奥様は、旦那様のお役に立ちたい(7)
狩猟会に参加されていた皆様の魔力判定が終わり、それぞれが帰路について最後まで領主館にお世話になっていたのは私たちでした。
仕事が終わるやいなや術師の方々も風のように戻っていかれましたが、それでもホセがどうしてか真っ青な顔をしていました。瘴気の食べ過ぎかと聞いてみても「精神的なアレです」と言ってました、どういう意味でしょう。
邸を包囲する必要がなくなれば、辺境軍もイングレイス領に戻ります。
予定より長くこちらに滞在しているので、もう少し療養予定の旦那様に代わってアーロンさんが一番大きな部隊を率いてゆくそうです。後は往路と同じように小隊ごとに別道程で戻るようで、目を覚ました旦那様がベッドの上で隊長さんたちとそれらをやり取りしていました。
エストラダ公爵は今年の冬をこちらで過ごすことも視野に入れているらしく、まだいらっしゃいます。地形からこの辺りは雪が深くなるそうで、不便だけれど白一色の景色が美しいと教えてもらいました。
旦那様が起きたのでバニュエラス閣下は王都に戻られました。殿下が、マルティン様がどうされているのか私は何も教えてもらえませんでした。でも安全面からきっと術師の方か、閣下と共に王都に向かったはずです。それまではどこかに拘束されていただろうに、まったく気に留めていませんでした。
旦那様が起きて、私の頭はようやく回り始めたみたいです。
嫁いで半年はご挨拶するだけの方だったのに、たった一年でこんなにも旦那様のことでいっぱいになるなんて自分でも思ってもみませんでした。
「エレナ」
呼んでくれる声が嬉しくて、弾むように「はい」と返事をしました。
「私はもう大丈夫だから、せめて手を」
「ダメです」
にっこり笑うと、旦那様はベッドの上でしゅんと小さくなりました。
普段は私が見上げているのに、上体を起こしていてもベッドにいらっしゃる旦那様より立っている私の方が視線が高いです。不思議な感じです。
「食事を運んだり、メイドのようなことを君がしなくていい」
「私がしたいんです。傷がちゃんと治るまで触れませんから、安心してください」
「もう治った。だから」
「ダメです」
そして小さくなる旦那様、ちょっと可愛いです。
これからアーロンさんと戻る軍医の方も「相変わらずの回復力だ」と仰っていて、もう数日で歩いて生活できるだろうというということでした。
私が触れたりしなければ。
今までぼーっとしてしまった私は、その分体を動かすことにしました。出立準備をされている兵のみんなに食事の配給に行ったら喜ばれました。
旦那様は口では大丈夫だと言いますが、お医者様の言葉が優先です。そして触れる時は了承を得てからという約束はちゃんと継続してくれているので、私がしっかりしていれば怪我の治りもきっと早いはずです。
「何だ、まだやってんのか?」
出発前に顔を出されたアーロンさんはちょっと呆れたように言いました。まだ、とはくり返される旦那様と私のやり取りです。
ついこの間はアーロンさんをにらんでいたリサですが、今はなぜか勝ち誇ったような表情をしています。
「おいリサ、ちょっとは奥様に言ってやれよ。あれじゃライムンドが暴走しても責任持てねえぞ」
「その暴走を責任持って止めるのがアーロンさんのお仕事じゃないですか?」
「今回はさすがに可哀相になってきたっつーか」
「奥様が許してるからこそのイチャイチャだって思い知ればいいんです」
「どこで限界きても知らねえぞ…俺は先行でいないんだからな……」
アーロンさんはしょんぼりしている旦那様の背中を叩いて「がんばれ耐えろ」と静かに励ましてから出発されました。
旦那様が目を覚ましてから十日ほど。
冬の足音がこちらのエストラダ領にも聞こえてくる頃に、私たちも出発が決定しました。
旦那様が受けた傷は、その箇所と深さから常人であればひと月は歩くのがやっとらしいのですが、旦那様はいつも通り黒い軍服に重い外套を羽織って普通に歩いていらっしゃいました。
「だからもう大丈夫、」
「ダメですよ」
この付近の瘴気はあの夜にすっかりなくなっていますし、万が一の時はホセがいます。だから怪我が完治するまでは旦那様には触れません。がんばります。
そのためにイングレイスからわざわざ馬車をもう一台呼んだのですから。クッションをたっぷり詰めこんでもらいました。
「ご心配なく、辺境伯。エレナ様の道中は不肖ホセと」
「わたしリサが奥様をお守りします!」
旦那様はクッションたっぷりの馬車に乗ってもらうとして、さすがにホセと私の二人だけで乗るわけにはいきませんからリサに同乗を頼みました。侍女でなくメイドが同じ馬車に乗るなんて、と他の貴族の方に眉をひそめられるのかもしれませんが、むしろリサが一緒なんて楽しいに決まっています。
