翡翠の目をして、穏やかな表情を保っていた。が、あれも驚愕しているな。
この場で消し炭にしてやりたいが、こちらから手は出さない方がいい。おそらく勝手に自滅しに来る。
妃殿下から解放されて戻ってきたエレナに「どうしましたか?」と聞かれたので、私もよからぬ顔をしていたのだろう。
なんでもないと薄い背中に触れてさっさと退場しようとしたのだが、その前に道をふさがれてしまった。
「ライムンドお前、これでさっさと帰るつもりか?十年振りなんだ、せめて奥方をもう少し見せびらかしていけ」
「バニュエラス公」
もういい年だろうに相変わらず熊のような体躯で壮健なご様子だ。人がひしめき合っているとはいえ、この広い会場でも正面に立たれるとまさに道をふさがれるといった感じだ。
バニュエラス公は先王の弟で、一代公爵を賜り臣下に下った方だ。今でも国の軍事責任者として活躍されているそうだが、こういう場を好まない方である。
それが待ち構えていたということは、私が来ると聞いたからだな。
公と私の父は訓練兵の時代から同期だったらしく、親しくしていたのを知っている。父が亡くなってからも度々気にかけてくださったのもありがたいと思っている。
だが、すっかり白髪になった公のニヤニヤとした笑いに、嫌な予感しかしない。
「これはずいぶんと可愛らしい、そして美しい奥方じゃあないか。ロベルトも結婚などしない、剣を振るって生きるとか言っておきながらころっとヴァレンティン家のご令嬢に惚れてなあ。確かお前もロベルトの葬儀の時にそんなような事を言っていたが、血は争えないというか」
幼い頃とか、若気が至っていた時とか、そういうのを知られている人物は非常に厄介だ。
バニュエラス公の口をふさぎたいができない。せめてエレナの耳をふさぎたいがそれもできない。むしろ興味深いといったキラキラした目で公を見るんじゃないエレナ、何も楽しい話は出ないぞ。
今更だが、ウチの邸の連中というかセサルやアーロンは、私の話をエレナにするのだろうか。
その、主に幼い頃のあれこれとかを。
今まで思い至らなかったから口止めなどしてないぞ、魔力の制御がろくにできなかった幼い頃は色々やらかしているからな。眠気に負けて川に落ちて死にかけたりは可愛い方だ。
「イングレイス辺境伯夫人」
そう、呼ばれて背筋を伸ばし微笑むエレナは美しい。
私のためにと思えば誇らしいが、それを真実にするためにはまだ私に努力が必要だ。
「あなたの事は聞いていたが、すまないね、王室のそういった事柄に関して私はもう口出しできる立場でなくてな。だが先王から賜ったバニュエラス公爵の名に誓って、ライムンドはいい男だぞ。保証しよう」
厄介だと思っていたご老体への好感度が一気に上がったところで。
一番の面倒事が突っ込んできた。
「ーーーエレナ!」
金髪の王子様のご登場だ。