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旦那様は、奥様を大事にしたい(1)

ライムンドのへたれ度合いがさらに上がる







 朝に、目が覚めて。


 瞼を下ろして眠る妻の顔を間近に見て愛おしいと思いながら、言いようのない不安にかられる。

 触れて確かめたいのにためらわれ、どうにか指先で頬に触れる。あたたかい。唇まで指を滑らせて呼気があるのを確かめてようやく安堵する。

 やわらかな唇を軽く押してから自分の手をシーツに放ると、触れ合いに気づいたのか仔猫のようなか細い声がもれた。髪と同じ銀糸の睫毛が瞬き、まだ眠い目をそれこそ猫のようにゆるくこする仕草が可愛い。

 今日もエレナが可愛い。


「……おはようございます。旦那様」


 今日もエレナが生きている。




 午後のお茶はいかがですかとセサルに言われ、視線を上げると首がごきりと鳴った。鍛錬は欠かしていないが、書類仕事をしばらくしているとすぐに体が固まる。これが年齢を重ねるということだろうか。


 子供が産まれる少し前から、執務の中心を邸に移していた。

 以前、昼夜逆転生活をしていた時はほとんどの仕事を砦のほうでしていた。邸の使用人たちを私の時間帯に付き合わせても効率的でないので、昼夜問わず稼働している砦に領地管理に関する諸々も持ち込んでいたのだ。

 エレナが来てから邸にいる時間が増えたとは言っても、十年近くの習慣でトッロ砦の執務室にいることが多かったが。あまりにも心配すぎて。砦と邸を往復する時間も惜しく、でしたら邸の書斎も活用くださいませとセサルに言われてようやくそれだ! と思い至った。アーロンには今さらと驚かれた。


 ウチの使用人たちは皆が優秀で、さらにエレナが家政や領地管理に関してまで堪能なので本当ならば今でこそ辺境軍砦に詰めていても支障ないわけだが。

 身重の、そして育児に忙しくしている妻を邸に残しておくわけにはいかない。

「奥様を膝に乗せて執務してればいいんじゃねえ?」

 アーロンは呆れたように言ったが、なるほど、とそれを想像してエレナなど仔猫ほどの重さしかないのだから簡単だうんいいなと思い至ったところでセサルに拳骨を喰らった。


 つまり何だ、午後の休息を妻と共にいられる。それだけで邸にいる理由は充分である。

 奥様に伺って参りましょうと言うセサルには準備を頼み、私自身でエレナを迎えに行った。彼女は今では夫婦の寝室や書庫ではなく、この子供部屋にいることがほとんどだ。

 扉の前に控えていたメイドが私の顔を見てにこりと笑い、細心の注意を払って扉を押し開ける。

 前から子供部屋に入る時は静かに、と言われていて控えめにノックをしたら、その音で起きてしまったらしく乳母やメイドからこっぴどく叱られたのだ。なので私が邸にいる間は、必ず扉前にメイドが控えるようになった。信用がない。


 扉の内側に身を滑らせたメイドが顔を出して、私がようやく通れるほどに扉を開いた。入室は許可されたらしい。

 なので踵からそっと毛足の長い絨毯を踏むと、今は起きてますから大丈夫ですよと乳母が声に出した。

 起きて、食事の時間らしい。

 息子を腕に抱いて乳を飲ませる母の姿というのは、教会が推す宗教画の題材、くらいにしか思っていなかったが。確かに尊い、美しいものだと今では知っている。

 小さくて可愛い私の妻は、息子の前では母なのだ。


「お腹いっぱいになればきっとぐっすりです。やっぱり坊ちゃんは奥様が一番ですねえ」

 私が着席の許可を出したので、乳母はもう一つのゆりかごの横に腰掛けていた。彼女はエレナの出産後に必要があって探した、急な雇用にも関わらず穏やかによく勤めてくれている乳母だ。

 子供部屋にはゆりかごが二つ。

 私の息子レイナルドのものと、乳母の息子アラノのものだ。


 エレナは、使用人の手もあるので自分だけで育てられると意気込んでいたのだが、医師の話だと乳の出があまりよくなかったらしい。こればかりは仕方ないとイングレイス領をあげて急遽、乳母を探して来てくれたのが彼女である。

 貴族的な知識、通例と照らし合わせると常識でないことは多々あるが私たちは問題としていない。

 嫡子の乳母は一般的には下級貴族の夫人が選ばれる。赤子を育てるとは世話をするだけでなく乳を飲ませ触れ合いその子の一番傍にいるということだ。平民が貴族に触れるなどとんでもない、らしいが。

 我が邸の使用人はほぼ領内の平民であるし、今は亡くなっているが私に乳をくれていた乳母も領民だった。


 乳が出るのはつまり近い内に出産をした女性ということで、その赤子もしくは家族を我が邸で面倒見るわけだが、嫡子と同室にいることはない。たとえ貴族女性の乳母の子だったとしても、身分差があるので雇用主の傍に置くはずないそうだ。

