奥様は、旦那様のお役に立ちたい(5)
暴力表現、流血あります。ご注意ください。
クズへの制裁は物理です。
床に、毛足の長い絨毯に顔を伏せると、ホセがあけた大きな穴から入ってくる夜風を感じて身震いしました。
寒さを感じながら。すぐ脇に剣の鞘が捨てられるのを目の端で見ました。
「ああ、よく見たら塔の星詠み師か。クビにしたはずだが、お前が拾ったのか?情夫連れの輿入れとはつくづく見下げた奴だ」
抜き身の剣が彼の手に握られているのだと、それを振るうのに何もためらいがないのだと、甘い香りが知らせるようです。
「もう要らないだろう?お前は、俺が存分に可愛がってやるからな?」
それが私に振り下ろされるのではないと、わかって、どうしようと考えたのはわずかでした。
魔者は何も普通の人と変わりません。ただ感情を抑える理性が脆くなるというなら、怒りに触れるような言葉を発すれば彼の気を引けるのではないかと思い。
「ーーー恐れながら!マルティン様!」
もうずっと何年も口にしていなかった名を、絨毯に向かって叫びました。
風を裂くような音はせず、吹き込んでくる夜風の冷たさに自分の指が震えるのを見ていると。頭のてっぺんに痛みが走って視界がひらけました。
「お前に」
髪をつかまれて上向く格好になった先で、美しい容貌が怒りで歪むのを見ました。
「名を呼ぶのを許していない」
引きずられるほど強く髪を持ち上げられ、でもすぐに床に放り出されます。痛いのが背中か頭かもうわかりません。
夕暮れの菜の花畑に転がるとその花を、ドレスの裾を踏みつけられました。逃げられない。でも元からどうやって逃げるのかもわからない。
息を呑む私の姿を見下ろしている方は、それを愉快とも思わず怒った表情のまま。
「確かに顔は美しいが、……貧相な体だな。まあ具合はいいのかもしれないが」
踏みつけたドレスの布を蹴飛ばしました。
こわい。でも、それより、嫌だと思って。
背中をかけ上がった悪寒で肩に力が入り、脚に絡まる布を握りしめてしまいました。
花畑を踏み荒らすような足から引き戻したいのか踏み入ってくるものから隠したいのかわからず、たぶん、彼からすればほんのささやかな抵抗だったと思うのに。
いや、嫌です。触れないで。
抜き身の剣をまだ持ったままの人が、その意識が倒れたままのホセに向かないようにと思うのに。そう自分で仕向けたくせに。触れられるのは嫌で。
「ぃ、や……!」
声に出してしまうと、ようやく彼は口の端を上げて笑いました。
それこそ猟犬に追い立てられる子兎のように、非力で簡単に仕留められるとわかっている獲物を見て笑う。その心持ちが、熱のない手が、嘲笑う声が、嫌です。
旦那様じゃ、ない。
「お前は最初から俺の所有物だ。愛でようが壊そうが俺の勝手だろう」
否定する言葉を口にする前に、ふと彼が動きを止めたような気がします。けれどすぐにドレスの胸元をつかんで私を無理矢理引き上げました。
浮かんだ疑問と飽和状態の頭で遠くに聞く重い音と。
真っ黒な。
「待てライムンド!!」
何が起こったのか、私にはとても把握できませんでした。
目の前にはもう結果があって、そこからゆっくりと理解していきました。
彼が私を引き起こして腕に抱えたのは盾にするため。重く聞こえていたのは大勢の足音。真っ黒な夜みたいだなと思ったのは、駆けつけてくださったライムンド様の姿。
彼が突き出した剣先がどうして旦那様を貫いたのか、私がいるから、私を突きつけられて足を止めてくれたから、だから旦那様がこんな傷を。
剣の刃が人の体に埋められているという、私にはまったく馴染みのない光景が理解できません。
「はは、残念だったな」
体から引き抜かれた剣には、部屋の明かりだけでもはっきりわかる冴えた赤色が流れていました。それが旦那様のものだなんて、全然わかりません。
「俺だけ焼いてみるか?丸焼けになってもこいつは離してやらんぞ? いい様だ。次は首を突こうか」
引き抜かれた勢いで一歩踏み出した旦那様は、それでも自分で立っていました。
盛大な溜息を吐いて。
「横に振り抜く力もないなら、剣など持つな」
下げていた腕を素早く持ち上げたかと思うと、私の頭の上にあった美しい顔を片手でつかみ上げました。
「はな、…あ、ああああああ!!」
白百合のような甘い香りを上塗りする、焦げつく匂い。
そして絶叫とともに私は放り出され、立っている力もなくよろよろと絨毯の上に座りこんでしまいました。
なにから。何から考えたらいいでしょうか。ホセの安否と。邪魔をした謝罪と。旦那様の怪我と。
「今さら楽な死に方ができると思うな?瘴気で腐り落ちるまでにすべて証言して、すべての痛みを知れ」
ああ、旦那様に適当に放り投げられて床を転がっている彼の心配もした方がいいでしょうか。
「だから待てって言ってんだろ!おーいこっちも誰か手伝え!『これ』さっさと確保しないとライムンドがやらかすわ」
「眼球を焼いただけだから、人相はわかるだろう?そもそもどうして声をかけた、思わず止まったじゃないか」
