奥様は、旦那様のお役に立ちたい(6)
狩猟会をそのまま継続することはできず、皆様エストラダ公爵の領主館で過ごされています。
参加されていた東方の貴族の方が謀反の罪と捕らえられ、普段であれば捕物が終われば我関せずとすぐに通常通りに過ごされる方々ですが。
今回は瘴気が発生し人が取り込まれた事実があります。皆が「無事」だと判定されるまで、自領に帰るどころか本館から出ることを禁止されました。
マッサーナ家の方々は今回の件を了承されていたので、館内に軟禁状態の皆様を宥めすかして対処されているそうです。
それでも狩猟会に参加されている貴族は多く、さらにその使用人たちもおりますのでどうやってその状態を保っているかというと、イングレイスの辺境軍が館周辺を囲っているのです。
バニュエラス閣下は確かにわずかな人員でこちらにいらっしゃいました。国軍は王都を守っており、今回捕えられた主犯も手薄だと思ったのでしょう、実際に動いたのは国軍とは切り離された辺境軍ですから。
私たちが出発した後、道程を分けて向かっていたそうです。知りませんでした。
夜会の日から一昼夜が経ち、そんなエストラダ領になんと王都の塔から術師の方いらっしゃいました。しかも十名ほど。
彼らは瘴気の判定に来てくれたらしく、これも到着の日数を考えるとマルティン様の行方が不明になった時点でこちらに向かってくれたと思われます。可能性のある場所それぞれに分かれて派遣されたとなると、それなりの人数が塔から出ていることになります。
塔の術師たちは探究心に従って遠出もされますが、多くの貴族の前に出るなどめったにありません。
彼らの多くが、元は家に捨てられて塔に売られた貴族の子女だからです。
本館と行き来をしているリサたちメイドによると、術師の皆が室内でも外套を羽織ったまま頭からフードをかぶったままの姿でいるらしく、まるで童話の悪い魔法使いみたいだと言っていました。悪い魔法使いなんて、吸血鬼と同じく創作ですけど。
ちなみに、彼らが来るまで魔力判定をしてくれていたホセは、術師の到着を察して別館に閉じこもってしまいました。
「『兄』たちには絶対、絶対会いたくないです」
と小さくなっていました。それまでがんばってくれたので、そのまま療養してもらってます。
すでにご無事が確認されていた王女殿下とその御一行は、バニュエラス閣下の部下である方をさらに護衛として引き連れて初めに出立されました。
アーリーシャ様は、国土縮小の件で隣国への輿入れの話があるそうです。
まだ検討の段階ではありますが、それを知った王女殿下が「それなら多少の無理を聞いて欲しい」と狩猟会へ参加されたということです。
幅広い年齢の方が集まりますから、夜会に出席できないご年齢の殿下は本当に楽しい思い出づくりというささやかなご希望でいらっしゃったとか。
お兄様のことも本当にご存じなく。
「思い出づくりなら狩猟会はどうか」と進言した者の名も素直に教えてくださり。
私への親しい態度も、甘える相手がいなくなって淋しく、お兄様のものであった私なら良いだろうと思った。と、話していたそうです。エステバン王太子殿下には、輿入れの話の前にちゃんと優しくしてあげるように手紙を出さないといけませんね。
だからライムンド様に興味ひかれたのも、偶然だったと。
お見送りした時に、最後に会えなくて残念だと仰っていました。
あの夜から四日ほど経ち、領主館から出てゆく人も増えてきましたが。
旦那様は、まだ目を覚ましません。
バニュエラス閣下はこちらに残り、辺境軍をまとめてくださっています。アーロンさんが一番忙しそうです。
旦那様は別館の一室で眠っていて、私は、その隣の部屋で皆の話を聞くばかりです。
お世話ひとつできないのに、触れられないのに、お顔が見える同じ部屋にいることはできなくて。二階の窓から日に日に深まっていく秋の庭を眺めています。
一度、エストラダ公爵が別館を訪れてくださいました。
こちらからご挨拶に伺うべき非礼をお詫びすると、良くなるまではゆっくりしてるようにとお言葉を頂きました。
ここはエストラダ公の飛び領なので、小公爵夫妻が先に領地に戻り仕事を再開されるそうです。公爵は健康ではありますがご高齢なので、もう仕事は息子たちに任せてあるのだと穏やかに仰っていました。
自分たちはまだここにいるから何かあったら遠慮なく言うようにと、大変な心遣いを頂戴しました。弟には何もしてやらなかったことを今さら思い出したと。
親しい相手にさしあげる何かを、私はひとつも持っていません。
眠っている旦那様に声をかける勇気の一欠片も。
ないことが悲しい。