 だがエレナは、「一緒に子育てできるなんて心強いです!」と大変喜んだ。

 それを誰が何を言えようか。乳母の息子がこの部屋にいることをヴァレンティン家では歓迎すらしている。

 もちろん、乳母自身の穏やかな人柄と弁えた態度あってこそ。さすがはセサルとメイド長の目にかなった女性である。


「エレナ」

 呼ぶと、息子を慈しんでいた視線が持ち上がり、私をとらえる。そうして笑ってくれる。

 女神か。

 そうか。妖精のように可憐で仔猫のように愛くるしいとは思っていたが、私の妻は女神だった。

 彼女の横で手拭きを持って控えていたリサが、主人に向けるべきでない視線をくれたが、いやだって女神だろうと視線で言葉を送ると「そこだけは同意しますけど」と雄弁な視線がさらに突き刺さった。そこじゃないところはどのへんだ。

「レイナルド。お父様ですよ」

 リサがエレナの肩に布をかけると、赤子は満腹の合図を吐き出した。我が息子ながら豪快な音だ。乳母の息子アラノはもう少し控えめな音なのに。


 乳母の言葉通りうとうとし始めた赤ん坊を手早く布でくるむと、エレナは「はい」と満面の笑顔でそれをさし出してきた。おそらく私の眉間にはシワが寄って苦い表情になっていることだろう。

 嫌なんではない。抱っこが苦手なだけだ。

 たとえば眠りの浅い赤子を大きな音で起こしてしまったのなら、私に原因がある。悪いと思う。だが抱き上げただけで大泣きされると非常に困るのだ。

 レイナルドが産まれて四ヶ月ばかり経ったが、息子が私に抱き上げられて大人しかったことは未だかつてない。


「嫌われているからな」

「旦那様がいらっしゃる機会が悪かっただけですよ。そんな小さい頃は好き嫌いじゃなくて、泣くのがお仕事ですから」

「待て。つまり今泣かれたら嫌われていることにならないか」

「大丈夫ですよ。旦那様」

 大丈夫じゃないから布巻きにしたんじゃないのか? 暴れて落とさないようにという防止策じゃないのか?

 目が泳ぐ私を見てくすくす笑ったエレナを見て、息子は無邪気にきゃらきゃら笑っているが。


「ライムンド様と、私の子ですから。嫌うはずありません」


 恐る恐る手を伸ばし、温かな重みを腕に感じ、ああ以前より重くなったなあと思っているとエレナに似た青い目がくしゅとなくなった。顔の中心にすべての部品が集まったかのようにシワが寄って。

 大絶叫された。

 空気を裂くような声に、眠っていたアラノもゆりかごの中で泣き出して乳母は笑っていた。メイドと乳母はそちらのゆりかごをのぞき込み、エレナは立ち上がって「よしよし」と腹あたりを宥めていたが引き取ってはくれなかった。

 布で拘束された内側で必死の抵抗の様子なんだが? すごく、暴れてないか? 元気なようで良かったという状況ではないな?


 慌てていたのは私だけで、いや、右往左往する私と大絶叫する息子、そしてつられて大泣きする乳母の子、ということは男共だけが慌てていたということだ。確かに室内にいた女性誰もが「あらあら」といった和やかな空気だった。

 母、という存在の美しさと逞しさをひしと感じた午後である。




 エレナに抱き上げられるまで大泣きしたレイナルドは糸の切れた人形のようにことりと眠りにつき、どっと疲れたところでセサルがやってきた。もう少し早めに助けてくれないだろうか。

 ちなみにセサルが近寄って息子が泣くことはあまりない。だが笑うこともなく大きな青い目でじっと見つめているらしい。赤子ながら人を見る目があるようだ。


 温室に用意した茶はこの国には珍しいもので、エレナが取り寄せたものだ。なんでも妊娠授乳をしている女性の体に良いのだとか。妻が優秀で喜ばしいことだ。

 これをエストラダ公爵を介して公の孫娘に贈ろうと提案したのもエレナだ。昨年の狩猟会で私が寝ている間に世話になっただけでなく以降もやり取りを交わしていたらしい、エレナと同時期に妊娠していた孫娘からも体調が良いと手紙が来ていた。

 エストラダ公爵家は王妃殿下の実家だ。春の花卉づくりに続いて高位貴族からの流行とは伝播が早いなと感心するばかりだ。ああ妻が、大変優秀で喜ばしい。


 温室の光さす中では淡い、輝く銀の髪をゆるくリボンで束ねたエレナは、少女のような仕草でリサと内緒話をしていた。

 正確にはリサが彼女の耳にそっと言葉を流しこみ、私とリサを見比べたエレナが手で口元を隠しながらいくつか言葉をかけていたというか。

 リサをはじめとしたメイドたちが距離を取って控えても、エレナは私と紅茶そっくりの色をした話題の茶を見たりうつむいたりして。まあ珍しく落ち着きのない様子だった。またメイドたちに何か言われたか。


