奥様は、旦那様のお役に立ちたい(3)
エストラダ公爵の領主館はとても立派で、庭を抜けた先には別館があります。
本館が広いので二階建てのその館はこじんまりとした印象を、……受けませんね。王都のちょっとしたタウンハウスくらいでしょうか。淡い橙色を帯びた石造の壁が森を背景に静かに凛と立っています。
アーリーシャ王女殿下はこの別館にお泊まりです。
お連れになった侍女や使用人、公爵家が用意した使用人らと王女殿下だけがいらっしゃいます。まあ殿下がお隣の客間にいるなんて気を遣ってしまいますからね、本館の大部分をさいて用意するより妥当で丁重なおもてなしだと思います。
今日は、こちらの別館でアーリーシャ様とお茶会です。二人きりです。
でも護衛の名目でホセは一緒です。室内に控えるのもお許しいただきました。そしてなんと、今日はアーロンさんも一緒です。
心強いのですが、昨日の話を聞いた旦那様とアーロンさんが顔を見合わせて私のところへ残ってくれたのを考えると、物理的な対処が必要でしょうかと勘ぐってしまいます。大丈夫だと思いますけど。お茶するだけですけど。
「ね、お姉様。それで辺境伯の成果はいかほど?」
「昨日は腕ならしだと、ほとんど獲物を追わなかったそうです。今日もよく晴れましたから、改めて期待しましょう」
「そうなのね。まだ明日も明後日もあるし、でも待ちきれないわ」
「アーリーシャ様は、童話の姫様のようにゆっくりお待ちください。騎士は最後に登場しますから」
それに、なんというか。
この方は悪意がないんですよね。
王女殿下はどうも誓いの口上を述べる旦那様を見ていたようで、騎士という身分や称号がない現在において「騎士様だわ!」と大変喜ばれたみたいです。
騎士が誓いを違えて他の女に捧げていいもんか?とはアーロンさんの言葉です。口上の内容を考えるとその通りなんですけども。
それを理由に断りましょうか直答を許してもらえるなら僕が言ってやりましょう、とはホセの言葉です。気持ちは嬉しいのですが、断りの言葉を平民であるホセから伝えるのは殿下でなく周囲も許してくれないかと。
旦那様は、眉間にシワはなかったものの考える時の難しい顔をされて。確認してみようと言いました。
誰に。バニュエラス閣下と、王都でお仕事中のエステバン王太子殿下に。状況によっては王女殿下に狩猟の女神になってもらうしかないが、と。
『あいにく私の心臓はひとつしかなくてな。私の妻が持っているので、他にはくれてやれない』
よくばりな私にライムンド様は全部をくださいました。
だから大丈夫です。
「それでお姉様にお願いがあるの」
「はい。アーリーシャ様」
「わたくしは夜会に出られないでしょう?だから、お姉様が遊びにきてくださいな」
それは、夜会が開催されている間にこちらへ来ておしゃべりしましょうというお誘いですね。途中で抜けることになりますが、それ自体はとにかく。
楽しそうな、キラキラとした期待のまなざしをする王女殿下の様子ですと。
「では、私でよろしければこちらに参ります。会場のお菓子をお持ちしましょう、少しでも雰囲気を味わえますように」
「辺境伯も一緒に来られるかしら?」
そう、なりますよね。狩りに行くなとは言えませんから、夜会の時間帯の方が自由に行動できます。
殿下のお呼びであれば本来は拒否権はありませんけど、この可愛いお願いくらいでしたら旦那様の判断に委ねても許されるでしょうか。
「アーリーシャ様、淑女は紳士たちの交流を尊重するものです。なので、お願いは伝えますがお約束はできかねます」
「そうね。いいわ、いいのよ。でもお姉様はいらしてね、約束よ」
夜会の準備があるので長居できず、王女殿下と約束をしてお別れしました。
私が客間に戻るとすでに旦那様は狩りからお戻りで、準備があるだろうからとアーロンさん、ホセを連れてバニュエラス閣下の所へ行かれました。
アーリーシャ様を訪ねる件、言いそびれました。
約束したのでお伝えしないと。でも言いたくないなんて。……私、全然大丈夫ではないみたいです。
こんなワガママばかり。今ではちゃんと、ちゃんとライムンド様が私と向き合ってくれて確かめて全部くれているのに。
もっと欲しいなんて。
「……嫌な子です」
