旦那様は、奥様を大事にしたい(2)
「どうするべきか。……問題だ」
温室でのやり取りを話すと大笑いしていたアーロンは、私の呟きを聞いて書斎の端に置いてある椅子に遠慮なく腰掛けた。
砦に戻るのでなく腰掛けたのだから、私の話に付き合う気はあるらしい。
「どこが問題だよ」
「まずエレナが可愛すぎるのが大問題だ。可愛らしい愛おしいと思っていたが、母である姿は美しくもう生きていてくれるだけでいいのに、妻として、……エレナが、かわいい」
「じゃ、俺は帰るわ」
「聞く気があるなら建設的な意見をよこせ」
「今のどこに何を挟む隙があった? 恋するおっさん気持ち悪いわ、お前顔が良くて救われたな」
まったく失礼な男である。
ペンを放り出して椅子の肘掛けに頬杖をつくと、腰を浮かせようとしていたアーロンは面倒臭そうにしながらもまたどっかりと椅子に戻っていた。
「可愛い。愛してる。……愛してるんだ。エレナに万が一でも危険が及ぶようなことはわずかでも取り除きたい」
最初からそう言え、と私の副官は肩をすくめた。
彼には身寄りがない。私の母に仕えていたセサルが教会の施設から引き取ってきた、セサル自身も似たような経緯でヴァレンティン家に来た、彼らは主家を何よりも優先するために自身以外を持たないようにしている。
「一般的に、そんで俺個人としては、推奨するな。坊ちゃんは健康なようだが、健康な赤ん坊が明日死ぬなんてよくある話だ。おまけに政略結婚だの義務だの殺伐としてるわけでもなく、互いに望んでるならなおさら、お前が萎えない内に子はつくるべきだろうよ」
「真っ当な意見も言葉次第で素直に受け取れないな……」
「世の中の好色じじい共の話を聞く限り、男は性欲がある限り大丈夫そうだがな」
「私のことはいい。どうでもいいんだ。ただ、エレナを、……失ったら耐えられない」
生きていける自信は微塵もないし、もし、もし彼女がいないのなら生きていたくもない。
妊娠がわかった時も、私を産んで亡くなった母を思い出して怖かった。
喜ぶべき場面に、もしもと怯える私に大丈夫だと、絶対に大丈夫だと笑ってくれたエレナが。息子の元気すぎる産声の中でも、ぴくりとも動かず眠っている姿に。
心臓が凍った。
起きてくれと願いながら、彼女が目覚めないのなら息を止めたいと思った。
「確かにあの時はやっべえと思ったけどさ……取り乱してくれたほうが対処しやすいっつーか」
「もうあんな思いは御免だ、というのが正直なところだな」
「なのに奥様が可愛く夜のお誘いをしてきたから性欲が愛を上回った、と」
「上回ってない、断じてない、エレナは女神なんだぞ大事にするものなんだしたいんだ」
「けど『問題』なんだろー? 家族のキスとハグしかしてこなかったこの一年近くを蹴っ飛ばす勢いで、奥様の生々しいイロイロを思い出したわけだ」
「燃やすぞ」
「その気になったならいいことだ。さっきも言ったけど、俺はライムンドの子づくり推奨派なんで」
セサルは、母にとって私の口汚い副官と同じような立場だった。
彼は母の死後も家令としてヴァレンティン家に、父や私によく仕えてくれた。父も私もセサルを信頼していたし多少甘えることもあったが。
アーロンも、思考の優先順位は変わることはないようだ。
「……意見を聞いたのは私だったな。それに、お前の言葉が正しいのは理解できる」
「奥様も若いから大丈夫だろ。まだ18歳だっけ? いやあ、年齢差体格差ねちっこい執着含めて、正式な夫婦なのに犯罪臭がすげぇな」
「とりあえず燃やされたいんだな、お前は」
けらけらと笑ったアーロンはそこで立ち上がり、とりあえず明日の分は調整しておくと砦に戻っていった。調整されるのか。そうか。子づくり推奨派か。
ヴァレンティン家がどうなろうと、貴族位や領地は王家や誰かがどうにかするのだろうが。絶え間なく瘴気が湧く荒野に面した広大な土地、そこに暮らす人たちの日々を脅かす真似をしたくはない。
この家を継いでいく意義は確かにある。
かといって妻を大事にして守り尽くしていくのだという、それを間違いと片付けたくはない。
そして、
「エレナが、可愛い…っ!」
愛を上回るのではなく愛ゆえに触れたい。これも間違っていないはずだ。
ごつ、と机に額を打ちつけたところで、非常に良いタイミングで入室してきたセサルがビクッと肩を揺らしていた。珍しいものが見れた。
エレナには当主夫人としての私室があるが、私の謝罪を受け入れてもらってからは私の主寝室で共寝をしている。
息子レイナルドが生まれてから乳母が決まるまでは使用人と一緒にずっと子供部屋にいて、いくらか落ち着いた今ではまた主寝室でゆっくり睡眠を取るようになっていた。
が、今夜は「支度がありますので!」と晩餐後にメイドたちが彼女を連れていってしまった。
なので私は自室で頭から水をかぶり室内を何往復か歩いて、それでも落ち着かないので少し酒を、飲もうとしてエレナに言われたことを思い出してまた室内をウロついていた。
あれだな。やり直し初夜の時と同じような心持ちだ。
だがあの時よりタチが悪いのは、清廉な母であり凛とした美しい淑女であり可愛らしい小さなエレナの、甘く乱れた姿をすでに知っているという点だろう。