「奥様の前でやらかす気だったのか」
「……地味に、痛いんだが?」
「おお、けっこう深いな。とりあえず止血しとくか。そっち、ホセは生きてるかー?」
「…………生きてまぁす」
床に座りこんだまま、アーロンさんの手を払って私の前に膝をついてくださった旦那様の顔を見て。脇のあたりからじわじわと広がっていく赤い染みを見て。
「遅くなってすまない。怖い思いをさせたな、エレナ、もう大丈夫だから」
全然、大丈夫ではなくて。
傷の手当てをしないと、そう思うのにようやく持ち上げた手がカタカタふるえていたので隠すように自分の胸元に引き寄せます。
ホセはここから離れろと言ってくれたのに、私が勝手をしました。それでご迷惑を。旦那様に怪我を負わせたのは。
私のせいで。
私の様子を見て考慮してくださっているのか、旦那様は手を伸ばそうとしてためらって視線をさまよわせてから、ぎこちなく笑ってくれました。
「大丈夫、大丈夫だから。……抱きしめても?」
「っあ、…申し訳、ございません……私の、せいで」
「エレナ」
さし出してくれた手にすがるように、ふるえる手を置くと自分でも驚くほど髪が光りました。
それは眩しいくらいで、間近に見ただろう旦那様は片目を細めていました。でも眩しいというより、痛みを堪えるような表情だったので、思わず強くつかんでしまいました。
「旦那様、傷が。早く手当てを」
「いや、違う……」
床に両膝をついたなと思った時には、旦那様の頭がぐらりと揺れて、私で支えられるはずもなくそのまま床に倒れてしまいました。
「ライムンド様!」
「エレナ様!触らないで!」
崩れ落ちた旦那様に改めて触れる前に飛んできた鋭い声に、びくりとして手を引きました。
顔を上げると、片手で自身の頭を押さえたホセがいて、その顔半分くらいが赤く流れた血で汚れているのに息を呑みました。顔もそうですし、片目、左目の白い部分が濁るように真っ赤になっています。
「こんな顔ですみません。エレナ様、今は辺境伯に触らないでください」
「あ、の……」
「大丈夫です。僕も辺境伯も、術師はまあこれくらいじゃ死にませんが今あなたが触れるとちょっと、わからないので」
「私のせい、で」
「奥様。ライムンドは大丈夫です。ただ医者に診せてきますんで」
下の方も片付いたんでリサたちを連れてきます、閣下のところの使用人も活用させてもらいましょう、だから大丈夫だと。アーロンさんが部屋にあった上掛けを私に巻きつけてくれたのに。
私はずっとふるえていました。秋も深まった寒い夜だったので。
それから夜が明けるまで。
別館に駆けつけてくれたリサたちとバニュエラス公の使用人たちに囲まれて過ごしました。
詳しい話は聞いていませんが、本館広間の夜会でも騒ぎがあったとリサが言ってました。閣下のメイドたちは「面白いほど網にかかってくれた」という閣下の言葉を聞いたそうなので、今回の件はどうやら落ち着いたようです。
マルティン様、魔者となってしまった殿下が瘴気を呼んでしまった以外は、想定内だったということだと思います。
私は本館の客間には戻らず、ホセがすべて瘴気を「食べて」くれた別館で過ごしました。王女殿下はご無事だと聞きましたが詳細は伝わってきません。朝日が眩しくて、ようやく眠気のやってきた私をリサたちがベッドに入れてくれて少しだけ眠りました。
眠って起きても、私の髪はまだピカピカ光っています。ぼんやりでなく、日中でもわかるほど。
どうして。いろいろなことに対してのどうしてが頭の中でぐるぐるしている私に会いに来てくれたのは、頭に白い包帯を巻いたホセでした。
ただぼんやりしている私より、彼の方こそ療養しなければいけないのにと慌てましたが、ホセはいつものように笑ってくれました。
そうして、真面目な顔になってから私に頭を下げました。
「申し訳ございません、エレナ様、あなたを守れませんでした。僕の処遇は辺境伯が起きてからになりますので、アーロンさんに頼んでその前に話をする時間をもらいました」
謝るのは私の方なのに。
ホセは何度も私を逃がそうとしてくれたのに、残ると言ったのは私です。なのに怪我を負わせてしまいました。ホセにも。……旦那様にも。
それに、残念ながら昨夜この別館にいた使用人たちは皆が魔者だと判定されたそうですが、本館にいる貴族の方たちに被害が及ぶのを防いだのも彼です。非がないどころか功績です。
謝罪と、彼への罰があるなら進言すると、言いたいのに今日は言葉がきちんと出ません。
私は本当にワガママで、ひどいです。
「旦那様は、ご無事ですか…?」
気になるのはそればかり。ようやく出た言葉を自覚してから、目の前のホセの身を案じる言葉ひとつかけていないことに気づきます。なんてひどい。
「はい。そのことでお話を」
なのにホセはまた笑ってくれて、大丈夫だから安心して欲しいとくり返しました。
「エレナ様の魔力特性は前例がないので、あくまで推測になりますけど」