「奥様。ちょっといいですか」
メイドたちが出入りするために開けたままの扉を、便宜上ノックしたのはアーロンさんでした。
ベルトで留めた衣装鞄を持ったリサが、その横を通り過ぎるついでにどうしてかアーロンさんをにらんでいました。ケンカしたでしょうか。
「どうかされました?」
「ライムンドが寝てれば、俺たちは奥様の言葉に一番に従います。そりゃ間違いないですし誰も嫌だとは言いませんが、あー……本気で帰っちゃいます?」
「私には、こちらでできることがありませんので」
イングレイス領に帰れば、仕事の手伝いはできます。少しは何かができると思うので、ここを出ると決めたのは昨夜のことです。
ヴァレンティン家のメイドたちは愛らしく遠慮なく「いいんですか?」と言葉にしてくれますが、私が決めたことをくつがえすことはできません。渋々ながらも手際よく荷造りをしてくれています。
アーロンさんは頭をかくように短い髪をかき回して、あーと唸ってから、廊下から戻ってきたメイドに「邪魔です」と言われていました。
「ライムンドはまだ動かせません。起きれば別ですが」
「はい」
「置いていくんですね?」
「はい。閣下のメイドもいますし、マッサーナ家の使用人も気にかけてくれます。アーロンさんや辺境軍のみんながいるので安全でしょうし」
「んなことはどーでもいいんです。奥様は、大丈夫なんですね?」
はいと答えました。じゃあ、とアーロンさんは言いました。
「あいつの顔見て、直接言ってやってください。寝てますけど」
お借りしている客間の寝台を目にして、立ち止まった私の背中をアーロンさんは静かに押しました。優しくてでも有無を言わさないような。
数日ぶりに見る旦那様は、元から白い肌がさらに陶器のように白いなという程度で苦しげな様子はありませんでした。
近づくのをためらったくせにお顔を見れば思わず手を伸ばしてしまい、慌てて引っこめた手の平に穏やかな呼気が触れたことに泣きそうになりました。本当に眠っているだけです。
「今は人間らしい生活になりましたし、まあ以前だって若い頃よりはマシでしたけど。荒れてる時は一日二日は寝っぱなしなんてよくあったんで」
大丈夫と言われましたが。私が触れてはきっと大丈夫ではなくて。
旦那様に何もできないなら、旦那様のために何かできなければ。せめてこの方が健やかでいられるように、領での仕事をしたいと思ったのに。ここへは出立の挨拶に伺ったのです。
なのに。
胸の奥がぎゅーっとなってうずくまってしまいたい気分です。
血の気が落ちる気配がするのに、顔が熱い気がします。
役に立たないお慕いする気持ちが。
あふれそう。
「……起きて、ください」
好きです。
あなたのために何かしたいのに、あなたに触れて欲しいんです。
求めるばかりのワガママをこぼす私に、アーロンさんは椅子をすすめてくれました。腰掛けて、出発するどころか動く気もなくなってしまいました。
「ずいぶん前、二十年以上前になりますかねえ。俺はそりゃもう無愛想な坊ちゃんに会いました」
旦那様のお顔から視線を動かせないまま、アーロンさんの声にただ頷きました。物語を読み聞かせるような調子で、私の反応は求めていない感じでしたので。
「子供の頃は可愛かった、なんてことはなかったです。このまんま。顔は整ってたんで貴族様って感じでしたが。……あ、やべ、もしかして奥様まだ生まれてないですね」
まだ17歳の私に二十年前、と言われても感覚はわかりません。でもそれくらい旦那様とアーロンさんはずうっと一緒なのだなと思いました。
「おっさんには地味に衝撃だわ、そりゃ犯罪臭するわ。じゃなくて。奥様もご存知の通り、俺は坊ちゃんのためにと親父に拾われました。それに不満はなかったんですよ本当に。親なしのガキが自力で稼ぐよりよほどいいもん食わしてもらっていいもの着せてもらって、充分過ぎるほど教育もしてもらいました。恩に報いるなんてキレイな感情でなくても、仕事として対価は払うべきだとは思ってましたし。坊ちゃんも愛想はなかったがまともな感覚の人間だった、一緒にいればそれなりに情もわくってもんです」
だから、この仕事に不満はなかった。ずっと続けていくんだと思っていた。
アーロンさんはそう言いました。
「来たばっかりの奥様みたいな感じですかね」
そう、言いました。
初めてお会いした時の旦那様は眠そうで、私のことだけでなく何にも面倒そうでした。
以前と違って限界量を超える瘴気を取り込むことはなくなっても、常に倦怠感と眠気に悩まされているので生活自体が億劫という感じだったらしいです。