しかも受け入れてくれるか嫌がられないかというのは突破済みで、彼女から望んでくれている。真っ赤になって恥じらいながらも求めてくれた昼間の姿を思い出し、それをこの手で乱して蕩けさせてやわらかな、——と考えている時にノックがあった。
しかも、廊下への扉ではなく隣室との続き扉が鳴った。
隣はもちろんエレナの部屋だ。
待て。ちょっと待ってくれ。
メイドたちが張り切って彼女を連れていったから、以前のように支度が整えば私が訪れるものだと思っていた。だがノックされた。彼女の私室から主人の部屋を訪れる使用人などいない。
普段ぞんざいな扱いをされているかのごとき私だが、それなりに規律はあるしそれを破るような者はいない。セサルやアーロンなどごくごく一部の例外はいるが。
ああ、いや、思考が飛んだ。つまりこのノックは。
「旦那様?」
エレナしかいない。わかっている。
「あの、そちらに行ってもよろしいですか?」
だが向こうから来てくれるのは想定していなかった。この扉を開けて止まれる自信はないしかし開けない選択肢がないどうしたものかそれはつまり開けるってことだな。
扉を開いてやると、のぞき込むような仕草をしたエレナはやや安堵した表情を浮かべた。
「開けてくれなかったらどうしようかと思っちゃいました。こんばんは、旦那様」
どうしようはこちらの言葉だ。
私の妻が可愛いどうしよう。
メイドたちが張り切っていたから若干心配していたが、扇情的な装いでなかったことはまだ救いだった。飾りはなく簡素だが、室内着にも見える厚手の生地でよかった。
何とか挨拶は返したものの言葉を続けない私の様子に困っているのはわかっている、わかっているがどうしたらいいものか。
彼女に触れられるならこの上なく嬉しい。
だが、触れて壊してしまいそうで怖い。ああ、そうだ、怖い。
息子を慈しんでいる母親に告げる言葉でないと知りながら、それでも、私には彼女のほうが大切なのだ。
だから。
「あの、や、……やっぱりお嫌ですか」
息をのんで言葉を紡ごうとすると、エレナに先を越された。腹の前で組まれていた白い指が、自身の白い寝間着を握っているのが見えた。
彼女に何を言わせているんだ私は。というか、やっぱりとは。
「旦那様が私に興味がないというなら、その、失礼しました」
なくない抱きしめたいキスをしたい甘く蕩けて乱れる姿を堪能したい違うどうしてそうなった。
「出産後の女性は、女性でなく母だから……夫婦のそっそういう営みがなくなると」
誰が言った。ソイツを連れて来い。
「待ってくれ。違う。私の態度が悪かった。むしろ君に触れたくて仕方ないのは私のほうだが、ああそうではなくて、……話を聞いて欲しい」
うつむきがちだった顔がぱっと花咲くように上向いて、青灰色の瞳がうるんでいるのが見えた。涙目が可愛い。ではなく。どうして私はいつも彼女を泣かせているのか。
アーロンは何かにつけてお貴族様の美辞麗句と言うが、習いはしても十年没社交だった私にそれを求めるな。いや、問題は素直な言葉すらエレナに伝えられていない事実だな。
情けない。だから伝えなければいけない。
薄闇の中で淡く灯っている私の光。銀色の髪をひと房すくって口づける。
「愛してる。愛している、エレナ。男の欲で言えば君に触れたい、体でも愛したい。だがどうしても、レイナルドを産んだ時の君を思い出す。君の命を削るような行為に思えて、怖いんだ」
やわらかな髪に触れている無骨な手を、小さな掌二枚が包んでくれる。すると淡い光が私の魔力を吸って強く煌めいた。
「……よかった。旦那様に嫌われたかと思いました」
女神だな。夜に沈んでいた私を照らす光だ。
君は。
「未来永劫それはあり得ないな」
「女からの誘いなどはしたないのではと……でもみんなが大丈夫だって言うので、が、がんばろうかなって」
「そうだな。皆のが正しい」
「だから、好きで、大事だから大切にしたいと思ってくださるのは嬉しいです。私も大好きです。でも」
触れて体温を感じて確かめるのを愛おしいと思うのは、私だけですか?
「……いいや。私もだ」
「旦那様が仰ったんですよ?」
「覚えている。昨年の狩猟会で私を気遣ってくれた君が、まったく触れてくれなかったから不安で」
「はい。私もです」
髪ではなく包んでくれていた手に、指を絡めて、人一人分あいていた距離を詰めた。眩しいな。目を閉じて額にキスをすると絡んだ指先がきゅっと音を立てた。
目尻に、頬に、耳の下に、キスをする間に変わらず細い腰を抱き寄せた。
「情けない夫だな。私は」
「至らない妻で申し訳ありません」
「君は充分すぎるほどだ」
「旦那様もとっても素敵です」
「唇にキスをしても?」
たずねると、頬を染めたエレナが私の襟を引いた。許可の言葉がないので近づくだけで触れずにいると、睦言のような甘い囁きが聞こえた。
「旦那様に口づけしても、いいですか?」
もちろん。
それ以外の答えは持たないし、これからは言葉すらも曖昧になるだろうから。
大切にそっと、妻の唇にキスをした。