私の髪がまだ強く光っていること。私が、旦那様に触れてはいけないこと。
それらのことについて。
「あなたもご存知と思いますが、ほとんどの人には魔力があってこの魔力回路は全身をめぐっています。だから瘴気を取り込んでしまうと肉体も壊死していくんですが。血液みたいなものと想定してください。速く走るため、強く剣を振るうために体を鍛えるのと同じで、自身の魔力回路を理解した術式を構築すると強く発現できます」
私には自分の魔力はほとんどありませんが、本から得た知識はあります。
人が持つ魔力量は、成長や鍛錬で増減もしますが生まれつきによるところが大きいです。そして体を使わないと衰えるのと同じように、魔力を循環させて発現させることがないと魔力量も減ったりするのだそうです。
「瘴気は魔力に作用する感染症だと言う人もいますね。それも強力な死に至る病で、特効薬はない。では瘴気喰いがなぜ魔者にならないか、単に僕らの魔力が瘴気と徹底的に相性が悪いだけです。風邪をひいたのに寝ていたら自然治癒した、みたいな感じですかね」
一般的な人はその強力な感染症に耐えられず、星詠み師は自己治癒で瘴気を消化できる。
ただ、消化できるだけであって、瘴気を取り込めば体調も悪くなるし回復のために睡眠が必要になるのだそうです。症状はそれぞれというのも風邪みたいだと、ホセはわざと笑ってくれました。
「その前提でお話します。例えば風邪をひいて熱がでるのは、体の中の風邪の元を追い出すもしくは退治するためです。びっくりしますが体には必要なことですよね。もちろんあまりな高熱は風邪を退治する以外に体への負担がありますから、解熱の薬を飲んだりします」
この薬が、術師にとっての私なのだそうです。
「魔力は自然治癒力を補助します。エレナ様は、瘴気という病に対する薬です。とびっきりの。でも症状によって飲む薬は違いますよね? 今回は怪我の治癒のために巡っていた魔力を吸い上げてしまったために、辺境伯が昏倒したと思われます」
「……私が触れたから、ですか?」
「そう仮定しています」
「旦那様の容態は」
「傷は深いようですが死にはしません。元から瘴気喰いの症状も睡眠、意識の遮断だったようですから、怪我を治すためにじっと眠っている動物と同じだと思ってください」
大事ないとホセは言いましたが。
本来なら、たくさんの魔力量があって強力な術式を使える旦那様は、病にも怪我にも強いのだそうです。
病にかからない、怪我をしないということではなく、治りが早いという意味で。
なのに怪我をされた旦那様に、私という間違った薬を与えてしまった。
状態を悪化させてしまった。
『夜の君は初めて見たが、とても綺麗だ』
ぼんやり光っている髪なんて誰もが薄気味悪いと口にして、亡霊だと言われてきたそれを旦那様は褒めてくださいました。事もなげに夜道に便利だとも言ってくれました。
触れた魔力を発散してしまう魔力循環の特性は、星詠み師である旦那様のお役に立っていると思ってました。
それが今は、旦那様の負担にしかならない。
服の上から触れても、手をつないでも魔力に反応していたので、そんな些細な接触もダメならば身の回りのお世話一つできません。
「傷がよくなれば、もしくは魔力が回復すれば自然と目が覚めると思います。それまでです。たったそれだけですよ、エレナ様、あなたが悪いんじゃありません」
「でも、私が触れたから。そもそも、ちゃんとホセの言うことを聞いて、あの場にいなければ」
「辺境伯に傷を負わせたのは馬鹿王子ですし、あなたを囮にするような計画をしたのはバニュエラス公ら軍部です。馬鹿王子が釣れた上に政変の主犯につながるような実行犯を捕えられたんですよ、どうしてあなたのせいなんですか?」
「私が、こんな、役立たずだから」
何かのために、ならないと。
私は意味がない。ここにいられない。
「エレナ様。……泣かないでください」
ひどい顔をしているだろう私に手巾をあててくれたのは、部屋に控えていたリサでした。だから泣かないでと言ってくれたホセの顔は見えませんでした。
彼はきっと言葉だけでなく私をどうにか宥めたかったと思います、見えなくなる前にとっても困った表情をしていたので。
だけど優しい星詠み師の彼もまた怪我をしているので、私に触れると具合を悪くしてしまうはずです。
「ごめんなさい……」
「謝りに来たのは僕ですよ。辺境伯に触れるな、なんて理由もなしに言えませんのでお話しましたが、あなたに責任など何もありません。あくまで原因の仮定です」
「違うんです、ごめんなさい、ホセが言うことはわかります」
ただ私は、きっと誰かの役に立てると学んで努力してきたはずなのに、もう誰かではなくライムンド様がいいんです。
なのに私では何もしてあげられない。お慕いしている気持ちしかない。
それがいったい何の役に立つのでしょうか。
わからなくて、悲しくて、泣いてしまって、ホセやリサたちを困らせてしまいました。