そういえば、セサルさんにもそれでは常に消化できていないのではないかと、尋ねたりもしました。そうですねって曖昧に同意されただけでしたが。
星詠みの魔力は珍しいので、イングレイス領では魔物への対処方法が確立されています。討伐の現場には、瘴気に取り憑かせるための動物を必ず連れていくなど。けれど討伐隊の兵士が取り込まれる可能性は無くなりません。
だから、星詠み師はいつでも前衛にいるのです。
旦那様も都合のつく限りはどの区の討伐にも参加されます。
「旦那様、っと先代が亡くなった時は悪天候での被害がひどくて、誰もがその対処に追われました。自分のことで手いっぱいのところ、こいつは領地全体のことを考えなきゃいけなくて。それが領主だと言われたらそうなんですけど。俺もがんばりましたよーなのにさらに出征命令まで重なってふざけんなーって思いましたよ」
その時のことを思い出したのか、放り出すような憤りを混ぜた声色でした。
話には聞いていても、私はその時まだ自領でぼんやり過ごしていただけなので想像もできません。大変でしたねと言える立場ではありません。
「ライムンドはいろいろ恵まれた才はあるがどうにも残念で、駄目だコイツいつか自滅する危ないと思ったのもその頃です。つまり、俺は、その頃まで本当にただ仕事だとしか思ってなかったんです」
もちろん今でもちゃんと「お仕事」してますよー、なんて。
軽やかに口にする人は、きっと、絶対的にライムンド様の味方なのです。
「奥様はどうです?」
そうしてアーロンさんは私に尋ねました。
「他者の都合でイングレイスに来て、無愛想で面倒そうな男に会って、まあ仕方ないからお仕事しましょうって思ってませんでしたか。あなたは善意かもしれないし、強迫観念からかもしれない、でもそうして情がわいたから仲良くしてみようなんて思いついたんじゃないですか」
旦那様と仲良くなりたいので、ご一緒できる機会はないですかと。アーロンさんに相談した時のことを思い出します。
いつもは旦那様をからかうような軽快な笑みの人が、穏やかに笑って、じゃあこうしましょうと提案してくれました。
「コイツは残念というか情緒がどっか欠けているというか。母親の顔も知らなくて実感がわかない、父親の時は言葉通りそれどころじゃなくて事務的に処理するしかなくて、親しい人間に対してどう感情を向けていいのかわかってないんです。奥様にやらかしたことを擁護する気はないですが、今は、どうですか?」
重ねて、問われて。
置いていかれたら泣きますよコイツ、なんて言われました。
「ーー……泣かせるな」
低い、掠れた声に胸の奥にぎゅーっと集まっていた気持ちがどろっと溶けた気がします。
「してない俺じゃないむしろお前が泣くかと思って」
「……どうして私が」
「奥様がお前を置いてイングレイスに帰るっていうから」
「…………それは泣くかもしれない」
何度か瞬いた黒い睫毛が金色の目を洗って、顔を横向けた途端に咳き込んだ姿をアーロンさんは笑っていました。水差しや清潔な布などは枕元に置いてありますが、それは奥様の役目だと言って彼はいつものように軽快に手を振って出ていってしまいました。
えと。お水とか。
頭が回りません。怪我は快方に向かっていると聞いていても、旦那様が眠る部屋に立ち入りもしなかった私はどんな様子だったのかまったくわかりません。
どうしましょうと、椅子に腰掛けたまま旦那様の咳が落ち着くまで待ってしまいました。よく考えなくてもひどいです。
ああ、と声か息かわからないものを吐き出した旦那様は、枕に頭を沈めたまま私を見ました。
散らばる黒い髪、猫のような金色の目は少しぼんやりしているかもしれません。
「……私は置いていかれるところだったのか?」
と不安げに問われました。首をぶんぶん横に振りました。
「そうか。よかった。いかん、想像でも泣けるな」
『私に拒否権はない。だが、私に妻はいらない』
初めてお会いした時には、そう言われた時には、あらまあ仕方ないですねとしか思いませんでしたが。今同じようにライムンド様から言われた私も泣いちゃいます。
「エレナ、声を聞かせて……いや、違うな」
悲しくて、さみしくて、何もできなくて、でも仕方ないとは思えません。
一緒にいたいです。それを諦めたくありません。
そう感じる気持ち。
私があの頃と変わったように、旦那様も変わっていますか。自分の初めての感情に驚いて浮かれてワガママを言って落ち込んだり。旦那様も同じようなことがありますか。
枕に埋もれたまま旦那様は笑ってくれました。
「おはよう。エレナ」
「はい、……おはようございます」
終わらなかった…!
いちゃらぶでもう一話です。