「エレナ」

「は、はいっ」

「体調はどうだ? 疲れているなら私に無理に付き合う必要はないぞ?」

「いいえ。元気です。レイナルドも前より夜に寝てくれるようになりましたし」

「話には聞いていたが、赤子というのは本当に昼夜関係ないんだな。驚いた」

「おはようとおやすみの挨拶はしっかり教えないとですね」

「……耳に痛い話だな」

「あら、旦那様の話でしたか?」


 ふふ、とようやくいつものように笑ってくれた。

 春風のように優しくあたたかい笑みだなと思っていた。今でも思うが、暖炉の前で毛布にくるまれたようだとも思う。

 美しい所作でカップを運び、小さく愛らしい口に茶を含んでから彼女は言った。

「旦那様。この後に砦に向かわれる予定はありますか?」

「いや、急ぎの用もないので、このまま書斎にいるつもりだが」

 砦に、もしくは離れた区の「花の館」に用があるなら巡回兵を使うのが早い、何かあるかと尋ねると自分のことではないと否定された。


「だ、旦那様のご予定を、……聞きたかったのです」

 私のか。さて、ウチのメイドたちはまた何を吹き込んだのやら。

 彼女にしては珍しく、ソーサーに戻す際に少し大きめの音を立ててしまったカップを不思議に感じた。

「あの、ですね。今朝、お医者様が」

「医者? 君か、レイナルドに何か?」

「元気です! 私もレイも元気です、……ですから」


 ですから、大丈夫なんです。と。

 言われてようやく気づいた。頬に手をあてる癖のあるエレナの、小さな手で隠し切れないほど顔が赤くなっていた。可愛い。

 いやいや、可愛いが今の会話のどこにここまで恥じらう要素があったのか。


 頻繁にいや定期的に医師の診察を受けるようそれだけは必ず守るように約束している。

 出産直後、エレナはしばらく意識がなかったからだ。

 後に冷静な頭で聞くと、体力尽きただけで本当に眠っているだけだったようだが生きた心地がしなかった。脈も呼吸も正常で夜に眠るのと変わらないと言われても、医師の診断も周囲の声もまるで聞こえなかった。

 彼女の体のためにはしっかり眠ってくれたほうがいいだろうに、起きてくれ目を覚ましてくれと何度も願った。


 お前が昏睡するのは慣れてるけど、奥様が寝てるの洒落にならんな。とはアーロンが言った。

 狩猟会でお前が寝てる時の奥様もそんな感じだったぞとも言われた。


 彼女が生きているのを確かめないと、私は生きていられる気がしない。


 医者の言葉と聞いて心臓が嫌な音を立てたが、その心配はないらしい。

「邸にいらっしゃるなら、晩餐はご一緒できますか?」

「もちろんだ」

「お酒は……控えていただけると、嬉しいです」

「どれだけ浴びても酔いはしないが、君のお願いなら一滴も飲まずにいよう」

「ありがとうございます。なので、その、その後に」


 髪をゆるく束ねてあるので見える耳まで真っ赤だ、かわいい、それに気を取られていたが視界を広く持つとやや遠くで控えているメイドたちが力強い応援を送っているのが見えた。変な行動をしてるわけではないが、あれはどう見ても「奥様がんばれ!」の視線だ。

 本当に何を言われたのか。

「エレナ。話したいことがあっても、気持ちの準備ができた時でいい。君に無理強いをすることは一つもないから」

「無理じゃないです。私が、したくて」

「エレナ」

「さっ先に失礼をお詫びします! 旦那様!」

 意を決した様子で立ち上がる非礼を詫びたが私にそんなものは必要ない、何を、と問う前にするりとエレナは私の隣までやって来た。

 テーブルを隔てたわずかな距離だったが、すぐ隣で、彼女は温室のタイルに両膝をついた。


 そうして膝の上にあった私の手を合わせ貝のような美しい手が包んだ。

 恭しい行為と、触れたのは艶めかしい唇。


 心臓を吐き出すかと思った。

「ライムンド様」

 立ちなさいと言葉にする前に呼ばれた自分の名前と、彼女のその声と、見上げてくる瞳に、言われた言葉をかき集めて。

 医者に、元気だから、大丈夫と言われて、だから私の予定が、晩餐で酒を控えた後に。

 ……あとに?

 …………何をしたいって?


「君に、触れても?」


 すくい上げた私の手にコツンとぶつかった額は病を疑うほど熱くて、合わせて仔猫の鳴き声より弱々しく是の返事があって。

 吐き出しそうだった心臓を無理矢理飲み込んだので喉がごくりと鳴った。

 私の妻は可愛いが、間違いなく可愛いが、あれだな。

 時々私の理性を壊しにくるな。






アラノくんはこれからの人生をレイナルド坊ちゃんに振り回されます。

がんばれ。



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