元気よく宣言した二人に行手を阻まれた旦那様は、ぎゅっと眉間にシワを寄せていました。
「お前たち妙に仲がいいな?」
「奥様可愛い奥様を守りたい!の方向と熱量が合致しました!」
「なので辺境伯は安心してあちらの馬車で寝ててください」
はああと大きな溜息を落とした旦那様は、目の前の二人を無理にどかすことはせずに視線だけ私に向けました。
「エレナ」
「……ダメです」
私だって旦那様と一緒にいたいです。もう、ずっと、ぎゅっとしてもらってません。
お慕いする気持ちがあふれて淋しくて泣きそうです。
でもお役に立ちたいとかご迷惑になるからとか、そうではなくて、私がライムンド様のお体を大切にしたいのです。
辺境軍を率いている立場上、危険にさらされることも多いはずです。旦那様がお強いので今まで失念していましたが。
私は旦那様がお帰りになる邸で、きちんと休めるように努めて、そうしてこれからも一緒にいたいんです。
だからがんばります。
ちょっとの間くらい、大丈夫です。
ダメとくり返すだけでなく、その気持ちはちゃんと言葉で伝えました。大事だから、大切にしたいと。だから旦那様も無理はされませんでした。
『気持ちは嬉しい。だが少しは、…触れたい』
そう言ってしおれたように悲しい顔をされました。
そんなの、私だって同じです。
「旦那様」
叱られた時のロペとルナみたいな顔をしていますね。可愛いんですけど、負けちゃダメです。躾にはしっかりした線引きが必要だってセサルさんも言ってましたし。
「私だってさみしいです。でも旦那様が一番大事なことはわかってくださいな」
「……私の一番は君であって自分じゃないんだが」
「それじゃ私が悲しいです」
ぐうと唸って肩を落とした旦那様の前に立って、ちょっとだけかがむようにお願いしました。躾は線引きが大事だけど、褒めるときは褒めてあげないと。ってロペとルナの話ですよ。
「傷がよくなりますように」
旦那様の頬に、ちょっとだけ、唇がほんの少し触れるだけ。
ロビンの鳴き声みたいにチュと音がしました。
一瞬だったので私の髪がピカピカ光ることもなかったので、これくらいならきっと大丈夫です。
「あ、辺境伯が石化した」
「奥様!今の内です馬車に乗っちゃいましょう!」
リサに背中を押されたので、一緒に戻る兵の皆さんに旦那様をお願いして私は馬車に乗りこみます。ここからイングレイス領まで二日ほどですが、旦那様の体調を考慮して往路よりゆっくり進む予定です。
旅装ですので秋深い季節とはいえ普段よりずっと軽やかな服を、それでもよいしょと座席におさめて腰掛けます。旦那様とご一緒でないのは残念ですが、二人がいれば退屈しないだろうなと窓から視線をやると。
御者と話していたリサを待っていたホセが、うわ、と声を上げたのが聞こえました。
え、と思う間もなく馬車が傾いで荒々しく扉が閉まります。真っ黒な夜。そう感じた時には反対側に馬車が揺れて、私は座席の端にぎゅうと詰め込まれたみたいになってしまいました。
見上げたら、真っ黒な夜に金色の星がふたつ。
「辺境伯、ちょ、待って落ち着いてください!」
「いやあああ!奥様が襲われるううう!!」
外から二人の声が聞こえて、たぶんホセが扉を叩いているだろう音が馬車を揺らします。それに有無を言わせない強さで、窓枠が壊れるんじゃないかという勢いで壁に向かって拳が振るわれ御者が飛び跳ねたのが見えました。
その窓にカーテンをひいて、馬車が動き出してしまって、私は改めて夜におおわれてしまいました。
「あの、……旦那様?」
「触れてない」
そう、そうなんですけど。
座席の端に小さく押し込まれた私にかぶさるように、でも両腕を広げて壁についている格好なのでどこも触れていません。近いですが。
座面に片膝をついて身を乗り出している旦那様に見下ろされ、私は縮こまるように視線を逸らしました。だって、もう一度言いますが近いんです。
体が触れていなくても、息が触れる距離。
あまりに近かったので視線を落としましたが、失敗だったかもしれません。
「エレナ」
耳に声と息がかかってゾクゾクしました。
「好きで、大事だから大切にしたいのは私も同じだ。それはわかってくれるね?」
「は、い…」
「では、触れて体温を感じて確かめるのを愛おしいと思うのは、私だけか?」
「……いいえ」
「エレナ。ーーー触れても?」
「だ、め…っ」
息が耳にかかって。
顔が熱いです。体が、熱いです。本当は耳をふさいでしまいたいのに、顔をおおうことしかできなかったのは、耳に手をやると確実に旦那様の唇に触れてしまうから。
今触れてしまったら、もう、ダメです。
なのに耳元でふっと笑った気配があって、私はますます小さくなるしかできません。
「そういえば、君は耳が弱いな」
「ちがい、ます……」
「違うのか?」
そこで喋らないでください……!