私の言葉を拾ったのか、髪を結い上げてくれていたリサの手がふと止まりました。正面の鏡にはぼんやりとした私が映っています。
「誰がですか?あのお姫様?」
「違いますよ。そんなこと口にしてはダメです」
「はぁい。でも、人のものが良く見えても実際に欲しがったらただのワガママじゃないですか」
「騎士様のような姿が格好良かったのは本当ですから」
「そうですよ、旦那様は見た目だけはいいんですから。奥様はそうやって自慢していればいいんです」
だけって言われました。リサの目にはまた違って見えるんですね。
不思議で面白くて、少し笑ったらリサは思いっきり笑って「すぐに仕上げますからね!」と私のぼんやり光る髪をせっせと編み込んでくれました。
私は夜会用のドレスはほぼ持っていません。春の建国祭で仕立てただけです。
だけど新年の祝祭に合わせて一着だけ、旦那様の色のドレスを作りたいなと考えていた試作のひとつを急遽仕上げてもらいました。本当に無理を言ったと思います。
旦那様の黒髪が大好きなのでどうにか黒を入れたいのですが、夜会ドレスなので真っ黒はいけません。では金色は?と相談していたものです。
全体は落ち着いた黄色、仕立て屋さんは夕暮れの菜の花畑色と言ってました。
秋色に染まる木の葉のような黄や橙や赤味の薄布を重ねて波立たせて、刺繍は間に合いませんでしたからせめてと細かい石を縫い込みました。ヴァレンティンのメイドたちや私も手伝ってどうにかなりました。
布地は良いものですし、相談していた仕立て屋さんなのでサイズも私のものですから決して貧相な装いではありません。貧相なのは私の体全体です……せめてリサくらい大きくならないでしょうか……
でもまさか王女殿下の前に出るとは思ってもいませんでした。
失礼のない訪問着とふさわしい装いはまた違うから大変です。成人前で夜会に出られない少女の理想は高そうですし。
でも、悩んだって仕方ありません。がんばりましょう。
胸につかえてお腹まで下りてこない気持ちはまだ消化できていませんが、それを顔に出さないように、今までもやってきましたから。それは大丈夫です。
なんですけど。
「エレナ?どうした」
「…………は、はい。いいえ」
うわあ、うわあ、旦那様の礼装を見るのは二度目です。以前も素敵だな、この方の隣でちゃんと引き立て役になれるかなと心配しました。でも、うわあ。
「私は大丈夫です。いえ大丈夫です? 旦那様が素敵すぎて、私ちゃんと添え物になれるでしょうか」
「添え物」
「男性は、女性ほどあからさまなアクセサリーをつけませんよね。だから紳士を引き立たせる役割をきちんとできる淑女がよろしいかと」
「……意味を間違えなければ正しい見解かもしれないが。君のそれはアレだな?あの馬鹿に、だから女は華やかであれとか言われたな?」
「はい私では殿下のお役に立てなかったので。今はみんなにがんばってもらいましたから、少しは見られるようになっていると思います。でも旦那様が格好いいですどうしましょう」
「素直に喜べないな……いやそうじゃない。エレナ」
名前を呼ばれたのではいと返事をすると、少し腰を折った旦那様が右手をさし出されました。
それに私の右手を重ねると了承とされたのか、手袋をした手を持ち上げられて、ちっとロビンが鳴くような音がしました。きっと私の髪はピカピカ光っていて、顔は真っ赤になっているんだろうと思います。熱い、熱いです。
「美辞麗句を持たないつまらない男ですまないが、これだけは言える。君はとても美しい」
手袋越しに触れる手が、指先が手首の内側をすっと撫でてくすぐったいです。
ゾクゾク、します。
「広間にいる誰よりも、一番、君が綺麗だ。そんな君が私の妻だと見せつけてやりたいが」
お化粧しているのを気遣ってくださったのか、頬には触れず、耳に旦那様の耳が触れました。
「閉じ込めておきたいな。……ベッドの中に」
昨夜のことを思い出して、脚から力が抜けるところでした。いえ、ほぼ立っていられない状態で、旦那様の腕が腰に回って支えてくれましたが。これはこれで近いですどうしましょう。
「駄目です僕の心臓がもちません」
「まともに喰らうと本気でもたないからな。笑っとけ」
……ホセとアーロンさんがすぐ近くにいるのを忘れてました。
「エレナ。どこにならキスしてもいい?」
え、すること前提ですか?ええ?