泣きそう、泣きそうです。恥ずかしくて。ダメです旦那様が大切ですと言っておきながら、こんなにも触れて欲しくて仕方ない自分が恥ずかしくて。
触れそうで決して触れない距離でも、旦那様の腕に囲われていると冬が近い空気から守られているようです。薄く温かく包まれているような中で、自分の体ばかりが熱くなっていきます。
「いつも可愛い声を聴かせてくれるから、……好きなのかと」
わざとです。旦那様は絶対わざと意地悪してるんです。
ああ、もう、甘くて溶けてしまいそう。
「違います声がダメなんです…!」
「……声?」
「そうです旦那様の声はいつも低くて静かで素敵だなって、思ってますが、近くで聴くとドキドキしてゾクゾクして……とにかくダメなんです!」
だから溶けてしまう前に離れて、落ち着いた距離で、きちんとお話を。したいです、と。
口にする前に黒髪だけがさらりと頬を撫でていきました。
「これが、ーー-…好き?」
そうしてとびっきりの優しい声が私を溶かしてしまいました。
へにゃりと力の抜けた私の腰をさらって、はい遠慮なく触れて支えてくれた旦那様はようやく座席に腰掛けてその上に私を乗せました。
膝の上です。抵抗する力なんて体のどこからも出てきません。
結局くっついてます……すごく密着です……でも私の髪もほとんど光っていませんし気持ちいいしもう諦めて旦那様の胸に頭を預けました。それしかできないんですけど。
「本当にくたくただな。可愛い」
手首を持ち上げられてもされるがままの私で遊んでいるのか、頭上から楽しそうな声が降ってきます。くっついていると、その声が今度は体から響いてくるみたいです。
「声か。それは知らなかった。今度からぜひ有効活用しよう」
しないでください。私の心臓がもちません。
自分の心臓がこんなに忙しく動いていても、頭を預けてくっついていると旦那様の心臓の音もことこと聴こえます。ちょっと早いですか。旦那様も嬉しくて鼓動が忙しくなりますか。
弄んでいた手を私の膝に返して、旦那様は巻きつくように抱きしめてくれました。
嬉しいですけど、あの、手が。
「では私の可愛い奥さん。さみしい夫をなぐさめてくれるか、それとも君の耳元で愛を伝えようか、どうする?」
手が、その、艶かしい動きをしているんですけど。
くすぐったさのあまり身をよじると、大きな手に頬を包まれて上向く格好になりました。髪を耳にかけてくれる指先が、どうしても夜の色香を思い出させます。
「そ、その選択肢しか、ないんですか?」
「どちらがいいかな」
「旦那様、手が、っん! ほか、他になにか」
「キスは?」
「いっ一回だけ……」
口にしてから、旦那様の表情を見てから思い出しました。
金色の目が煮詰めた蜂蜜みたいにトロリと溶けて落ちてきそうで、それを浴びたら私はお菓子になってしまう、きっと残さず食べられてしまう。
そんな甘くて甘くて蕩ける笑顔で思い出しました。
キス一回がどこまでなのか、きちんと定義するの忘れてました…!
それから旦那様はどこでもずうっと私を離さず。
馬車の中も、馬を休ませる休憩中も、宿場でも、離れると呼吸できない病みたいにくっついていたので、ヴァレンティンの邸に到着した時の私はくたくたのふにゃふにゃでまったく役立たずな状態になっていました。
出迎えてくれたセサルさんが、私の状態を見るなり邸中に響き渡るような声で「坊っちゃま!!」と叫んで旦那様を連行していきました。セサルさんが旦那様ではなく坊っちゃま呼びする時のお説教は、長いです。
それからあー…と唸っていたアーロンさんをリサがぽかぽか叩いていました。なんで止めてくれなかったのと責めているようでしたが、部隊の先行はアーロンさんのお仕事ですから。
久しぶりに戻った部屋で窓を開けると、冷たい空気と一緒に小鳥が一羽舞いこんできました。
春に拾ったコマドリ。
私たちがいない間はあまり戻らなかったと聞いています。このまま自然の中で過ごすのかと思われていたのですが、帰宅の挨拶に来てくれたのでしょうか。
ピュルピュル鳴いて、いつでも開けたままの籠に自分で入りました。その中には果物を小さく切った餌を置いてあるのでそれが目的だったとしても。
名前をちゃんとつけていませんでしたが、ロビンと呼んでいたそれにもう愛着がわいてしまったので、鳥籠の中に向かって「ロビン」と呼びかけました。
「ここで一緒に暮らしましょうか?」
チチと鳴いたのがまるで返事のようだったので、私は鳥籠の扉を閉めました。
誰がこまどり殺したの?