「旦那様ダメです!ここで紅を乱すの禁止!はいどうぞいってらっしゃいませ!」
……リサもいること忘れてました。
でも追い立てるように送り出してくれて良かったです。旦那様はむう、と口元を歪めてましたけど。
狩猟会の間に開かれる夜会はもちろんエストラダ公爵主催です。
ただ公爵夫妻はご年齢のこともあって、最初の挨拶と幾人かと言葉を交わされただけで退席なされました。その後はご子息の小公爵が中心となって場を華やかに彩ってました。
エストラダ公爵の甥、という立場の旦那様に儀礼上お声掛けされる方はいらっしゃいましたが、やはり今まで社交をされなかった辺境伯という印象が強いようで囲まれるようなことはありません。
ただ視線は、あります。とても。
男性はほとんどの方が日中は狩りに出ますから、ライムンド様の姿をしっかり見たのは初めてという方も多いと思います。
私と同年代の年若い子息もいらっしゃいますが、それでもあまり多くない真っ黒な髪と端正な顔立ちは目を引くものです。素敵ですから。それは間違いないんですけど。
胸につまったものが上手く飲み込めません。
まっすぐに立ってマナーを守った礼をすることはできても、息が上手くできない気分。
なので、ダンスの曲が始まった時に旦那様からさしのべられた手を見て、ちょっと考えてしまいました。
「旦那様、踊られるんですか?」
「何とかなるとは、思う」
「無理なさらなくて大丈夫ですよ」
「確かに、これ以上君を男共の視線にさらしたくはないが。いっそ見せつけてやろうかと」
これまでも好奇の視線にさらされてきたので、自分に向けられる視線とその感情は知っていますが。今日はそんなことなかったので首を傾げると、旦那様は少し困った表情をされました。
「踊りたくはない?」
「いいえ、そんなことはありません。でも練習はしてきましたが、実際に踊ったことがないので」
「では私が初めてだな」
困った顔から嬉しそうな笑顔になるのを、とっても近くで見てしまいました。
また、顔が熱くなります。
旦那様と初めて踊ったのでおそらくぎこちない形ではありました。でも嬉しい。胸のつかえなんか踊っている内にどこかに振り落としてしまったみたいです。
私一人ではいろいろなことができなくて、だけど旦那様と一緒だと大丈夫。
すごいです。
「ライムンド様、楽しいです、嬉しいです。大好きです」
曲の途中の変なところで旦那様が足を止めたので、足を踏んでしまいました。ごめんなさいと謝る前に腰を抱き寄せられて、ほとんど持ち上げるような形でぐるんと回されました。
子供を持ち上げてあやすみたいな感じですか。床に下ろされたところで曲が終わり、終わりのご挨拶をするべきなのに驚きで瞬くことしかできませんでした。
「いやあ、お前が踊る姿を見られるとは思わなかった」
どうにかダンスの輪から壁際に戻ると、バニュエラス公が迎えてくださいました。そういえば、今まで広間にいらっしゃったでしょうか?
「建国祭の時も思ったが、夫人は妖精のように可憐だな。そこの男に愛想が尽きたら、どうだ私の所へ来ないか?なあに看取ってくれるだけでいい」
「閣下」
「はは、本気だぞ。それよりライムンドには報告が来ている」
報告、と胸の内でくり返していると閣下は「また」と軽やかに片手を振って人の間にまぎれて行きました。旦那様を見上げると、優しく背中を押されたのでうながされるまま歩いて。
広間を出た廊下にはアーロンさんとホセが待っていました。
腕が離れると、すっと気温が下がったような錯覚が訪れます。旦那様のお隣はいつもあったかいです。アーロンさんと二人で顔を寄せ合うように少し話されると、アーロンさんもまた閣下のように身をひるがえしてどこかへ向かってしまいました。
その間に、王女殿下にお渡しするお菓子のことを思い出して、広間の扉付近にいたメイドに頼みます。
「エレナ」
「すみません旦那様。ちゃんとお伝えしてなかったんですが、これから私」
「王女殿下に呼ばれているんだろう。アーロンたちから聞いている」
あ、そうですね、昼間は二人も一緒でした。私が着替えている間に報告されていてもおかしくないですね。
言いたくないなんて、やっぱりワガママでした。こうやってちゃんと言えないまま旦那様に伝わるなら、自分の口から説明すればよかったです。
夜会の間に会場を離れることも、旦那様と殿下には会って欲しくないことも。
「そうだな、いっそ王女殿下のところの方が安全かもしれない。私も後で向かうが、迎えに行くまでは殿下のところにいてくれ」
お迎えは、嬉しいです。でも安全かどうかとは。
首を傾けていると、旦那様は使用人が行き交う廊下の左右を見渡しました。広いですから邪魔ではないでしょうが、メイドに頼んだお菓子のバスケットを待っているので移動はできません。
「ホセ。ちょっと声を散らしてくれ」
「辺境伯は僕のことを便利な魔力道具だと思ってません?」
「そうだエレナ。ホセは本当に器用でな、イングレイスでも魔力回路を仕込んだ道具が生産できるかもしれない」
「え、あれは技師の一門にしか作製できないのでは?ホセもできるんですか?それはすごいです!わ、えと、お礼しましょうホセ何がいいですか?」
「……っご褒美ありがとうございます!やりますやらせていただきます!」
廊下の端から一歩も動いていないのに、まるで窓を開けて夜風を取り入れたようにふわっと風が通り抜けました。
いえ、つむじ風のようにくるくる回っている?ような?
だけど旦那様の黒髪も私の耳飾りも揺れてはいません、三歩くらい離れた場所に立っているホセの胡桃色した髪だけがふわふわ風に舞っていました。
内緒話だからと旦那様は言いました。
夜に浮かぶ猫の目に似た、金色の目が近づいて心臓が痛むように鳴ります。
「調べてはいたんだが、先ほど確認が取れた。『あの馬鹿』が幽閉先からいなくなった」
「……はい?」
でも、聞いた言葉は別の意味で心臓に悪かったです。
旦那様が口悪くそう表現する方って、ええと、殿下のことですか。お兄様の方。王陛下の下命で過ごすようにと示された館を出るのは、もう王命に背く行為です。
待遇に不満があってもそんな短絡的な行動を、と疑う私に旦那様は重ねて言いました。
「だから、馬鹿なんだろう」
返す言葉がありません。




